34
「ガイナー室長、この度はお手数をおかけしました。大変申し訳ございません」
ガイナーとアリーナが女官長の部屋に足を踏み入れると、女官長が深々と頭を下げていた。既に先ぶれは出されていて、ファム公爵の名代がこの部屋に訪れると女官長もわかっている。
「ほら、あなたも!」
女官長がショパー侯爵の娘に頭を下げるように促す。ショパー侯爵の娘は渋々、と言った体で、頭を下げた。
ものすごく態度が悪い。ここに自分より上の身分の者がいないと思っているからだろう。
「あの女にちょっと嫌がらせしただけじゃない。大げさね」
ぼそ、と呟いた言葉は、静かな部屋に響いた。やはり反省など微塵もしていないらしい。
「女官長?」
反省が足りていないようだが、という言葉をガイナーがその名前に含ませた。女官長は申し訳なさそうな表情で、もう一度頭を下げる。
「折角来るんだったら、こんな美女連れてこないで、あの女連れてきてくれればいいのに。」
ショパー侯爵の娘は、女官長が頭を下げていることなんてお構いなしだ。
「どうしてでしょうか。」
ガイナーも対外的には普通の言葉遣いもできるんだな、とアリーナは関係ないことに感心していた。
「だって、私が用があるのはあの女よ」
「あの女、とは?」
ガイナーが問いかける。
「嫌だ、わかってるんでしょう? アリーナって女よ」
今の今までアリーナも気づいていなかったのだが、もしかしたらショパー侯爵の娘は、アリーナが同格の家の娘だとは気づいていなかったのかもしれない。確かにアリーナは貴族が出るような晩餐会や夜会にも顔は出さないし、働いている部署は基本的に庶民が働く部署だ。知られていなくてもおかしくはないのかもしれない。
「何か御用でしょうか?」
アリーナが軽く礼を取ると、ショパー侯爵の娘が眉を顰める。
「貴方には用事はありません。どうして連れてこられたのか知らないけど、関係ないんだから黙っておいて」
「貴方が呼んだアリーナは私のことなんですが」
は? というショパー侯爵の娘の声が聞こえて来そうだった。
「…何を言ってるの」
「アリーナ・パレと申します」
それだけで十分だった。ショパー侯爵の娘の表情が驚愕したものになる。
「アリーナ・パレ?!」
どうやら本当に気付いていなかったらしい。
「えーっと、顔が…違うんですけど」
その疑問は、確かに正しい。顔は全く違う。アリーナもわかっている。
「ええ。そうかもしれません。でも、午前中にあなたと会ったのは私に間違いありません」
「えーっと、パレ家の方があんな部署にいるとは思わなくて…。」
さんざん侮辱したのは自覚しているんだろう。
「ショパー侯爵の領地が長雨に悩まされたのはご存知?」
小さい子に噛み砕いて言うときみたいにゆっくりとした口調でショパー侯爵の娘に告げると、リリアーヌはそんなことは知っているとばかりにムッとした表情をしてキッとアリーナを睨む。
「そんなこと知っていて当たり前でしょ」
貴族の令嬢の中には領地のことなど全く興味もなく領地で何があったと話に聞いてはいてもそこに住んでいない自分には関係ないと思っている令嬢もいる。その点で言えば、リリアーヌはまともな部類だろう。
だが、アリーナのいる部署が何をやっているのか、それがその話とどう繋がるのかすぐには思い至らないところは、リリアーヌの思考の浅さを感じられる。
アリーナも7年も前ならこうだったのかも知れないと思ったが、そうだったとしても、こんな下らない嫌がらせはしない。
「作物が流され、大変な被害が出ましたね?橋も流されて交通にも不便が出ましたよね」
「そんなこと言われなくても知ってるわ!お父様たちがどれだけ心を砕いていると思っているの」
そういうことにまで思い至れるのに、かえすがえす残念だ、とアリーナは思う。
「その被害を出した川の工事を行うことになったのは知ってますね」
「当たり前じゃないの!お父様たちが頑張って国から支援してもらえることになったのよ」
誇らしげにそう言ったリリアーヌは、はっ、とした表情をした。気づいたのならまあまあ合格かなとアリーナは思う。これで気付かなければ、公爵の名前を思う存分借りていたところだ。名代は正確にはガイナーなのだが。
「私たちの部署は、数字を扱う部署です。女官たちの普段使いの予算から大規模な工事の予算まで扱います」
「…それで…ショパー侯爵領についた予算をなかったことにするわけですか」
「そんな権限が一文官にあるわけありません。我々は沢山の仕事を抱えていますので、このような仕事外の仕事を増やさないでいただけますか?そうしないと、私たちの仕事が滞って、ひいては、その予算を使う案件の実施に遅れが出ます」
アリーナの話を聞いていたリリアーヌは、徐々にほっとしたようないたたまれないような表情になる。
どうやら言いたいことは理解されたらしいとアリーナもほっとする。
無闇に言い争う必要がなくなったからだ。
これで仕事に戻れるとほっとした。リリアーヌからの嫌がらせも、仕事に関するものはなくなるだろう。
「大変申し訳ありませんでした」
きっちりと頭を下げたリリアーヌは、ようやく反省に至ったらしい。
「それでは、これはお返しします」
ガイナーが書類を女官長に渡し、アリーナたちはその部屋を後にする。
 




