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「ですからライ殿です」
アンカー伯爵がこともなげに言う。
「私が番号を書いてふざけてしまったのは申し訳なかったと思っています。ですが、こんな嫌がらせしなくても良いじゃないですか」
「嫌がらせ?」
怪訝そうなライの声に、アリーナは頷く。
「そうでしょう?あの料理を騎士団副団長が作ったなんて荒唐無稽な話が冗談や嫌がらせじゃなくて何だって言うんですか」
「アリーナ嬢は信じてないんですね」
「信じるも何も、信じる根拠がありませんから」
「……伯爵……今日は私のわがままに付き合ってくれて感謝します。アリーナ嬢と話し合いが必要なようですから、これで失礼します」
ライが立ち上がってきびすを返すと、それに引きずられるようにしてアリーナが移動する。腕を取られているためにアリーナにはどうしようもない。
「何?ちょっと待って! やだ引っ張らないで!」
実のところ、仕事に明け暮れるアリーナは、今日のような格好にピッタリのヒールの細い靴は履き慣れていない。なので、無理なスピードで歩こうとすると、必然的に足元はおぼつかなくなり……転ぶ。
いや転びきれなかったのは、ライがとっさに体を受け止めてくれたお陰なのだが、それでも足元は崩れているし、体勢を建て直そうとした瞬間、ころんと細いヒールが床に転がった。
「ヒールが折れましたか」
ぼそりと呟くライの声にアリーナがライを見上げようとした瞬間、アリーナの視界が大きく動いた。
「ちょっと!」
ライの肩に届かなかったアリーナの視界は、今はライの肩を越している。
「ちょっと!担ぐって何なの」
アリーナはライの肩に担がれていた。何かの荷物のように。そのせいでライの肩よりも視線が高くなった。
その代わりと言っては何だが、アリーナはライの背中を抗議の意味で叩く。
ただ、アリーナの姿勢では力が入らないため、ライには全くダメージになっていないが。
「ヒールが折れて歩けないなら仕方ないですね」
「仕方なくない!下ろして!どこに行くの」
「話し合いが必要だと言ったでしょ」
「私には必要ありません!」
「いや必要あります」
ライがドアを開けて部屋を出た瞬間、まだ会場に残っていた人たちの視線がアリーナに集まる。
アリーナは暴れるのを諦めた。これ以上人目を集めたくはない。……充分集めてはいるのだが。
「どこへ」
話し合うって言って担いで連れていかれるところなどアリーナには想像もつかない。故に、訝しいのと担がれている不満に、アリーナの声はさっきまでのよそ行きの声とは違い、普段の地声である低さまで下がる。
「うちへ」
「は?」
アリーナの頭がライの答えの理解を拒否した。
「うちへ。安心してください、アリーナ嬢を取って食う趣味はありません」
飄々とアリーナに魅力が乏しいと言ってのけるライに、一瞬怒りがわいたものの、冷静にそれもそうか、と納得したアリーナは、少しだけ振り上げた手から力を抜いた。
「……怒らないんですか」
その質問からして、ライもアリーナに失礼なことを言った自覚はあるらしい。
「事実に怒っても仕方ないでしょ」
いつかの出来事を思い出して、アリーナは呟く。
アリーナに魅力がないと言ったのは、元婚約者だった。……正確には元婚約者予定者だった。正式な婚約が整う前に、アリーナはそう言ってフラれてしまったのだから、はっきりとした傷がついている訳ではない。だけど、侯爵家の娘でありながらこの年までアリーナに婚約者すらいなかったのは、その魅力のなさも原因だろう。
「悪くはないと思いますけどね」
先程魅力がないと言った口でよく言えるものだと、アリーナは呆れつつ、ライの浮き名を思い出していた。
かれこれ結婚前提に付き合った相手は10人は越えていると言われていたような。情報が正確ではないのは、アリーナのライに対する興味が薄いことが原因だ。なのになぜ細かい数字を何となくでも覚えているかと言えばアリーナの職場にライフリークがいて、ライの情報を常に垂れ流しているせいだ。
そこまで考えて、アリーナはいまの状況が格好のネタになることに気付く。ただ気づいた今の状況はとくに変えられないわけで、いまさらバタバタ暴れて更に注目を集めてもいけない、と、玄関の扉を開けるまでは思っていた。
この屋敷は、それなりに人通りの多い場所にあって、嫌でも注目を集めるということをアリーナは失念していたからだ。