1.再会
養老6年(722年)10月のある日、虫麻呂は帝都・平城京にいた。
平城京は朱雀大路を境に東が左京、西が右京に分かれている。のちの平安京時代と違い、左京が著しく繁栄し右京が衰退するという事はなかったが、左京に比べ、右京は落ち着いた印象を与える。
虫麻呂は、その右京の一角を歩いていた。長い間東国の常陸国にいた故、やはり都の人の多さ、活気には驚かされる。
虫麻呂ーのちに異色の歌人として万葉集に数々の作品を残したその男、高橋虫麻呂は常陸国から国府の御用にて都へ上ってきていた。
虫麻呂は位でいえば初位、ほとんど最下層に近い下級役人である。当然上役や同僚とともに上京してきたのだが、1日の休暇を与えられたのだ。
休暇中は都の中を自由に行動して良い。何ともフリーダムなものだが、徴発された庶民ならいざ知らず、彼らに脱走という法はない。たとえ薄給・激務のブラックな律令官人とはいえ、律令体制の下、国家から身分を保障され、給料をもらい、ささやかながら衣食住を与えられている訳だ。脱走や反抗を考える者など謀反人位であろう。
ひとりで出歩くというのはどうか。平城京というのは時期にもよるが、日中は、余程の裏街か都の外れ付近でもない限り、意外に治安は良かった。弾正台の役人が絶えず巡回し、目を光らせている。一般庶民にしてみれば見張られているみたいで良い気はしないが、犯罪の抑止には多大な効果を発揮していた。
虫麻呂は元々都育ちである。その辺りの事情は良くわかっていた。だから、左京程ではないが、活気溢れる市をブラブラ所在なげに歩いていた。
とある文房具を売り、修理している店の前で足を止めた。そういえば、日頃愛用している筆が随分くたびれていた。物を書く事が好きな虫麻呂にとって筆は命の次に大切な物だ。役所勤めでも筆にはこだわり、支給された物を使わなかった。いつも自分で選んでいた。同僚たちからは怪訝な顔をされたが、どうせ歯牙ない下級役人、せめて筆位はこだわりたいさ。妙なプライドがあった。
虫麻呂は、店の主人に筆を見せて尋ねた。
「主人、この筆、手入れできるかい? 」
「ああ、旦那、これはもう買い替えた方がいいなあ。良くここまで使ったものだ」
結構愛着のある筆だったが、仕方がない。ならばどうしようか。並べられている筆を物色しようとした時、後ろから声をかけられた。
「よう、虫麻呂殿じゃないか」
虫麻呂は振り返った。そこに立っていたのは、年は30歳過ぎくらい。虫麻呂と同じく下級役人の姿をしているが、虫麻呂よりは位の高い官服を着ている。眼光鋭く、背筋を伸ばし、堂々とした男ぶりである。背も虫麻呂より少し高かった。
相手に見覚えはない。しかしどう見ても相手の方が目上なので、物腰低く接する事にした。
「あの、失礼ですが、どこかでお会いしたでしょうか? 」
「そうか、もう3年にもなるから覚えていないか。常陸国府での歌会で末席に連ねさせていただいた。大倭忌寸小東人と申す」
「え、あ! あっ、高橋連虫麻呂と申します! 」
相手が名乗ったのに、名乗らないのは失礼だ。反射的に名乗ったが、一呼吸置くと、驚いてしまった。
(大倭小東人殿だと! )
大倭小東人といえば、いにしえよりの名族大倭一族の出身で、官位は低いが学才の誉れ高く、特に法の解釈が得意で、確か前回の遣唐使にも選ばれた筈。律令の修正作業にも携わっていると噂で聞いた。都から遥か離れた東国にもそのような噂が伝わる程の人物なのだ。そのような人物を失念していたとは。
しかも歌会に加わっていたという事は、尚更知っていなければならない。あの歌会の時、私は国守様より記録を仰せつかった。選ばれた歌と作者は失礼ながら、後で必死に写しとった。小東人殿の歌は記し忘れたか? 何故だ? それ程心にも残らなかったのか・・・・・・。
「どうなされた、虫麻呂殿? 」
「あ、いえ、別に」
「いつ都に参られた? 都勤めに異動になったのかな? 」
「いえ、国府の御用にて参りました。本日は休暇をいただいておりまして」
「そうか。で、筆をお探しという訳かな」
「ええ、手持ちの筆がいよいよ使えなくなりましたので」
「役所勤めでは、筆は支給されるであろう?」
「いえ、筆はやはり自分で選び、これはという物でなければ、私は使えませぬ」
「ほう、筆など、どれでも同じかと思うが」
虫麻呂は言ってから、内心後悔した。やはり自分のこだわりは誰にもわかってもらえない。目の前の御仁も、法には詳しいかも知れぬが、筆への愛着はないらしい。
虫麻呂が曖昧に視線を逸らしたのを見た小東人は、はたと手を打った。
「そうだ! 虫麻呂殿、賭けをしないか? 」
「賭け? 」
「虫麻呂殿の筆、私が選ぼう。もし私が見事、虫麻呂殿に合った筆を選ぶ事が出来たなら、私がその筆代を払おう」
「はあっ? 」
虫麻呂は一瞬意味を正確に捉えかねた。
「小東人殿が私の目がねに叶う筆を選ぶ事が出来たなら、その・・・・・・、小東人殿が代金を払うと」
「その通り」
「もし私の目に叶う筆を選べなければ、どうなさるのです? 」
「それは私の負けよ。筆代は払おう」
「はあ? 」
虫麻呂は、からかわれているのかと思った。
「あの、それでは賭けになっていませんよ」
「うん? 」
「どちらにしても、小東人殿が得をする事はないですよ」
「いや、名高い歌詠みの高橋虫麻呂殿お目当ての筆を選ぶなど、銭をうず高く積んでも叶わぬ栄誉! もし選べれば、これ程素晴らしい事はない! あとの事は些事よ! はははっ! 」
「・・・・・・」
「良いだろう? な、虫麻呂殿。承知してくれ」
「・・・・・・良いでしょう。そのかわり、約束は守っていただきますよ」
「当然だ! かたじけない、虫麻呂殿」
小東人は虫麻呂に軽く頭を下げると、筆が並べられた店棚に近寄った。
「主人、選ばせてもらうぞ」
「どうぞどうぞ、ごゆっくり」
小東人は筆を手にとり、握ってみたり、筆先を確かめてみたり、空に字を書いてみたり、一本一本真剣に吟味した。
虫麻呂はその様子を見て思った。
(これは、やはり相当な変わり者なのだろうか?何でもひとつの事を極められる人間というのは、やはり浮世離れしているものなのか。まあ、それを言うなら、俺もそうだが・・・・・・)
虫麻呂は内心、関わり合った事をひどく後悔していた。出来る事なら立ち去りたい。だが、ここまで絡んでしまった以上、それも叶わない。小東人の品定めの姿を見ていると、周りの視線が気になって仕方がない。どうしようもないので、無意味に伸びをしてみたり、わざとらしい咳払いをしたり、足で地面をならしてみたりして、気持ちを紛らわせてみた。経験した事のない辛さだった。
どれ程の時間だったのだろうか。熱心に選んでいた小東人が突然声を上げた。
「これだ! やっと見つけたぞ、虫麻呂殿! 」
小東人が一本の筆を持って虫麻呂に近寄ってきた。
「さあ、確かめてみられよ」
小東人が差し出したのは、竹を軸にした、何の変哲もない筆であった。毛はどうも馬などとは違う。唐物のようだ。
虫麻呂は内心うんざりしていた。筆などどれでも同じと言っていた人間が、何を根拠にこの筆が私に合うと思ったのだろう。でも考えてみれば、私が何と答えようが、彼は代金を払わなければならないのだ。
ならばどうする? 適当に「結構です。これこそ私の探していた筆です! 」とでも言って、良い気分にして帰らせるか。
それとも「全く違います! 」と全否定して、こういう遊びが出来ないようにしてやろうか・・・・・・。
「さあ、虫麻呂殿! 」
「では・・・・・・」
虫麻呂は、不承不承、筆を手にとった。
ところが・・・・・・。
「あ、ああーっ! こっ、これは⁉︎ 」
虫麻呂はもう一度筆を持ち直してみた。空に字を書いてみる。違う! 何かが違う! 今までこのような筆は持った事はない。何故だ⁉︎
虫麻呂は何回も筆を取り直し、持ち直し、空を動かし・・・・・・。今度は、毛先を念入りに調べ始めた。最早、小利口な口上を考えていた自分は消え去っていた。
額に、手に、汗が滲む。
小東人は、そんな虫麻呂を軽く微笑みながら、見守っていた。
虫麻呂は右腰に手を伸ばした。彼は右腰の帯の部分に、常に木簡を何枚かぶら下げている。仕事の為ではない。何か美しい景色や、変わった事を見聞きした時、すぐに歌や詩にしたためる為だ。家族・上司・同僚からは、みっともないからやめるよう言われたが、創作意欲はそんな事では曲げられない。その自分に必須のアイテムの1枚を掴み取ると、叫んだ。
「主人、硯を頼む! 」
主人が硯を墨で満たして持ってきた。虫麻呂は、筆を硯に浸し、たっぷり墨を染み込ませると、先程の木簡にサラサラと筆を走らせた。
書き終えると、虫麻呂は何か憑かれたように文字を見つめていた。やがて筆と木簡を丁寧に置くと、フラフラと立ち上がり、小東人の方へ少しずつ歩み寄っていった。
その様が尋常ではなかったので、通行人も、主人も、息をのんで見守っていた。
虫麻呂は小東人の前に立った。
小東人は微笑んでいる。
虫麻呂は丁寧に土下座し、地に頭をつけた。
「小東人殿! ・・・・・・いや、先生!私が、私が間違っておりました! 私はともすれば先生を軽蔑し、悪し様に罵ろうなどと考えていて・・・・・・! こ、この筆は、最高の筆です! 今まで、このような筆は持った事がない・・・・・・! わ、私には、過ぎたる筆です! 先生・・・・・・! 」
小東人は、そっとしゃがむと、虫麻呂に手を差し伸べた。
「頭を上げられよ、虫麻呂殿。私は筆を選んだに過ぎぬ。その筆をこれから生かしていくのは、貴方だ。どうか、その筆で、素晴らしい詩歌を作って欲しい」
虫麻呂は、そっと顔を上げた。顔中が涙で覆われていた。
「先生・・・・・・! 」
小東人と虫麻呂は、右京の路地を歩いていた。
虫麻呂の懐には、先程の筆がしっかりとしまわれている。
虫麻呂が小東人に話しかけた。
「先生が常陸国府で詠まれたお歌を、私はしたためていなかったようなのです。何故でしょう? 」
「ああ。その事なら、殿に聞いたよ」
「殿? 」
「もうお邸は近くだ。寄っていくかね? 」
「殿・・・・・・、お邸・・・・・・、まさか・・・・・・」
小東人は、悪戯っぽく微笑んだ。
やがて、彼らの行く手に、大きな邸が見えてきた。
1.再会 終




