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身じろぎしてアリーナは目が覚める。目の前に見慣れない壁があって、アリーナはハッとしてガバッと身を起こす。
部屋を見回すと、そこは壁同様見慣れない部屋で、一瞬混乱して、ここがライのうちだと思い出して、ふ、と息を吐く。
そうだ昨日、ライとアリーナの両親によるはかりごとで、アリーナはライの家でしばらく寝泊まりをする羽目になった。
幸いだったのはライの家に寝室が二つあったことで、ライの部屋に連れ込まれるようなことがなかったことと、昨日は結局キスを始めとする接触がなかったこともある。
ほっとすると同時にアリーナは鼻をくんくんと鳴らす。
アリーナが目覚めたのは、鼻にいい香りが届いたからだ。ライは既に起きているらしい。
「いい匂い。」
アリーナは起き上がると身支度を始める。
とりあえず仕事用の服で武装して気合いを入れようと思う。
それでないとライに呆気なく負けてしまいそうな気がしたからだ。
もちろん負ける気はない。だから気合いを入れるためにアリーナは完全武装をする。
ひっつめ髪に肌の露出が少ない服装をすると、アリーナは戦える気がするのだ。
男性が優位な社会で。
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「おはようございます」
アリーナが階段を下りて見えたライは、昨日寝る前の格好と同じで、ゆったりとした部屋着のままだった。アリーナの声に反応してかまどに向けていた顔をアリーナに向ける。
「アリーナ! おはようございます。今日も変わらずかわいいですね。顔を拭くタオルは出ていますから、顔を洗ってきてください」
ライの言葉につっこみを入れたかったが、アリーナは飲み込んだ。どうせライの甘い言葉は平常運転だ。スルースキルを常時発動するしかない。
「はい。ありがとうございます」
アリーナはそのまま湯殿に向かう。顔を洗いながら今日の予定をシュミレーションする。
とにもかくにも登城したらファリスに手紙を出そう。それから今日が締め切りの仕事の最終チェックをして、決済に回そう。今日は昨日できなかった雑用をやって、他の仕事も進めよう。今日締め切りの仕事があるから、もしかしたら新しい案件が渡されるかもしれないし。
冷たい水に気が引き締まるのと同時に、アリーナの頭はほぼ仕事モードに変わった。
部屋に戻ると、ライはまだかまどに向かったままだ。
「…着替えなくて大丈夫ですか」
ライも今日は仕事のはずだ。ライのゆっくりとしている様子に、アリーナは普通に心配になった。
「ああ、もうそんな時間ですか。慣れないことをすると時間の感覚がずれますね。…でも、まだこれが終わっていないので。」
ライはかまどにあるフライパンから視線を外さない。アリーナが覗き込むと、作業台の上にはおいしそうな焦げ目がついたフレンチトーストが皿に並べられている。おいしそうな匂いの正体はこれだったのかと、アリーナはごくりと唾を飲み込む。漂っている匂いもおいしそうだが、その見た目も紛れもなく美味しそうだ。
アリーナはかまどに近づく。
「中にはチーズとハムをはさんであります。お好きですか」
ライがアリーナを見る。
チーズとハム! アリーナの気持ちが跳ねる。フレンチトーストと言うだけでもおいしそうなのに、更にそれにチーズとハムをはさむなんて! 何て…何て人の好みを鷲掴みしてくるんだ!
ライにクスリと笑われて、アリーナは我に返る。いやいや、こんなことで懐柔されていてはいけない。
「お好きなんですね。良かった」
すっかりアリーナの気持ちはライにばれたらしい。
気まずい気分で、アリーナはライに声をかける。
「遅刻とかしないでください」
「ええ。でも、これに焼き目をつけたいので。」
焼き目をつける。…つまり、焼くだけか、とアリーナは理解した。
「それなら、私にもできますから。着替えてきてください」
「え?」
ライが驚いたようにアリーナを見る。
「焼くだけでしょう? …いくら料理ができないって言ったって、それくらいできます」
アリーナはムッとして言う。…やったことはほぼないけど、という言葉は言わないでおく。それだけでライに弱みを握られるような気がしたからだ。
「…そうですか。じゃあ、お願いしてもいいですか」
「ええ。」
アリーナの返事に、ライが立っていた場所を譲ると、お願いしますと言い残して2階に上がっていく。
「焼くだけなら、私にだってできるわ」
ライがいなくなった部屋に、アリーナの呟きが落ちる。
焼くのなんて、見ているだけでいいはずだ。
じっーっと、アリーナはフライパンの中を見る。ただ、じっと見続ける。
一体どれだけの時間見てればいいんだろう、という疑問がアリーナに湧き出たころ、おいしそうなにおいの中に、焦げたようなにおいが混ざる。
あ、と思ったときには、黒い細い煙がフライパンから立ち上った。
「ちょっと、焼きすぎですね」
いつの間にか騎士団の服に着替えたライが隣にいて、かまどからフライパンを離した。
「…ゴメンナさい」
きっと今、あの焼いていた面は黒焦げになっているんだろうとアリーナだってわかる。本当に申し訳ない気分になる。
「いえ。アリーナが見てくれていたって言うだけで、おいしい隠し味になります」
にっこりと笑うライが本気じゃないことを願うくらいしかアリーナにはできなかった。




