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「アリーナ、珍しく時間がかかったな。」


 居間のソファーにダニエルと向かい合うように座ると、簡素な服に着替えて本を読んでいた兄が、アリーナを見てクスリと笑った。


「私だって、時間がかかることはあります」

「…そうだな。アリーナも女性として身だしなみを考えるようになる日がくるとは思わなかったな。」

「そうね」


 そんなこと微塵も考えてなかったが、アリーナは曖昧に頷いておいた。


「失礼します。お茶をお持ちしました」


 女中頭が、お茶のセットとお茶請けをカートにもって現れた。


「お兄さま、入れて差し上げましょうか?」


 アリーナの声に、ダニエルは肩をすくめて首を横にふった。


「私は遠慮しておくよ。ライ殿にそのうち入れてあげなさい」

「そうね。気が向いたらやるわ」


 アリーナのやる、は、“do”ではなく“kill”。つまり、“遣る”ではなく“殺る”だ。

 冷静にはなったが、アリーナは今の状況を引き起こしたライに絶賛怒っている。


「ああ、レバーパテだ。お茶じゃなくてお酒が欲しいね」


 ダニエルはレバーパテが大好物で、女中頭が持ってきた小さなクラッカーにレバーパテが乗っているのをめざとく見つけた。


「兄様、お酒を飲むと冷静さを欠いてしまうから今はやめてください」

「そうだね。アリーナの将来に関わる話だ、酒はあきらめよ」


 肩をすくめたダニエルは、パテの乗ったクラッカーを取ると、口に放り込んだ。

 もぐもぐ、と咀嚼していたライの表情が2回目に噛むときには困惑した表情になり、あっという間に、しかめっ面になる。ダニエルはそばに立つ女中頭に口元を指差しながら何かを訴えようとしている。


「兄様どうかされましたか」


 アリーナの問いかけに、ダニエルがワゴンの上を指差している。


「ナプキンが欲しいんじゃないかしら。」


 アリーナが言いながら立ち上がると、ダニエルがコクコクと頷く。アリーナがナプキンを取るよりも先に、女中頭がナプキンをダニエルに渡した。

 ダニエルはさっと口の中にあったものをナプキンにくるむ。

 でも吐き出したあとも苦々しい表情は変わらず、ダニエルはテーブルの上のカップをつかむと口の中を洗い流そうとでもする勢いでお茶を口に入れた。

 が、次の瞬間、ブーとすごい勢いでお茶がアリーナの座っていた場所に向かって吐き出された。

 アリーナは自分の判断が間違っていなかったことに安堵していた。

 あのまま座っていたらソファーのかわりにアリーナがあのお茶とクラッカーが混じったものを被るはめになっていたはずだ。


「ダニエル様、大丈夫ですか」


 女中頭がダニエルに新しいナプキンを渡す。


「…サブリナ、これは、何だ?」


 女中頭からナプキンを受けとると、涙目になったダニエルがテーブルの上を指差して女中頭を睨む。

 でも、ダニエルが小さい頃からの付き合いがある女中頭サブリナは、そんな睨みなど効きもしない。

 女中頭はにっこりと笑う。


「アリーナ様の力作です」

「アリーナの」


 ダニエルの驚愕の視線がアリーナに向く。

 アリーナは勿論にっこりと笑った。確かに作った。食べ物を粗末にするつもりはなかったが、料理番特製のレバーパテを譲ってもらいアリーナが美味しくなると思った隠し味を混ぜてみた。アリーナも自分が良いと思った隠し味が不味いことになると少々理解はしている。隠し味を選ぶたびに、料理番が「あぁ。」とか「え。」とか、声にならない声を漏らしていたから、たぶん不味くなっただろうことには自信があった。

 ちなみに盛りつけたのは料理番だ。アリーナがやっていたら一発でばれてしまうと思ったから、料理番に頼んだ。料理番はとても複雑そうな表情で盛りつけていた。

 お茶は前回と同じように入れてみただけだ。あの時立ち会ってくれた3人も前回どうしてあんなことが起こったかわからなかったようだが、今回もぶれずに不味かったらしい。


「どうして止めない」


 ダニエルの視線がまた女中頭に向かう。


「だってぼっちゃまがアリーナ様がどれだけ今の仕事を一生懸命されているか理解されておられないようですし、我々職業婦人をとるに足らないものと考えていらっしゃるようでしたので、私どもはアリーナ様に協力させていただくことにしました」


 そう言って女中頭がきれいに腰を折る。

 だから、料理番もレバーパテをすんなりと提供してくれたのだ。そうでなければアリーナのやることを止めたかったに違いない。


「いや、そんなことは言っていない」

「いえ。兄様は間違いなく私が部署を変わればいいと簡単に言ったわ。それがどれ程私がショックだったか分かる?…まあ、分からないから言えるんでしょうけど」

「そんなつもりは…。」


 ダニエルが目を伏せる。

 その表情を見ながら、アリーナは小さくため息をつく。ダニエルはまだきっときちんとは理解できていないと。


「私はただ仕事を続けたいわけじゃないの。今の仕事を続けたいの。それが理解できない相手と話す余地などないわ」


 アリーナはきびすを返すと、ドアに向かう。


「アリーナ!」


 アリーナは冷たい視線で振り返る。


「ダニエル兄様、ライ様との結婚が兄様にどんな利があるか知らないけれど、もしその権力で無理矢理にでも私から仕事を取り上げようとするのなら、私はこの家との縁は切るわ。どちらにしろライ様と結婚はしません」

「違う! アリーナ、話を聞け!」


 ダニエルが焦ったように立ち上がるが、アリーナはさっさとドアを閉めると、自分の部屋に駆け込んだ。

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