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アリーナは案惨たる気持ちでベッドに沈む。
先ほどまでダニエルがアリーナの部屋のドアを叩いていたが、アリーナは一切無視した。
ダニエルの言い分では、今日の昼休みの出来事を耳にした上、ライに相談されたので、未来の義弟の力になることにしただけで、全くダニエルの利害は関係ないこと、
アリーナの仕事に対する気持ちを軽く考えているつもりはなかったが、それほどまでとは思っていなかったためにあのような言い方になってしまったとの謝罪、
そして、ライと結婚をしないということについて考え直すこと、
だが、今の時点ではアリーナが結婚することになると今の仕事はやめざるを得ないこと、
と、ダニエルの言い分では、結局アリーナの選択肢は“ライと結婚しない”しかないじゃないかとしか思えない内容だった。
問題は、昼のガイナー同様ダニエルもライの完全なる味方になってしまったと言うことだ。
ガイナーはもともとライに傾倒していたわけなので、遅かれ早かれこうなったのかもしれないが、アリーナにとっての大打撃は、長兄であるダニエルがライ側についてしまったことだ。
ダニエルは、アリーナが今の仕事に就くために学院を移りたいと言い出した時、一番の理解者だったと言っていい。大抵の貴族が進学する学院に在籍していたアリーナが、庶民が城で働くための技能をつけるための学院に移りたいと言い出したことは、アリーナの両親にとっては、もろ手を挙げて賛成できる話ではなかった。
アリーナの婚約が整わなかった原因がアリーナの壊滅的な料理の腕にあったとは言え、アリーナの両親はまだアリーナの結婚を諦めているわけではなかったからだ。
貴族の女性は、アリーナがもともと通っていた学院に通い、行儀見習い的な女官として城に上がるのが一般的だ。そして結婚したらその職を辞す。アリーナはそれを否とした。もう結婚はしない、ずっと城で働いていくために手に職をつけたいと言い出したわけだ。
アリーナの両親が頷くわけもない。
だが、ダニエルの協力のおかげで、アリーナは無事学院を移ることができ、手に職をつけ、今の職場に就職ができた。
今の職場に就職ができたのは、アリーナ自身の能力が優れていたからに間違いはなくて、そこにダニエルの影響は全くないが、ダニエルが協力してくれなければ学院を移ることは困難だったため、やはりダニエルのおかげで今の仕事に就けたと言っていいだろう。
ダニエルだって、最初からアリーナに進んで協力的だったわけではなかったが、アリーナの作ったカプレーゼを食べてから明らかに協力的になった。
…そう言えば、カプレーゼを食べて「どうしてこんなことに」と言ったのはダニエルだった、とアリーナは思い出した。
そのアリーナにとっては一番の理解者だったと言っていいダニエルがライ側についてしまった。もう両親はライとの結婚に乗り気で、アリーナ側にはついてくれないだろう。
アリーナの他の兄弟を考えても、次兄のエリックは面白がりそうではあるが、アリーナが学院を移るときも同じように面白がっていただけで役には立たなかったことを考えると、今回も役には立ちそうにない。
姉の現実主義者であるサーシャと恋愛脳のノエルの2人は、ライとの結婚を薦めはしても辞めるのに協力はしてくれないだろう。
そもそも、他の兄弟の誰かが協力してくれたとしても、ライとダニエルと言う組み合わせに勝てる気はしない。
やはり、最後の砦のファム公爵を盾に逃げ切るほかはなさそうだ、とアリーナはため息をついた。
いつもと同じように遅くに帰って来た上に、簡単に身支度をしてダニエルが口にするものを用意したりダニエルと話したりと、結構遅い時間になっている。明日も仕事だ。もう着替えて寝ようとアリーナはのっそりと起き上がる。
用意されていた寝間着を着ながら、ふいに、アリーナの味方として力になってくれそうな友人を思い出す。だが、寝間儀を着終えてベッドに座ると、アリーナは首を横に振った。
もう友人と呼んでいいかもわからない間柄だ。良くて知り合い、悪ければもう顔見知りとしか説明されないだろう間柄だ。
10年前、アリーナが通っていた学院を辞めると決めた時、けんか別れしてしまった友人だ。結局そのまま仲直りもしないまま、10年経ってしまっている。アリーナが貴族が顔を出すような場所に顔を出さなくなったのもあるし、けんか別れしてしまったために交流は完全に途絶えてしまっている。
今更接触を持とうとしても、簡単に会えるような相手でもなくなってしまった。10年前であれば会うのは簡単だったが、5年前にその友人が結婚してからは、貴族が集まるような場所でしか会えなくなってしまった。アリーナがその友人を直接見るのは、もう国民の1人としてその他大勢の中から城のバルコニーを見上げる時だけだ。
アリーナの友人は、今は第3王子妃として、同じ城の中にはいる。だが、同じ城の中にいると言っても、アリーナの部署の人間が王家の人間とすれ違うことはない。それが、女官として城勤めをしていたら、会うことはあったのかもしれない。だがアリーナの部署の人間は基本的に庶民であり、直接、王族と関わることはない。だから、5年も同じところで過ごしているにも関わらず、アリーナはその友人に偶然でも会ったことはない。
アリーナはその友人の顔を思い出して、また首を横に振った。そして、のそのそとベッドに入り込む。
その思い出せる友人のはっきりとした顔が、10年前のままだと言うことが、アリーナの胸を締め付ける。
アリーナが家事全般できないということを教えたことのある友人は、今まで誰もいない。
アリーナが家事全般できないことを直接知っているのは、アリーナの家族と、この家に働く者たちと、そしてライと、思い出したくもないが婚約予定者だったものだけだ。
それは、アリーナのプライドのせいだ。この国に住む女性にとって女子力が低いという事実を伝えることがどれだけ恥ずかしいことか。26歳になっても誰彼構わず話すことができないことを16歳の女の子が誰かに伝えるなんて難しいことだ。
そのプライドのせいで、アリーナとその友人は仲違いしたと言っていい。
16歳の頃のアリーナは、その16歳という年で精一杯の世界観で、結婚はしない仕事に生きると決めた。それは貴族の娘としてもとても大胆な思考だったことは間違いなくて、その考えを理解してくれる女性など周りには見当たらなかった。家事能力が低いと知っている血を分けた姉ですら止めたくらいだ。それが同年代の女性に理解されるわけもない。
でも、その友人とはアリーナがそう決めたことを理解できないから仲違いしたのではない。その友人は理解できないけれどアリーナの考えは尊重すると言っていた。だけど、いつまでたってもアリーナがその本当の理由を言ってくれないことに気付いて怒って仲違いすることになった。
アリーナがいつまでたっても本音を話してくれないことを怒っていた。
だけどアリーナは話せなかった。
婚約予定者によってずたずたにされたプライドを、誰かに見せることができなかったからだ。
ライに家事全般ができないことを告げてしまったことは、今となれば自分でも不思議でしかない。だが、今ならば言えるのかもしれない。
一番仲が良かったあの友人に、今ならば言えるのかもしれない。
アリーナは、ふ、と息を吐くと目を閉じた。
たぶんもう直接話すことが叶わないだろう、ファリスの声をまた聴きたいと思いながら。
 




