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疑心暗輝(後編)

作者: 市原春季

 祝日。勤労感謝の日。

 本当にこの日が祝日で良かった、と感謝すべき日になった。

「日頃のお勤め、ご苦労様です。本日は存分に楽しんでください」と、この祝日を制定した人に言われている気分だ。

 純との再会。

 胸が高まりっぱなしである。

 丁度、互いの予定が合う日が今日だったのだが、紅葉を楽しむには少し遅かったかもしれない。でも、そんな事はどうでも良かった。純に会う事ができるだけで十分だ。だけど、彼女が紅葉を楽しみにしていたらどうしよう。……もう、なるようにしかならない。

 実は、特にこれといった計画は立てていないのである。昨日、ほんの少し周辺情報を調べただけで。というか、自分の心を落ち着かせる事で精一杯だった。純にデート(?)の誘いをして、彼女からの返信メールが来てからというもの、ドキドキして、ソワソワして……。結局、読書等の現実逃避に走って、自分の心を落ち着かせていた。

 とにかく、少しでも長い時間を彼女と過ごしたいと思った僕は、早めの待ち合わせでも良いか連絡していた。返事は〝OK〟だった。『優君のお好きなようにどうそ』という素っ気ないメールだったが。相手に流されるところまで僕に似ている。それか、僕の事はどうでもいいと思っているのか。後者だったら凹むなぁ。

 この場合、〝流される〟というよりかは〝人任せ〟といった感じだろうか。まぁ、僕の方から誘った事なので当然と言えば当然の流れかもしれないが。

 という訳で、朝の七時ぐらいに家を出て、純との待ち合わせ場所に向かった。

 一時間程、車を走らせる。そして、指定された最寄りの駅の辺りまでやってきた。しかし如何せん、こちらの地域の土地勘は無く、ちょっとした迷子になった。一旦、車を停めて、ケータイの地図を見て確認。多分、こちらの方向で合っているだろうと、再び車を走らせた。残念な事に、僕の車にカーナビは付いていない。それ程、遠くに行く事は無いと思っていたし、そもそも出不精の僕である。職場の行き帰りにだけ使えれば良いと思って購入した車だ。カーナビが付いていたところで、使う機会が無ければ無意味である。

 大概、僕が出掛けるのも涼太とばかりで、その時は彼の車で出掛ける。彼の車にはカーナビが付いているが、僕はイマイチ使い方が分からず、助手席に座ってはいても助手にすらなれない。猫に小判。豚に真珠。僕にカーナビ。そんな感じだ。

 難無く、とまではいかないが、何とか目的地に辿り着くことができた。

 約束の三十分前。八時半である。

 まだ純が来るまでには時間があるだろうと思い、僕はケータイで周辺情報やデートスポット等を検索していた。

 しかし、あまり余裕は無かった。

 十分後には純からメールが来たのである。『着いたから待ってるね』と。ふっ、残念だったな。今回は僕の方が早く着いているのだよ。

 それにしても、二十分前集合とは……。地元での待ち合わせでそれは、流石に早過ぎではなかろうか? もしや、僕より先に着いておいて、嫌味を言いたかったのか? 前回も散々言われたのだ。その可能性は大いに有り得る。

 妄想はさて置いて、僕は得意気にメールを打った。

『僕も、もう着いてるよ。純は今どこにいるの?』

 送信すると、すぐに返信が来る。

『階段の下』

 相変わらずの淡泊さだなぁ、と感心しながら車外に出る。

 まだ人の少ない時間帯。彼女を見付けるのは容易であった。彼女もこちらに気付き、僕が手を振ると、ゆっくりと何の反応も無いままこちらに向かってきた。

 ベージュのトレンチコートに白のタートルネック、そして黒のパンツスタイル。前回のスカート姿も良かったが、こちらもなかなか……。等と思って見ていると、僕の傍に来て彼女は言った。

「何じろじろ見てるのよ。変態なの?」

 恥じらう様子も無く、無表情で言う。ちょっと怖い。

「私より早く来るなんて、気合い入ってるのね」

 ……あぁ。この子が相手では、早く来ても遅く来ても、どちらにせよ結局は嫌味を言われるのだ、と悟った。前回は若干の遅刻だが、きっと時間に間に合っても彼女よりも後に着こうものなら「女の子を待たせるなんて」と言われていただろう。早く来たら来たで、この有様だ。どちらにせよ、僕は彼女には敵わない。

 ちなみに僕は、気合いを入れたくても入れられない服装で来ている。オシャレというものに、どうにも興味が沸かず、いつも同じような服装になってしまう。それでも今回、少しは気を遣ったのだけれど。黒のジャケットに紺色のセーター、そして青いジーンズ。それ程、外出することの無い僕ではこれが限界である。当然、デート用のオシャレな服等は持っていない。

 取り敢えず、「別に気合いを入れて来た訳じゃないよ」と軽く告げ(多分、余裕を持って早目に出たら早目に着いてしまった、等という言い訳臭い事は聞きたくないだろうし、そんな気配がしたので)、車へと案内する。

「狭い車でごめんね。どうぞ」

 車に乗り込もうとする純を見て、この軽自動車は然程狭い訳ではないんじゃないか、という錯覚に陥った。確かに、男の体格で言ってしまえば小さ目に感じるが、彼女ぐらいの体格であれば気にならなさそうである。彼女の身長は……、百五十センチ前半、といったところだろうか。

 彼女と目が合った。

「きょ、今日は晴れて良かったね」

 しまった。緊張して噛んだ。

「私は雨の日も好きだけど」

 雨の日「も」という事は、今日のような晴天も悪くはない、ということか。やっぱり捻くれてるんだなぁ。

 その言葉を聞いて笑みがこぼれた。そして不思議な事に、その一往復しただけの会話で緊張が解け、口まで軽くなってしまった。

「あのさ。こっちに来たのは良いんだけれど、この辺の事よく知らなくて。どこか良い紅葉スポットとか無いかなぁ?」

 馬鹿正直に話す僕に、純は呆れる。

「下調べも何もせずにこっちに来たの? ホント呆れた。そんなんじゃ、さぞかし女性にモテないでしょうね」

 全く、気が利かない。と、続けて不平不満を洩らす彼女。

 「女性にモテない」という言葉は、肯定せざるを得ないだろう。下調べについては、まぁ……。言い訳しても仕方が無いので、その事については触れずに食い下がる。

「申し訳無い。特に行く場所の見当がつかなければ、適当に周辺をドライブするでも良いんだけど。純は行きたいところってある?」

「私は別に……。優君こそ、何処か無いの?」

「僕は何処でも良いよ」

「あのねぇ。〝何処でも良い〟とか〝何でも良い〟っていうのが一番困るって話、聞いた事無い?」

 うーん。これもまた、胸に刺さる。

 でも、純だってメールで『お好きなようにどうぞ』って言って僕を困らせてたんだけど。何て言ったら、また怒られるよな。そして今も僕は困っている。

「仕方ないわね。今日は特別よ。私が案内してあげる」

 まさかの助け舟だった。

「本当!?」

「本当も何も、調べてもいないんだし、カーナビだって無いんだし。このまま言い合ってても何処にも行けないじゃない」

「そうだね。ありがとう、純」

「もっと言い方を丁寧に。へりくだったった態度で。私が助けてあげるんだから、もっと謙遜しなさい」

 へりくだる、って。なんというドSな女王様だろうか。僕も僕で嫌だと思わず、受けに回っているが。僕はマゾ気質だったのか? 自分で言うのも何だが、新発見である。

「純様。どうかワタクシめを、お導きくださいませ」

「よろしい」

 満足気に笑みを浮かべた女王様は、機嫌良く案内を開始してくれた。年下の女の子に尻に敷かれる。それもまた新鮮だ。


 外に出る事は少ない、と言っていた彼女だが、迷う事なく道案内をしてくれた。記憶力が良いのだろうか? 純は免許を持っていないと言っていたから、きっと誰かに連れて行ってもらっていたのだろうけど。その「誰か」がちょっと気になる僕。

 それはさて置いて。

 目的地への道中、車内は静かなものだった。時折、通り過ぎるものについての質問、そして応答があったぐらいか。後は道案内の指示。口数は少なかったが、そんな静かな時間も悪くないと思った。

 車窓から外の景色を眺めている純。その彼女を横目で見る僕。「おっと、脇見運転はいけない」と視線を戻す。

 涼太みたいに馬鹿騒ぎする奴も見ていて面白いが、元々僕は無口な方……というか、話すのが苦手なタイプな為、こうやって誰かと静かな時間を共有するのも良いものだ、と感じていた。彼女の心境はどうなのだろう? と気になったが。

 心地良い空気。こんな時間を誰かと過ごすのは、初めて……だと思う。

 周りに人がいない。僕と純だけの二人だけの空間。そう考えたら心拍数が上がった。落ち着いていた心が急に慌ただしくなる。前回の時のように色々な会話をしたいところだが、突然べらべらと話し出すのも不自然だと思い、取り敢えずは運転に集中する事にした。


 景色は流れ、坂道や曲り道も多くなってきた。やはり、紅葉も終わりかけか。道路に落ち葉が舞っている。木に残っている葉も、赤や黄色よりかは茶色くなっているものが多い。

「悪くないわね」

 純は、ぼそっと言って、パワーウィンドウのスイッチを押した。窓が開き、冷たい風が吹き込んでくる。彼女の髪がなびく。

「やっぱり少し寒いね」

 小さな声だったので、僕に話掛けたのか、独り言なのか分からなかったので返事はしなかった。彼女は黙ってまた窓を閉め、風で乱れた髪を整えた。その仕草がまた良い。なんだか信じられない気分だ。こんなに可愛らしい子が、僕の運転する車の助手席に座っている。もう少し笑顔が多ければ、申し分無し。いや、少ないからこそ、あった時のギャップに萌えるのか。

「あそこのカーブミラーがあるところを右に曲がって」

「はいよ」

 言われた通りに右折。暫く進むと、タイヤチェーン着脱用の駐車スペースが見えた。

「そこに停めて」

 車を停めると、彼女はシートベルトを外し、ドアを開けて外に出た。僕も純に倣って外に出て、彼女の後をついて歩く。ほんの少し離れたガードレールの近くで、彼女は歩みを止めた。僕も隣に立ち、純の視線の先へを目を向ける。

「おぉ……」

 思わず声が漏れた。

 そこからは、街が一望できた。晴れている為か、街が美しく輝いて見える。くすんで見えていた、木にしがみついている茶色い葉も、この景色の引き立て役として十分な役割を果たしていた。

「どう?」

 感動して街を眺めている僕に、彼女は問い掛けてきた。

「どうも何も……、凄く、綺麗だ」

 大袈裟かもしれないが、「生きていて良かった」と思えた。こんな美しい景色を見ることができた事に。人工物で溢れた街とはいえ、自然の美しさとはまた違った美しさがあった。さらには、その景色を眺めている僕の横に、純という女性がいる事に〝ときめき〟を感じていた。

「私も久し振りに来たけれど、やっぱり良い景色。本当に晴れていて良かったわ」

 そう口にする彼女も、とても美しい。ありきたりの台詞かもしれないが、「このまま時が止まってしまえばいいのに」と心からそう思った。

「はは」

「ふふ」

 ほぼ同時に笑った。それで更に笑う。

「一緒に来たのが優君で良かった」

「僕も、この景色を純と見られて良かったよ」

「さ、戻ろっか。あー、寒い寒い」

 ちょっと風があって寒かったのか、彼女の頬は少し赤らんでいた。……別の意味を想像してしまった。いかん。期待しては駄目だ。というか、何故、僕は彼女に惹き込まれそうになっているのか。たかだか暇潰しの為に利用しようとしただけなのに。

 車内に戻り、この後はどうしようかと話をしていたら、意外にも彼女から提案が出た。「ちょっと街中に行こうよ」と。僕は、まさか彼女が進んで意見を出すとは思っていなかったので、喜んで賛成した。

 街に向かって車を走らせながら、僕はふと、さっきの景色を見た後に彼女のテンションが上がった事について考えていた。やはり気になってしまい、以前の僕だったら聞かなかったであろう質問をする。

「純は、さっきの場所はどうやって知ったの?」

 本当に知りたいのは、〝誰と行ったのか〟だが。

「あそこはね、昔、家族でのドライブがてらに寄ってたところなの。でも、私が忙しくしてたら一緒に出掛ける事も無くなっちゃってね。だから、今日は本当に久しぶりに来たの。迷わないで案内できて良かったわ」

「そうだったのか」

 別の男と、ではなかった事に内心ほっとする。

「〝忙しく〟って、純は何かやってたの?」

「私は中学校、高校と美術部だったの。でも、部活だけじゃなくて、家でも、外出先でも絵を描いたりしてて。でも、センスが無かったみたいで、上手くいかなくて……。それでも、そういった芸術関係が好きだったから、親を何とか説得して、デザインの専門学校に通わせてもらったんだけど。結局は実力不足を痛感して諦めた。そっち方面に挑戦する自信も度胸も無くて」

「ネガティブになる時って、とことん落ちるよね。それは僕も分かる。でもさ、専門学校を卒業したのも約半年前だろ? 今はどう? また挑戦してみたいっていう気持ちは復活してないの?」

「特に何も……。分からないの。自分が今、どうしたいか。どうなっていきたいか。目的が見つからなくて」

 泣きそうな表情だった。本当に困っているような、助けを求めているような。そんな彼女を見て、僕もどんな言葉を掛けてあげれば良いのか悩んだ。こういう時の軽率な言動は、相手を傷つけてしまう可能性が高い。僕は普段、涼太という〝軽率〟を形にしたような男と関わっているから慣れたものだが、彼女のような純粋な女の子が相手では、言葉をより慎重に選ばなければならない。

「そうか……。まぁ、焦らずに、いろんな事を経験していったら何か見つかるかもしれないね。楽しい事、やりたい事を見つけたり、昔の事を思い返したりして、さ」

 考えた結果、こんな言葉しか掛ける事ができなかった。慰めになったのかどうだか。

「そうかもね」

 何かを考える純。ふと、僕を見て質問をしてきた。

「ところで優君は、何でバドミントンを続ける事にしたの? 悩んでたんじゃなかった?」

 話の焦点は、僕の事に移った。

「そういえば僕、純に話したっけ? 中学校、高校とバド部だったって事」

「ううん。聞いてない」

「僕は、大学に入ってもバドミントンを続けたくて、バドミントンサークルに入ったんだけど、僕がやりたいと思ってた環境とはかけ離れてて、すぐにそのサークルを辞めちゃったんだ。それ以来、スポーツなんて全然やってなかったんだよ。でも、社会人になって友人に誘われてね。それも、しつこく。仕方ないから流れに任せて、また始めてみたってだけなんだけど」

 純と会う事の代償に、とは言えない。〝代償〟でもないな。どちらにしても、僕が得をしている。今ではバドミントンも競技志向とは関係なく楽しんでやっているし、こうして無事に、純と出会うことも出来た。

「その友人のお蔭で今は楽しくやっているんだけど、もし、彼と同じ会社に入社していなかったら、多分、バドをやる事は無かったと思う。まぁ、たまたま運が良かっただけって話さ」

 さらに言えば、純と出会う事ができたのは、それ以上の奇跡だろう。

「僕なんか、楽しいと思える事に出会うまで六年もかかったんだ。純だって、これから何が起こるか分からないよ? まぁ僕も、本を読んだりネットサーフィンしたりするのも楽しかったんだけど、何か物足り無さを感じててね。やっぱりこれだ! っていうのがバドだった、っていうオチだよ。元に戻っただけさ」

「長い道程だったのね」

「そうだね。ま、なんだかんだ全部、周囲との関係作りの賜物なんだけど。友達とか、君のお蔭だよ」

「私?」

 あ。まずい。口を滑らせた。まさか友人(涼太)との取引材料だったなんて、口が裂けても言えない。

「純とのメールが楽しくなっちゃってさ。それで何だかやる気が出ちゃってね。続けてみたら? っていう君の言葉に背中を押されたんだよ」

 嘘は言っていない。隠している事はあるけれど。……上手く誤魔化せただろうか?

「ふぅん。人の影響って凄いのね」

 簡単だった。

「純は元々、デザイン関係の仕事がしたかったんだろ? デザイン会社で仕事をしたかったって事?」

 そして、さり気なく話題をすり替える。最近の僕は、やたらとこの手を使う気がするが。まぁ、問題は無いだろう。

「そうね、グラフィックデザインとかウェブデザインとか。基礎的な事は学校で学んだけど、応用が難しくて。それでいきなり実践だなんて、怖くて行くに行けなかった。そう……、前は〝迷い〟って言ったけど、良く考えればそうじゃなくて〝恐怖〟が強かったんだと思う。自信も勇気も無いから」

 デザイナーに関しての具体的な話は、僕にはよく分からないが、自信や勇気といった気持ちの面についてなら良く分かる。慣れてしまえば何て事の無い行動だって、始める時は何も分からなくて、自信なんて皆無に等しい。そんな状態で足を踏み出すなんて、怖くて仕方が無いはずだ。

 中には、涼太のような、根拠のない自信を掲げ、無鉄砲に飛び込む事が出来る人もいるが。それを、勇気がある行動と言えるのかは分からないが(彼の場合は、特に何も考えていなさそうなので)。だが、僕や純はそれとはタイプが違う。確信が持てなければ行動に移すことができない。そんなタイプなのである。

「わかるよ、その感じ。僕もそう。でも、それはやっぱり、やってみないと分からない事なんだよね。バドの事でもそうだったけど、つくづく思ったよ。やってみたら、意外と楽しかったり、出来ちゃったり。怖さを乗り越える勇気っていうのも、いつ湧いてくるのか分からないんだけどさ。でもきっと、いつかは、恥も外聞もプライドも捨てて、動ける時が来るんだと思う。そのタイミングが、やりたい事が出来た時と合うかどうかは、これはもう、運だと僕は思ってる。その点では、僕は運が良かったって言えるのかもね」

 僕にとって、純は〝幸運の女神〟なのかもしれない。彼女に気付かされた事は沢山ある。

 だから今度は、君に気付いて欲しい。

「僕は偉そうに言える立場じゃないのは重々承知してる。けど、聞いてほしい。きっと、怖さを乗り越えられるタイミングって、いつかは来ると思うんだ。それまで焦らず、ゆっくり考えたらいいと思う。気負う必要も無い。困った時には友達に相談するでも、僕に相談するでもいい。僕はいつでも君を応援してるから」

「なんか……、人生の先輩って感じだね」

 軽く笑われた。真面目に話していたはずなのに。しかも、〝一応〟年齢的には先輩だっての。

 でも確かに、僕はこんなキャラではないはずなので、僕もちょっと恥ずかしい。

 臭い台詞だった。まるで、涼太が僕に憑依したかのように。長い時間、彼と一緒に過ごすのも考えものだな。

 そんな話をして暫く経ってから、ハンドルを握る手が汗でヌルヌルしてきた。心なしか顔も熱い。恥ずかしさを誤魔化すかのように、さり気なくズボンで手の汗を拭い、「少し、風を入れようか」と言って窓を開けた。

 純に気付かれないように、と思って、彼女の様子を横目で覗った。当の彼女はというと……、泣いている、のか?

「……純?」

「うるさいわね。黙って前を見て運転してなさいよ」

 と言われても、僕はこの辺りの道なんて全く分からない。何処へ向かえばいいのやら。まぁいいか。指示があるまで真っ直ぐ走ろう。

 彼女の方を見なくても泣いているのは分かる。でも何故? 僕が何か余計な事を言ってしまったのだろうか? 気になる。でも、ここで質問をしたら「黙ってて」等と怒られそうな気がしたので、開きかけた口を閉ざした。

「言い訳を、してただけだった」

 彼女から話を始めた。

「迷ってた、とか、色々と話してたけど、結局のところは、怖かった、ってだけだった。やっと分かった。認めたくなかったんだ、私」

 気が楽になったのか、やや明るい口調になって話を続ける。

「優君のお蔭で、少し整理ができた。私、強がりばかり言っちゃって、でも、本当は臆病で。それに、心配性の上に変なプライドがあって。そんな事から目を背けてただけだったのね。見たくなかったから避けて通って来た。他人にも弱い自分を見せたくなくて、逃げる事しかできなかった。それで自分を守ってたつもりだったんだ」

 ふぅ、と溜息をついた彼女は、手足を伸ばして一気に脱力し、座席に深く腰掛け、リラックスモードに突入。

「他人には見せたくなかったとこ、僕なんかに見せていいのかい?」

「いいのよ。さっき、私が話してた事、真剣に聞いて、考えてくれていたでしょう? まぁ……、一応は信用の足る友人として認めてあげるわ」

 僕に対しての上から目線は変わらない。いつもの純に戻ったようだ。

 一通り話し終えてスッキリした様子の彼女は、再び道案内を始めてくれた。彼女の話を聞いている間、ただ真っ直ぐ道なりに進んできただけだったので、目的地とは大分離れてしまっていたようだった。とはいっても、街に向かう話はしていたものの、何処へ行くかは決めていなかったので、その考える時間は作れた、と考えよう。まぁ今日の全権は彼女が握っているので、僕はそれに従うのみだが。彼女の仰せの通りに車を走らせるだけ。差し詰め、純の執事……、いや、お付きの運転手といったところか。


 ビルが立ち並ぶ街中。

僕は、こんなに多くの人がいる場所に来る事は滅多に無い。人混みが苦手な僕は、人々の勢いに圧倒されそうである。純はこういう場所が好きなのだろうか?

「私、人混みって嫌いなのよね」

 違った。さすが似た者同士の僕等だ。でも、それなら何故わざわざこんなところへ来たのだろう。

「だったら、なんでこんなところに」

「行きたいお店があるの」

 僕の言葉を最後まで聞かずに彼女は答え、足を速めた。まるで、この人混みから早く抜け出したいと言わんばかりに。

「一人だとあまり来れないから……、助かるわ」

 小さな声で言っていたが、僕はしっかり聞き取っていた。どういたしまして、と心の中で返事をした。

 行きたいところがあるっていうのは良いことだよな。僕にはそう思う場所も無いから、羨ましくも思った。

 それにしても、人が多い。流石、祝日。

 祝日と日曜日って、どっちが外出する人が多いのだろう? 等と、休日に外出する事は殆ど無い僕が、想像し難い事を想像してみた。勿論、答えは出ない。そんな無駄な事を考えながら、彼女の後を追って歩く。何だか、デートというよりは、付き人のような感じで一緒にいるが、勘違いをしてはいけない。そもそもデートではないのだから。

 とあるビルに入り、エレベーターに乗る。他にも数人いたので、少し間を詰めた。すると、純との距離が近づき、良い香りが漂ってきた。シャンプーか香水か。こんなにも匂いを感じる程、女性に近づく事は稀である。貴重な体験をさせていただいた。ちょっとした幸せな気分も束の間。目的の四階に着いてしまい、エレベーターを降りる。

 彼女が向かった先は、雑貨屋だった。可愛らしい小物が所狭しと並ぶ、然程大きくはないお店だ。

 意外だな。

 純はこういう店が好きなのか。僕は勝手に、彼女はシンプルな物が好きそうだと思っていたから。

 文房具を始め、食器やバッグ等、様々な物を手に取り眺め始る彼女。手当たり次第調べていく。遠目から見た全体のバランス、デザイン性、機能性……等を確認しているような動きだった。その集中力は凄く、僕が話し掛けられる雰囲気ではなかった。一度、話し掛けたが、聞こえていなかったようだったので、そっとしておいた。僕は僕で面白そうな物を探す。


 結局、二人とも何も買わずに店を出た。

「私さ、あんまり皆が持っていなさそうな物が欲しいんだよね」

 純がやっと話を始めた。

「大量生産っぽいのは好きじゃなくて、個性的で、自分しか持ってないんじゃないかっていう感じの。だから、たまにこういうお店に来ては掘り出し物を探すんだけど」

「そうかぁ。でも、そういう物ってなかなか見つかる物じゃないだろう?」

「そうね。難しいわ。だけど、それが楽しいの。ただ、こういうとこに出てくる気が湧かないのが問題ね。後、自分が狙ってた物が流行っちゃうと、一気に熱が冷めちゃうのよ」

 苦笑いを浮かべながら言う彼女。本当に天邪鬼だなぁ。

「ちょっとさ、良い機会だから、もう一件寄ってみてもいいかな?」

「いいさ。君の気が済むまで付き合うよ」

 僕は笑って応えた。今日はお嬢様の付き人ですから。

 それに……、僕の行きたいところは、純の行きたいところだから。


「あーあ。今日は外れね。思うような物が見つからなかったわ」

 ファストフード店でハンバーガーを食べている僕達。

 最終的には、三件回る事になったのだが、何処も、彼女と商品の睨めっこで終わった。お気に召す物は見つからず、三件目に寄った時には、とうに正午を回っていた。

「はぁ。何だか時間を無駄にした気分」

 おいおい。付き添っていた人を目の前にしてそれを言うか。まぁ、なんだかんだ言って、僕も楽しんでいたのだけれど。

「優君は、何処か行きたいところは無いの?」

「僕? んー、僕はこれといって特に何も……」

 純の行きたいところ。と言ったら彼女は怒るだろうか? また人任せにして、と。

「服屋さんとかは?」

 僕が考えている間に彼女が問い掛けてきた。

「いや、ファッションには疎くてね。それこそ、安い店で適当に見繕うさ。純は服とか興味あるの?」

「んー、それなりには。ブランド品とか安っぽいとか、そういう事は気にしないんだけど、皆が持ってそうな物は嫌だから、結局ブラント品はあまり興味が無いかな。自分が気に入った物、自分に合う物なら何でもって感じ」

 そういえば、涼太が流行りの物とかブランド品には敏感だったな。色々レクチャーを受けた(受けさせられた)けど、興味が持てなくて忘れてしまった。

「じゃあ、優君に縁のあるものって何?」

「うーん……」

 コーヒーを飲みながら考える。

 彼女はまだハンバーガーをかじっていたが、僕はすでに食べ終えている。もぐもぐと口を動かしている彼女に向かって、僕は話をした。

「今、僕が興味あるものっていうと……、せいぜいバドミントンか本か、ってところかな。この間、友達とスポーツショップに行ったんだけど、買ったのは殆ど、その友達が選んでくれた物でさ。僕には買い物のセンスが無いらしくて」

 苦笑いを浮かべる僕。純はやっと食べ終え、飲み物を口に含み、僕の話を黙って聞いている。

「僕が一人で買い物に行くとすると、本屋ぐらいなものなんだけれど、それこそ手当たり次第というか……。チラッと見て、興味の湧く本を買ってみる、って感じだね。〝今売れてます〟とか、〝ロングセラー〟とかって言葉にはあまり惹かれない。確かに面白そうではあるんだけど、今の話題の本とはちょっと違うところに進んでっちゃうんだよね。そっちの方が、丁度人も少ないし、掘り出し物を探すのも楽しいし。それに、流行り物って、何だか苦手で。周りに流されてる感じがしてさ」

 普段は人の意見や雰囲気に流されている僕だが、ここだけは自分の意志を主張したい、という妙なプライドを抱いている。

「なんだ。私と同じようなものじゃない」

 ふふっ、と笑って、彼女は一気に飲み物を飲み干した。

「同じ?」

「そう。天邪鬼」

 彼女も分かっていたのか。一体何処まで僕達は似ているのだろう?


 その後の行先は、書店だった。

 前回会った時と同じく、本の話をしていたら、「じゃあ本屋さんに行こっか」という純の一言で決定。僕も依存は無く、早速、彼女の案内で書店に向かった。

 純が言うには、この辺りでは最も大きな大型書店だという。

 着いてみると、成程、という感じだった。確かに外観ではかなり大きい。

 中に入って見回すと、僕の地元にある書店よりもかなり大きいという事が分かった。単行本、文庫本、新書本、雑誌に漫画……。様々なジャンルの本が数多く取り揃えられている。僕達にとっては楽園と言うに相応しい場所ではないだろうか。これで「もっと人が少なければなぁ」なんて勝手な事を考える。

 端の方から見て回る僕と純。

 初めて目にする本は、まずタイトルで惹かれる。どんな内容なのか、ちょっと見て、また次の本へ。ここでもやはり、僕と彼女の趣味が一致していることに気付く。僕が手に取ろうとした本を、彼女が横からさっと引き抜く。その逆もまた然り。そんな事を繰り返し、笑い合い、話し合いながら様々な本を見て回った。本の事で、こんなにも一緒に盛り上がる事ができる相手がいるなんて思いもしなかった。そもそも、インドア派の僕には新しい出会いなんて無かったし、あったとしても涼太の繋がりで知り合うぐらい。僕は常に彼の金魚の(ふん)状態だった。それが今、同じ趣味を持つ可愛い女の子と、親しげに楽しい時を過ごしている。信じられない。正に夢のような時間である。

 そういう楽しい時というのは、あっという間に過ぎてしまう。時間にすれば二、三時間ぐらい居たのだが、僕の感覚で言えば、数十分とかそのぐらいのような感じだった。

 結果、僕は三冊、彼女は二冊の本を購入した。

 外に出て、車へと向かう。「今度は古本屋にでも行きたいね」等と話をしながら。


 時間も時間で、次に行くところが本日の最後のデート(?)場所となる。

「最後にさ、私の行き付けの喫茶店に行こうよ。いつも、私がコーヒーを飲みながら本を読んでるとこなんだけど」

 なんだかんだ、彼女はノリノリである。最初はあんなに、僕に文句を言ったり渋ったりしていたのに。

 僕は頷き、彼女の案内の元、車を走らせる。結局、最初から最後まで彼女にエスコートさせてしまったな、と申し訳無い気持ちになった。僕はただの運転手。ただの付き人。それでも、彼女と一緒にいることができる嬉しさというのは、何事にも代え難いものだ。次回はちゃんと、僕がエスコートしよう。心の中で一人、そう誓った。


 喫茶店に着くと、純は颯爽と店のドアを開け、僕を中へと案内してくれた。

「いらっしゃい」

 お店の中から、低くて渋い声が聞こえた。

 白髪交じりの髪をオールバックに整え、唇の上で綺麗に切り揃えられた髭が似合うダンディーで格好良い人が、カウンターに立っていた。顎髭もちょろっと生えている。白いシャツに黒のベスト、黒のパンツスーツ。いかにも、というその男性は、五十代後半ぐらい? で、優しい目付きをしていた。

「あれ? 今日は彼氏連れかい?」

「違いますよー。ただの友達です」

 その男性の嫌味っ気の無い質問に、純は親しげに答える。「ただの友達」という言葉は、僕には堪える。

「いつもの席、いいですか?」

「勿論。コーヒーはいつものでいいのかい?」

「はい。二つ、お願いします」

 ちゃんと僕の事も気遣ってくれた。ここで彼女が「一つ」なんて言っていたら、僕はどんな反応をしていたろうか。二つ頼む、という当然の行為。しかし、彼女なら僕に対する意地悪として、一つだけ頼むなんて事をやりかねないと思った。

 それにしても、なんて微笑ましい、慣れたやり取りなのだろうか。純はしょっちゅうここに来ているんだろうな、と思いながら、僕は落ち着いた雰囲気の店内を見回す。僕達以外のお客さんは二人だけ。静かで、でも緊張しない安心感がある。大きな音が好きではなく、大きな声を出す事も苦手な僕にとっては都合の良い場所である。彼女は慣れているようだが、僕達のような若者が来るようなところでもないような気もする。

 席に着くと、純は小声で僕に聞いてきた。

「どう? このお店とマスターの雰囲気は」

 お店はともかく、何故に店主のことも? 意味有り気に小声だし。

「落ち着いた雰囲気の、良い感じのお店だね。マスターも優しそうだし」

「そうでしょう? マスターね、凄く優しいのよ。暇がある時は、私の話を聞いてくれたりするんだけど、優君みたいに聞き上手でさ。何だか話しやすいのよね」

「そこは、毒を吐きやすい、の間違いじゃ……」

 ゴッ!

「いっ……!」

 声を出してしまうところを、何とか堪えた。

 テーブルの下。彼女のトーキックが、僕の弁慶の泣き所に直撃。ブーツのつま先でそれは酷くないか?

「マスターはそんな事言わないけどね」

 そして彼女もマスターにこんな事はしないだろうな。こんな事をするのは僕に対してだけだ、と考えれば嬉しくも思うのだけれど。今はそれどころではなく、脛を擦りながら弁慶と共に泣きたい気分で項垂れる。

「折角、優君が聞き上手だって褒めてあげたのに」

「そ、それは光栄です、お嬢様……」

 痛みに耐えながら、顔を上げてお礼を言う。

 きっと、この子がこんな事をしたり言ったりする事は、マスターは知らないんだろうな。でも逆に、僕の知らない彼女の顔を、マスターは知っているのだろう。

「お待たせしました」

 色々と考えている内に、マスターがコーヒーを持ってきてくれた。

「ありがとうございます」

 純に微笑んで会釈をするマスター。純もニコッと笑顔になった。そして、マスターは初対面の僕にも笑顔で会釈をしてくれた。うん。良い人に違いない。なんとなくだけど、僕は単純にそう思った。

「ごゆっくり」

 そう言って去っていくマスター。


 今までも何度かいくつかの喫茶店に行くことはあった。常連客であるという友達に連れられて。しかしながら、ここまで初対面の客に対して丁寧な対応をしてくれたところは無かったように思う。たまたま、そういう雰囲気のお店に連れて行かれただけなのかもしれないけれど。

 僕が連れて行かれたという大概のお店は、常連客の友人には親しげに挨拶をするが、連れ(僕)には目もくれない。僕の愛想が悪いからなのか、はたまた店員の虫の居所が悪かったタイミングだったのか。何にせよ、客は客なのだから、もう少し接客態度を良くしてくれてもいいのではないかと思ったものだ。


 それに比べて、ここのマスターは何と紳士的なのだろう。

 最近の僕は、男性に惚れ惚れする事が多い。こんな紳士な大人になりたい、と思うことしきりだ。バドミントンでお世話になっている川本さん然り、ここのマスター然り。余裕が滲み出ている。

「マスター、本当に良い感じの人だね」

「分かってくれた? あーあ、マスターが私のお父さんだったら良かったのになぁ」

 おいおい。お父さんが可哀想だろう。年頃の女の子の発想だよなぁ。無い物ねだり。まぁ、誰でもそう思う事はあるか。僕だって、そんなような事を思う時もあるし。

「ここのコーヒー、とても美味しいのよ。何も入れずに飲んでみて。優君、この間は砂糖もミルクも入れてたでしょう?」

 良く見ている子だなぁ。覚えていてくれたのは嬉しいけれど。

 純の言った通り、何も入れずに口元に近づける。良い香りが漂う。そのまま口にする。

 ……確かに美味しい。苦みがスッキリしていて口当たりの良い、飲みやすいコーヒーだ。

「……美味しい」

「でしょ?」

 ふっ、と出た言葉に、彼女は嬉しそうな反応をした。

 僕は、何処のお店に行っても、コーヒーには砂糖とミルクを入れる。最初は苦いのが苦手で、でも大人振って飲み始めたコーヒー。しかし、甘いコーヒーしか飲めないでいた。それがきっかけで砂糖とミルクを入れるのが癖になっていたのである。その為、コーヒーの美味しさも、味の違いも分からないまま飲み続けてきた。

 それがまさか、二十歳の女の子にブラックコーヒーの美味しさを教えられるとは思ってもいなかった。

 と、その時、店主が焼き菓子を持ってきた。

「え? これ……」

 純が戸惑う。店主は唇にそっと指を当て、

「彼氏さんとどうそ」

 と、小さな声で言った。

「マスター!」

 純が、恥ずかしがりながら怒った。くそぅ、可愛いな。

 店主は笑いながら、爽やかに去っていった。

 何だか僕も恥ずかしくなって、取り敢えず頂いたお菓子を口に放り込む。

「ま、まぁ、あれよ。ここのコーヒーは美味しいってことが分かってくれればいいのよ」

 彼女もお菓子を口にし、静かになって、何となく不思議な空気になった。

 美味しいコーヒーと美味しいお菓子。穏やかな雰囲気を感じていると彼女が口を開いた。

「私、ここの喫茶店にはたまたま一人で入って、普段、飲みもしないコーヒーを無理して頼んだの。そしたら、思いの外、美味しくて。はまっちゃったのよね。それ以来、ここでコーヒーを飲みながら本を読むのが楽しみになって。落ち着きたい時は大体ここに来るの」

 幸せそうにコーヒーを飲む純。

 僕と一緒に居ても落ち着いてコーヒーを飲む事ができているのだとしたら、それこそ光栄な事だな、と思った。


「今度はいつ会えるかな?」

 そろそろ帰らなければならない時間になり、その前にと、僕は彼女に問い掛けた。

「うーん……、暫くは会えないかなぁ」

「そっか。年末年始は何かと忙しいしね」

「バイトがね、土、日、祝日とかは忙しいし、年末年始も外出する人が多いでしょう? サービス業って、そういうところが嫌よね。なかなか休みが取れないんだもの。まぁ、別に私は誰かに予定を合わせるなんて事、あんまり無いから良いんだけど」

 苦笑いを浮かべる彼女に、僕は疑問を投げ掛けた。

「あれ? でも今日は……? 祝日だろ? それに前会った時だって日曜……」

「あー。それは特別。店長が、たまには休み取れって」

 僕の話を遮って、彼女は言う。ちょっと恥ずかしそうだ。

「でもまあ、誰かの為に休みを取るっていうのも悪くないかもね」

「じゃあ今度は僕が君の予定に合わせて休みを取るよ。一応、有給休暇もある訳だし」

「それならいいけれど。だけど、仕事を舐めちゃ駄目よ。あ、それは私か」

 彼女は笑う。僕は……、笑っていいのか?

「私、もう少ししっかりした人になれるように頑張るね」

「え? 十分しっかりしているじゃないか」

「さて、そろそろ帰りますか」

 そう言って席を立つ彼女。

 今の意味深長な発言は何だったのだろうか? 僕の思考を遮るように彼女は言う。

「今日は私が奢るね」

「いや、それは悪いよ」

「いいの。ドライブに買い物に、大分、運転させちゃったから」

 前に出ようとする僕を手で制し、会計を済ませる。

「マスター、ごちそうさま」

「ごちそうさまでした」

 純の後に続いて、僕もぎこちなく挨拶をした。

「ありがとう。またお待ちしてます」

 笑顔で見送る店長。うん、やっぱりカッコイイ。

 店を出て、駐車場まで来ると彼女は言った。

「じゃ、私はここで」

 そして手を振る。

「え?」

「何を驚いてるの? 私の家はここから近いから、歩きでもすぐ着いちゃうし」

 時刻は夕方六時近く。十一月ともなれば日の入りも早い。辺りはすでに暗くなっている。

「いや、でも……」

「いいの! 優君こそ気を付けて帰りなさいよ! じゃあね」

 逃げるようにして去っていく彼女を、僕はポカンと見つめる他、何もできなかった。

 もしかして、家の場所を突き止められるのが嫌で、送られるのを拒否したのだろうか。まだ僕は純に信用されていないのかなぁと、一人寂しく肩を落とした。




 あの夢のような日を過ごした後も、メールのやり取りは続いていた。ただ少し、頻度が減った。

 ちょっと元気が無くなりかけていた僕に、涼太が話し掛けてきた。

「優。お前最近元気無いじゃんかよ。鈴木ちゃんに振られでもしたのか?」

「振られてなんかいないよ。告白だってしてないんだし」

頭を抱えて、大袈裟に驚く涼太。

「えぇっ!? そんだけ仲良くしといて告ってないの!? お前、鈴木ちゃんの事好きなんだろ?」

「うん……。好き、だと思う」

「だと思う、って何だよ。好きなのか嫌いなのかハッキリしろよ」

「二択で言えば、好きだけど、友達として親しいだけでも十分というか……」

「甘い! 優は甘過ぎる! その間に他の男に取られたらどうすんだよ! そもそも俺は、男女間の友情なんて信じてないからな。親しくなればなる程、恋愛感情に移ってくもんなんだよ。ね、川本さん」

 今は、バドミントンの休憩中である。

 僕は気を落としながらも、涼太に連れられてサークルに来ていた。

 そこでこの会話である。

「そこで僕に振るのかい?」

 気配を消して隣に座っていた川本さんが、意表を突かれて、ちょっと困ったように苦笑いを浮かべて応じる。

「まぁ、何と言うか……。唯我君みたいに、極端に異性を恋愛対象としてしか捉えないという人もいれば、男女間関係無く友情関係を築ける人もいると思うな」

「えぇー。川本さんに裏切られたー」

「ははっ。裏切るも何も話を振ってきたのは唯我君だからね。僕がどう思ってるか知らずに聞いたのは失敗だったね」

 大人な返しである。涼太はしょんぼりする。

 そして、当人を差し置いて話は進む。

「じゃあ川本さんはどうなんすか? 奥さんとどうやって付き合い始めたんです?」

「僕? 僕はまぁ……、所謂、一目惚れってやつだよ」

 ヒュー、と涼太が冷やかしの口笛を吹く。ここで初めて、川本さんが動揺を見せた。

「会社で彼女を見掛けて、声を掛けたんだ。ちょっと話をして、〝この人だ〟って思ったんだよ」

「運命の出会いってやつっすね!」

 涼太が興奮して、続け様に川本さんを煽る。

「それで、それで?」

「その場で告白してしまってね。彼女に、友達からでも良いですか? って言われて……。とまぁ、その後の事は唯我君の想像に任せるよ」

「ちょっ……! そこまで言ったら最後まで……」

「ほら、次は僕の番だから行って来るよ。唯我君は差詰君の話を聞いてあげなよ。オジサンの僕が色々言うと、説教臭くなってしまいそうだからね」

 そう言って、川本さんはラケットを手に取り、コートへと向かって行った。

「全くよー。川本さんも、良い人なんだか悪い人なんだか」

「いや、普通に良い人だろ。涼太が面倒臭いだけで」

「酷いっ!」

「涼太は何で、恵ちゃんと付き合ったの?」

 あんなにも喧嘩をしているのに、それでも一緒にいる事が不思議に思えてならなかった。確か、付き合い始めてそろそろ二年が経つと言っていたか。

「メグ? だって、あの子、可愛いし面白いじゃん? それに俺、狙った獲物は逃がさない主義でね」

 冗談で言っているのか本気で言っているのか、よく分からない。言葉の意味をそのまま受け取ると、ちょっと怖い。まぁ、惚れた相手にはどんな手を使ってでも落とす、という事だろう。

 それ(狙った獲物は逃がさない主義)は、恵ちゃんの前では言うなよ? と、少し心配になった。彼女の性格上、反感を買ったら、それこそ取り返しのつかない事になりそうな気がしたからだ。「あんたの思い通りにはさせない。意地でも逃げ切ってやる」等と言って、涼太の魔の手(?)から、何としてでも逃げ切りそうである。

「あ。隣のコートが終わったみたいだな。行こうぜ、優」

「あぁ」

「バドはバドで楽しめよー。最近、楽しくやってたろ? もしこれでバドが楽しめないってんなら、お前は本気で鈴木ちゃんが好きって事だからな」

「涼太……、お前、面白い事言うよな」

「だろ? 俺は良い事しか言わねぇよ」

 ふふん、と鼻高々に彼はコートへ向かう。

 僕は〝面白い事〟と言っただけで、〝良い事〟とは一言も言っていない。全く、何てポジティヴ男だ。彼の言語の変換機能は、ポジティヴ方面にしか変換することができないようだ。

 でも、それはそうとも言えるのかもしれない。純の事がずっと気に掛かっているとしたら、きっと僕は彼女の事が好きなのだろう。

 これまで僕が付き合った女性は二人。

 高校生の時と、大学生の時である。二回とも、相手から告白してきた。ちなみに別れを告げてきたのも相手からである。

 一体、僕の何処が良かったのだろう? という疑問が解ける事は無かった。別れた理由なら分かるのだけれど。

 受け身でネガティヴ。それが僕の特性だから。

 殆どの事は、相手に任せてしまう。自発的に、「何かをしよう」と言う事もあまり無かった。だから、彼女等は僕が嫌になって別れを告げてきた。「積極性が無い」とか、「本当に私のことが好きで付き合ってるの?」等と、散々な言われようだった。「好きでなかったら付き合っていないだろう」とは言えなかった。告白された時に押し切られた感じもあったし。

 無理に、「好きだよ」と言うこともできず、正直に本音を打ち明ける度胸も余裕もなく、結局は別れてしまった。

 流れに流され、〝自分〟というものを見失った。ネガティヴに輪を掛けた僕は、何の為に生きているのか、と考えるところまで行き着いてしまったのである。

 しかし、そんな時に涼太や純に救われた。楽しさを見出し、自分らしく居れる場所を見つけた気がしたのだ。素で居られる、数少ない居場所を。

 きっと僕は、その居場所を失うのが怖かったのだ。だから僕は、誤魔化したり、気が付かない振りをしていたのだと思う。


 そんな事に気が付き、涼太に相談したのは年明け。

 元旦。

 新年早々、何故か涼太と行動を共にする事になった。

「なんで恵ちゃんと来なかったんだよ」

「いやー、昨日までは良い感じだったんだけどねー」

 またもや反省の色が無い様子で、彼は言う。

「クリスマスだってさぁ、プレゼント渡したら、すげー喜んでて。付き合い始めて二年の記念って事で奮発したんだけど」

「良い事じゃないか。でも何で……」

「それが昨日、そのプレゼントの指輪を失くしたって言うんだわ。それで大喧嘩よ。昨日はメグん家に泊まって、そのまま初詣に行く予定だったんだけど……、まぁ無理だわな。んで、優のとこに電話したって訳よ」

「成程な。急だったからびっくりしたけど、そんな事になってたのか」

 昨日、涼太から電話が来たと思ったら、突然「初詣に行こうぜ」と言われて驚いた。僕は、特に出掛ける予定も無かったので丁度良かったが。時間と待ち合わせ場所だけを告げられて、電話を切られたものだから、一体何事かと思った。

「でもさ、恵ちゃんだって謝ったんだろ?」

「まぁ……、な。その時は俺も頭に血が昇っちゃったみたいで、気が付いたら怒鳴ってたんだよ。そしたら、失くしちゃった物はしょうがないじゃない! って、メグに逆ギレされて。んで、それにまた俺がキレて。唯ちゃんなんか、もうどうでもいい、とか散々な言われ様だったな。俺も色々言っちゃったけど。それでまぁ……、収拾がつかなくなったってワケ」

 珍しく涼太が溜息を吐いた。

どちらの言い分も分からなくはないが、僕は恋愛に関してアドバイスができる程、経験がある訳でもないので、只々、彼の話を聞いてあげる事ぐらいしか出来ない。

「ま、今はお互い、頭を冷やすぐらいしか出来ないんだけどな」

 涼太自身がそう思っているのなら、それで良いのだろう。結局、行動するもしないも本人の意志次第なのだから。

「で、優は鈴木ちゃんとどうなのよ? 初詣に誘わなかったのか?」

「誘ったけど、断られた。用事があるみたいで」

「そうかぁ。けど、このテンションの低さは、他にも何かあったろ」

 ご名答。お前はエスパーか。

 本当にこの男は気持ち悪いな。良い意味で。

「あぁ。なんかさ、この前会ってから、なかなかメールが返って来なくて。『年末年始は忙しい』ってメールでも言ってたけど、メールの内容も何だか素っ気ない気がして」

「はーん。それで落ち込んでんだ」

「そう」

 あれ? と涼太は、僕の顔を不思議そうに見つめる。

「何だよ、じっと見て。気持ち悪いな」

「あ、いや。優の事だから捻くれて、〝そんな事無いよ〟とかって言うと思ったんだけど。妙に、素直に返事が出てきたもんで」

「失礼な奴だな」

 苦笑いを浮かべながら、お参りに並ぶ人達の流れに合わせて、徐々に前へ進む。まだまだ先は長い。

「気になって仕方無いんだ」

「ん?」

「僕、純に告白しようと思う」

「おぉ! やっとその気になったか!」

「でもさ、怖いんだ。告白して振られたら、今のこの関係が崩れちゃうだろ? 折角、共通の話題で盛り上がれる友達が出来たっていうのに、僕の行動でそれが無くなっちゃうって考えたら……」

「そうだなー。優は俺と違ってモテるタイプじゃないしなー」

「……」

 ちょっと、いや、かなり凹んだ。……って、そこじゃない!

「嘘だよ! 冗談だって! すまん!」

 モテるタイプでは無いところは嘘じゃなくて現実だけどな。

「いやいや。鈴木ちゃんは、お前の事、好きそうじゃん? 大丈夫だよ」

「ぬか喜びさせるなよ。大体、何でそう思うんだ?」

「だってよ、一回会ってみて〝この人苦手だ〟って思ったら、二回目なんてお断りってもんだろ。むしろ、メールだって無くなると思うぜ? だけど、まだメールが続いてるって事は、それなりに気がある証拠じゃんか」

「そうだと良いんだけどな」

 メールは続いているが、回数は確実に減ってきている。もしかしたら、このままフェードアウトなんて事も有り得る。

 新年初日から、こんなにネガティヴではいけないと思いつつも、明るく振る舞う元気も出なかった。

「すまない」

 僕は謝罪の言葉を告げた。

「え? 何が?」

「新年早々、こんな暗い雰囲気でさ。涼太だって、色々大変だっていうのに」

「何だ、そんな事か」

 そんな事とは何だ。久し振りに僕が素直に謝ったというのに。

「優が暗いのはいつもの事だろ? それに、俺がメグと喧嘩するのだって、しょっちゅうだし。そんなんで謝ってたら、キリがねぇぞ」

 涼太はケラケラ笑って続けた。

「俺は馬鹿だし、気の利いた言葉は掛けられねぇけど、話を聞くぐらいならできるぜ。多分、メグだって生理が来ててイライラしてたんだよ、あれ」

 確かに、キリが無い。そして、涼太にはデリカシーが無い。

「だからさ、何かあったらすぐ俺に言えよ?」

「……僕のネガティブ思考に付き合わせて、申し訳無いな」

「困ってたら助ける。それが友達ってもんだろ」

 珍しく、真面目な顔で言う彼の真っ直ぐな目を見て、カッコイイ奴だと思った。

「たまには良い事言うな」

「前にも言ったろ? 俺は良い事しか言わねぇって」

 あの時は〝良い事〟というか、〝面白い事〟と言ったんだが。まぁいいや。

「助け合いって、大事だよな。人類、皆、フレンド! いや、ファミリーだぜ!」

 ……ここまで行くと、もはや涼太が何を言っているのか分からなかった。

 でも、この天性のポジティヴ男に助けられている事は確かである。恐怖心で重かった心が、彼のお蔭で軽くなったように感じた。


 やっと本堂に着いた。

 人混みで揉みくちゃにされながら、賽銭箱の前まで行き、お賽銭を投げ入れて合掌し、願う。僕の場合、願う、というよりかは、決意表明に近かった。そして、その決意を固めるように、合掌を解いて深く一礼した。

 本堂を離れると、「何をお願いしたんだよ」と涼太がニヤニヤしながら聞いてきた。勿論、僕は口にしない。「ケチだなぁ」と言って不満気に前を向いた彼は、「おみくじ引こうぜ」とウキウキしながら歩いて行った。彼の切り替えの早さには毎度、感服する。

 毎年恒例の、初詣でのおみくじ。僕はいつも吉とかその辺の運勢のものを引く。その点、彼は大吉を引く率が高い。

 いつの間にか彼はおみくじを引いていた。

「んー」

 納得がいかない、という表情をしている涼太に、僕は声を掛ける。

「どうした?」

 彼は無言で僕におみくじを見せた。〝中吉〟だった。

「中吉なら良いじゃないか」

「えー。だって、吉より下だろ?」

「ん? ちょっと待て。涼太、大吉から順に言ってみろ」

「大吉、吉、中吉、小吉、末吉、、凶、大凶。だろ?」

 あれ? 僕が間違えているのか?

「じゃあ優も言ってみろよ」

「大吉、中吉、小吉、吉、末吉、凶、大凶」

「あれ? 中吉って、大吉の次に良いの?」

「いや、僕が間違ってる可能性も……」

 ひゃっほーう! と人の話を最後まで聞かずに喜ぶ涼太。面倒臭いから放っておいて、僕も引こう。

「なぁ、優! 見てみろよ! 失せ物、見つかる。ってこれ、指輪の事じゃね!?」

「あ、あぁ。そうだと良いな」

「何だよー。薄い喜びだなぁ。で、お前はどうだったのよ?」

 ……半吉。

「はんきち?」

「そう……みたいだな」

 初めて見た。

 位置付けがどの辺なのか気になるところではあるが、まぁ、吉の半分ぐらいって事なのかな。

 取り敢えず、内容に目を通す。健康、仕事、金運……、その辺は悪くないようだ。問題は、恋愛。

「新しい出会いが見つかる……?」

 どういう意味だろう。恋愛で、だよな? 気の所為かもしれないが、何となく胸騒ぎを覚えた。

 他の部分を読んでみる。

 僕はこういうものは熟読する方だ。鵜呑みにする訳ではないが、何となく気になってしまうので。今回は特に気になる事は無いようだ。恋愛を除いては。

「おーい。優も早く結んで来いよー」

 きっと涼太は、内容をしっかりと読んでいる訳ではないだろうな。「大吉の次に良い」と聞いて、それだけで満足した様子だったから。

 彼はおみくじを木の枝の高い位置に結んだらしい。願いが天高くに届きやすいように、と。変なところでロマンチストだ。デリカシーは無い癖に。

 僕は無難に、御籤(みくじ)(かけ)の縄におみくじを結んだ。

「優のおみくじ、何か面白い事は書いてあったか?」

「いや、特には。至って普通の内容だったよ」

「そうか。じゃあ、今年も至って平凡な日々を送る訳だ」

「涼太……。新年早々、夢も希望も無い事を言うんじゃない」

「わり……。って新年早々、暗い雰囲気の奴に言われたかねーな」

 へへっ、と悪気なく笑う彼に釣られて僕も笑う。胸に抱いた不安を、彼に気付かれないように隠しながら。




一月の下旬。

 滅多に来なくなっていた純からのメールが、ついに途絶えた。

 しつこくメールを送るのもどうかと思ったので、待つ事に徹する僕。彼女に何かあったのだろうか。それとも、僕と関わる事が嫌になったのか。何にせよ、返信を待っている間、僕の心は不安に押し潰されそうだった。

 二週間が経過。

 待ち切れなかった僕は、もう一度、彼女にメールを送った。

『会って話がしたい。予定の空いてる日があったら教えてほしい』

 これでもメールが返って来なかったら……。諦める他、無いのだろうか。


 メールを送った三日後。返信が来た。

『ごめんね。色々とバタバタしてて、メールが返せなかった。私も優君に会って話したい事があるんだ。急なんだけど、今週の日曜、こっちに来れる? その日ぐらいしか空いてなくて』

 取り敢えず、彼女の無事が分かって安心した。

 しかし、何故そんなに忙しくしているのだろう?

 今週の日曜は……、空いている。というか休日は大体、予定は何も無く、ダラダラと過ごしているだけである。

『今週の日曜は空いてるよ。時間と場所は純の都合に合わせる』

 そうメールを送って、再び彼女からの返信を待った。

 僕に話したい事、とは何だろうか。メールで伝えるはなく、〝実際に会って話したい〟というところが意味有り気である。気になって、今すぐにでも電話をして聞きたかったが、そういえば互いにケータイの番号を知らずにいる。無理に聞くのも悪いかと思って、自然に番号を交換できる時を待っていたのだが、その時は来なかった。

 すぐに話を聞きたいから電話をしたい、という思いもあったが、それ以上に、彼女の声が聞きたかった。高飛車な言い方だけれど、ちょっと高い音で、可愛らしい声。威圧感が半減してしまうトーンの彼女の声を、この耳で感じたい。だが、それも今週の日曜までのお預けである。


 約束の日曜日。午後三時。

 前回もお茶をした、純の行き付けの喫茶店で僕達は再開した。

 およそ二か月ぶりに顔を合わせた。その期間がとても長く感じられ、なんだか初対面の時のように緊張する。

 彼女の方が先に来ていて、前と同じテーブルに座っていた。

 やぁ、と声を掛け、僕も席に着く。

「久し振りだね」

「そうね」

 短い言葉のやり取りから本題に入る……前に、店主がコーヒーを持ってやってきた。すると、純は僕に小声で言った。

「今日はマスターの奢りだって」

 店主も小声だ。

「いつも純ちゃんがお世話になってるみたいだからね。そのお礼だとでも思って」

「いや、僕はそんな……」

「マスター。私、この人にお世話なんてされてない」

 ぷいっ、と不貞腐れて横を向く彼女と、笑って、「ごゆっくり」と声を掛けて去っていく店主。まるで親子のようだな、と思った。

 早速、頂いたコーヒーをブラックで一口。何だか、ほっとする。緊張が解れ、口も緩む。

「最近、忙しかったみたいだね。何かあったの?」

「ん。まぁ色々とね」

 はぐらかされた。まぁ、話したくない事を無理に話させる必要も無い。そういう聞き方は、純に失礼だし、僕としても良い気分はしないから。

 そして、いよいよ本題に入る。

「あのさ。純がこの間、メールで言ってた、〝話したい事〟って何?」

「うん。それなんだけどね……」

 彼女は躊躇いながらも、一息吸って、はっきりと言った。

「私、もう、優君とは会えない」

 ……え?

 なんだって、と声に出す事が出来なかった。

「〝会え(・)ない〟というか、〝会わ(・)ない〟って言った方がいいのかな」

 突然の告白に驚き過ぎて、言葉が出て来なかった。

 思考停止。

 真っ白である。

 何故? 何処へ?

 頭が働いたと思ったら、疑問ばかりが浮かぶ。

 様々な思いが脳内を埋め、パニックになりそうだ。純への告白どころではない。色々と聞きたい事はあった。しかし、自身の事について詮索されることを嫌う彼女には、何も聞けないでいた。

 固まって、声も出せずにいた僕に、彼女はさらに酷なことを告げる。

「もう、連絡も取らない」

 彼女は、しっかりと僕を見据えて、話を続けた。


 引っ越しをするそうだ。

 詳しい話はしてくれなかったが、アルバイトではなく正社員として就職先が決まったのか、仕事だか研修だかで、実家を離れるらしい。今まで忙しくしていてメールが返せなかったのも、一人暮らしの準備等に追われていたからだという。僕とは違って、ただダラダラと日々を過ごしていた訳ではないようだ。

 家族を説得し、家族同意の上で二ヵ月程前から準備をしてきたと言うのだが……。二ヵ月前といえば、僕と二回目に会った頃だろうか。何故、その時に話してくれなかったのかと考えたら、少し悲しくなった。

 家族の説得というのも、特に反対される事は無く、「逆に背中を押してくれた」と彼女は言った。「純のやりたいようにやってみたら良い」と言われたという。なんと理解のある、寛容で優しい家族だろうと思った。でも、きっとそれは、彼女の強い意志が表れていたからではないか。そうでなければ、我が子(しかも女の子)を遠い地へと、快く送り出したいとは思わないだろう。

 そういうところは、僕と真逆である。僕にはまず、やりたい事も無いし、強い意志も持てない。ましてや、わざわざ遠くの会社に勤めようなどとは思わなかった。

 すごいな……。と、目の前に居る、僕の四つ年下の女の子に尊敬の念を抱かずにはいられなかった。


「やっぱり、デザイン関係の事?」

「ん。まぁ、そんなとこ」

 やはり、やりたい事を真剣に、集中して取り組む為には、余計な事は切り捨てておきたいのか。確かに、僕のように考え事をしていて大失敗をやらかしてしまう、という事にはならないでもらいたいしな。けど、純に限ってはそんな心配は要らないだろう。ミスは誰にでもあるが、僕の場合は、単純に油断をして大失敗をしただけで。そんな奴はそうそういないだろうし、彼女は僕よりもしっかりしている。

 僕に、彼女を引き留める権利は無い。だけど、いつも優柔不断な僕が決意してここまで来たのだ。何もせずに帰るだなんて情けない真似はしたくない。

「僕は、純の事が好きだ」

「……え?」

 この気持ちだけは、伝えずにはいられない。

そして今、その気持ちを伝えた。

 彼女は、〝きょとん〟と目を丸くしている。

「連絡を取り合う事も、どうしても駄目かな?」

 告白された事を理解するのに時間が掛かったのだろうか。少ししてから彼女の顔が真っ赤になる。

「え? ちょっ……。待って待って! それ、本気で言ってるの?」

「勿論」

 間髪入れずに返事をする僕と、それを聞いてさらに動揺する彼女。

 引っ越しの事を聞いてから告白をするというのは、何だか彼女の覚悟を試しているようで気が引けるが。いや、別に両想いでも何でもないのだから、試すとかそういう事にはならないだろう。

「……困る」

 だよなぁ。

 純は優しい子だから。

「別に、僕に気を遣わなくていいよ。今までもそうだっただろ? 純らしく、〝あんたの事なんか好きでも何でもないんだから〟ってぶった切ってくれればいいさ。これからも友達として連絡を取ってくれるかどうか、振られる事を覚悟で聞いてるんだし」

 くくっ、と笑う僕。内心、動揺してはいたが。

 一方、彼女はまだ顔を真っ赤にして俯いていて、何やらボソボソと呟いている。

「やっぱり……、駄目」

 やっと彼女の声が聞こえた。

「私も、優君の事が、好きだから」

 ……耳を疑った。

「へ?」

 まさかの両想いだった。

 いやいや。もしかしたら、聞き間違いという事も……。

「優君が告白してくれて、本当に嬉しい。私は言わないでおこうと思ってたんだけど。でも、誠意には誠意で応えなきゃ、失礼よね。実はね、私もなのよ」

 ……。

 聞き間違いではなかった。

 両想いだ。

「じゃあ……、付き合おうよ。僕は遠距離でも」

「ちょっと。私の話、ちゃんと聞いてた?」

 僕の言葉を遮って、彼女は強い口調で言った。顔はまだ、赤らんだままだが。

「会う事は無い。連絡も取らない。以上」

何故? 両想いなのに。

 遠距離恋愛だって、続けてみなくちゃ分からないじゃないか。僕は食い下がる。

「もし、僕に申し訳ないからって気を遣ってるなら、それは抜きにしてくれないか?」

「優君に遠慮なんてしてないわ」

 赤らんだ顔は、元の色に戻りかかっており、彼女はいつも通りの、人を見下したような冷たい表情になっていた。

 でも、遠慮はしていないのなら良かった。僕的には良くないけど。

 もし、ここで僕の為を思って離れようとしていたのなら、僕は怒って、彼女に説教を垂れていたかもしれない。「今まで僕に対して遠慮なんかせずに、無礼な事ばかりで敬う事もしないで、我儘で高飛車な態度をとっていた君が、今更何を言うか」と。そんな事を言ったら、逆に僕が怒られそうだけど。

「私、他の事は考えないで真剣に取り組みたいの」

「純なら上手くやれるさ」

「でも、私だって揺らぐわ。そんなに器用じゃないの」

 僕からすれば、十分器用に見えるのだが。

「これ以上、家族を振り回して迷惑を掛けたくないの。去年、一度、裏切っちゃってるからね。家族とは言え、これまで積み重ねてきた信用を崩しちゃったら、取り戻すには時間も掛かるし、もう失敗できない」

 それは分かる。僕も会社の失敗で学んだ。信頼されるようになるには時間が掛かる。しかし、信頼を失うのは一瞬である。そしてそれを取り戻す為には相応の時間を……、いや、下手をすれば、それ以上の時間を要する。

「でも、純の家族だろう? それは考え過ぎなんじゃ……」

「家族だからこそよ」

 彼女はキッパリと言った。

「今まで散々家族に頼ってきて、その上、何も返せないっていうのは私自身が許せないの」

 僕より大人である。それか、真面目? プライドが高いとでも言えばいいのか。

「だから、所謂〝けじめ〟をつけたいの」

「その〝けじめ〟っていうのが、僕と会わないし連絡を取らない、っていう事?」

「そう」

 彼女は、わざと僕を遠ざけるかのように、あっさりと冷たく返事をした。僕はそれでも、へこたれない。

「でもさ、家族や友達とは連絡を取るんだろ?」

「それはそうよ。って言っても、連絡を取り合うような友達もいないけど」

「じゃあさ、僕と友達になろうよ」

「はあっ!?」

 驚いて、続きの言葉が出て来ない彼女に、僕は続けて言った。

「友達としてなら、連絡を取ってくれるんだろ? じゃあ、恋愛対象としてじゃなくて、友達としてならどう?」

 はぁ、と溜息を吐いた彼女は、僕に言い返す。

「あのね、好きな人を、友達として考えて接するなんて器用な真似、私にはできないの。そもそも私は、男女間の友情なんて、信じてないの」

 彼女は、涼太と同じような台詞を言った。

「僕は、あると思ってる」

「最初はあるかもね。でもね、異性と親しくなるって事は、それなりに恋愛感情が芽生える可能性が高くなるって事にも繋がる。少なくとも、私はそう思ってる。だから私は、異性との友情なんていうのは信じない」

 では何故、僕と連絡を取り合い、会おうとまで思ったのだろう? 最初は、男か女かも分からない相手だったから連絡を取っていたのだろうけど、メールをしている相手が〝男〟だと分かっても、彼女はメールを途切れさせる事無く、連絡を取り合っていた。それに、過去に何か嫌な事でもあったのか? 〝異性間の友情〟という言葉に過剰に反応している。理由はどうあれ、きっと触れられたくない事だと察し、僕は聞こうとはしなかった。

「僕はさ、正直に言うと、純の事、かなり警戒してたんだ」

 ここまで来たら、思っていることを全部ぶちまけてやろう、と思って僕は語り出した。

「怖かったし、疑ってた。はっきり言っちゃえば、本当に、暇潰し程度にしか思ってなかった。だけど、メールして、顔を合わせて、話をして……。僕は君の事を大切にしたい、って思ったんだ。心から。もっと近くに居たい、もっと知りたい、ずっと一緒に居たいって思うようにまでなっちゃって。もし、仮に、君が僕を……」

 騙していたとしても、僕は君の事をずっと好きでいる。

 ……。

 それは、言えなかった。

 それを言ってしまえば、彼女が僕を騙している、と捉えられてしまうかもしれない。騙してなんかいなかったのに〝騙していた〟と思われてしまう事は、心外だろう。そんな風に思わせて、彼女を傷付けるような事はしたくなかった。それに、僕が彼女の事を〝今でも疑っている〟と思われてしまう事は避けたかった。少なくとも、今は彼女の事を信じているのだから。だがそれも、ただの自己中心的な考えである。

「優君は、優しい人だね。やっぱり名前の通りだよ」

 彼女は、くすっと笑った。

 どこがだ。

僕は優しくなんかない。むしろ、良い人に見せて好かれようとしている、ただの偽善者だ。

「私もね」

 純も語り出した。

「優君の事、疑ってた。……ううん、今も疑ってる」

 少し、申し訳無さそうに見える、彼女の表情。彼女は少し下を向き、僕は純から目を逸らさず、彼女の話を聞く。

「怖かった。メールも、会う事も。それでも、退屈な毎日に刺激が欲しかったの。もう、どうなってもいいや、って思って」

 自暴自棄か。僕も彼女の事を言えた口ではないが。

「だけど、思ってた以上に、優君と関わる事が楽しくて、それまでの毎日が変わった。それから私は、今まで考える事が無かった事を考えるようになったの。……無かったって言うよりは、避けてたって言った方がいいかな。あと、いろんな考え方もするようにもなった。優君がいろんな事を教えてくれて、発見もあって……。もっと、自分の人生を大切にして頑張っていこうって思えたの」

「僕は、そんな大それた事……」

「ううん。いつも、私を励ましてくれたり、楽しませてくれたりしたのは優君だよ。だから、私は頑張って来られた。本当に感謝してる。今回の事が決意できたのも優君のお蔭。だけど……」

 ここで一瞬、彼女は躊躇ったように、声を詰まらせた。……が、彼女は何とか続きを話す。

「また、考えちゃったの」

「また?」

「うん。私、何で全く知らなかった人とメールを続けてるんだろう、って。なんで、会って話をしたり、一緒に出掛けたりしたのか……。それを改めて考えたら、ちょっと怖くなって。……失礼だよね、私から『メル友になってください』なんて言っておきながら。でも、メールのやり取りも、一緒に出掛けたり、話したりしたのも楽しかったのは本当。……だけど、やっぱり引っ掛かってた。何で、知り合いでもない優君のアドレスが、私のケータイに入ってたんだろうって。それで、何で、ここまで仲良くなれちゃったのか」

「それは……、偶然だろ? 仲良くなれて、結果オーライじゃないか」

「その偶然が、偶然じゃないって考えてしまうのよ」

「……成程ね」

 僕以上の心配性が、ここに居た。

「遠距離恋愛でも悪くない、って、私もちょっとは考えた。でも、そんな思いを持ったままじゃ、まともに付き合う事なんてできない。遠距離なら尚更。きっと、不安に押し潰されちゃう」

 だから、〝けじめ〟か。

 彼女も、僕と同じ、矛盾した思いを抱えていた。

好きだけど、疑ってしまう。

 ただ、僕と彼女とでは、結果の捉え方が違った。

 僕は、親友だろうが恋人同士だろうが、どんな相手でも、隠し事の一つや二つ、あって当然だと思っている。そして当然、嘘だって吐くだろう。良かれ悪しかれ、人は人を騙す。僕は、あまり人を信じていない分、その許容範囲が広いらしい。涼太には度々、「よく、そんな嘘吐かれて怒んねぇな」と、良い意味か悪い意味かは分からないが、感心されていた。

 彼女の場合は……。

 心から、信じたいのだろう。

 嘘偽り無く、相手を信じて愛し合いたいのだ。僕は、彼女のその許容範囲に入る事ができなかったという事だ。もしくは、僕の事はそれ程好きではなかっただけの事かもしれない。「その程度の男」と言われたとしても、納得してしまうであろう自分に情け無さも感じるが。いや、しかし、僕の事を「好き」だと言ってくれた彼女の事を、僕は信じる。

 それにしても、〝名は体を表す〟ではないけれど、本当に彼女は〝純〟な子だなぁと思った。疑ったままでは……、信じ切れないままでは付き合えないという単純な、純粋な考えで。疑う事の多い僕にとって彼女は、眩しいくらいの存在感である。僕からすれば、「危なっかしい」と言ってもいい。だが、そんな純粋な彼女も、疑いの眼差しを向ける事もあるという事が分かって安心した。悲しいかな、僕に向けられて、だったけれど。それでも、彼女は純粋な子であるという事に変わりは無い。そんな彼女の眼鏡に適う相手というのは、今後、彼女の前に現れるのだろうか?

 「警戒心が無さ過ぎる。もっと危機感を持て」と、僕は心配していたが、その必要は無さそうだと思った。

 この残念な結果から得られるものがあるとは。何とも複雑な気分である。


一通り話し終えた後。少し、沈黙があった。

 僕には彼女を引き留める権利は無い。それに、あまり困らせたくもない。

 渋々、僕は彼女に聞く。

「もう、気持ちは固まってるんだもんね?」

「うん」

 純の迷いの無い返事に、僕も腹を据えた。

 彼女が決めた事だ。もう何も言うまい。

「わかった。じゃあ、純のアドレスを消すよ」

「私も」

 二人してケータイを取り出し、互いに相手のアドレスを削除する。

 ……。

 終わった。

 終わってしまった。

 名残を惜しむ間も無く、彼女はバッグを持って、席を立った。

「今回、出会えたのが、優君で良かった。こんな事はそうそう起こる事じゃないと思うけれど……、良い思い出になったわ」

 すっきりした様な、悲しみを堪えている様な、不思議な表情をした彼女は、一歩を踏み出す。

 そこで止まって、再び口を開く。

「それからね、思ったんだけれど。私達、もっといろんな人と関わってみた方が良いと思う。私達、似過ぎてる。もっと別のタイプの人から刺激を受けないと、成長しないわよ。特に、優君みたいな変な人は」

 にっ、と嫌味な笑顔を向ける彼女。悔しいが、それも可愛い。

 最後の最後まで、減らず口を叩く子だな。いや、平気を装って、敢えて、そう言ったのかもしれない。

 純は、二歩目を踏み出した。

「ばいばい」

 こちらを見ずに言う。

「頑張れよ」

 僕は、それしか言えなかった。

 彼女は振り返らず、何の反応も見せずに去って行った。

取り残された僕は、夢でも見ていたかのように、一人、思いに耽っていた。


 僕は、純の事が好きだった。

 それは、紛れもない事実である。

 彼女にだったら、騙されても良いと思った。

 あぁ。人はこうして騙されていくんだなぁ、と、世の中に多々起きている事件と、自分の姿を重ね合わせていた。


 家に帰り、玄関のドアを開けて「ただいま」と小さな声で言った。すると、奥から母がバタバタと慌ただしく、すっ飛んできた。

「優! あなた、変な物を買ったりしてないわよね!?」

 「おかえり」という言葉も無く、突然問い詰められた。

「な、何だよ、急に。変な物って、何さ?」

「だって、私宛に、こんな葉書が来て……。私は何の事か知らないし」

 相当、焦っている様子だ。一体何が起こったのか?

 僕は、母からその葉書を受け取って読んだ。

 ふんふん。

 未納料金有り。

 期限までに支払わなければ、裁判になる。

 不明な点については、こちらに連絡を。

 ……料金の詳細については書いていない。一応、その送り主である会社の名前と、その会社の所在地が記載されていた。

「僕は知らないな。父さんは?」

「お父さんも、身に覚えが無いって……」

 「どうしよう」と、オロオロする母。その母の隣で、僕は冷静に葉書を見つめる。

「ちょっと待ってて」

 そう母に言って、僕は自分の部屋に行ってパソコンを起動させる。

 バッグを置き、上着をハンガーに掛けてからパソコンに向き合った。

 そして、葉書を見ながら、そこに記載されている会社名や住所を検索。

 ……あぁ、やっぱりな。

「母さん、ちょっと来て」

 廊下で狼狽えていた母を部屋に呼び、パソコンの画面を見てもらう。

「……これは?」

「この葉書に書いてあった住所だよ」

 パソコンに表示されている地図が指している場所は……。

空き地。

「ちなみに、その会社名も検索してみたけど、そんな名前の会社は出て来なかった」

 僕の言葉を聞いた母は、呆然として立ち尽くす。

「母さん。この葉書に書いてある番号に連絡してないよね?」

「え、えぇ……。一応、皆に確認してから、と思って」

 やっぱり〝ほうれんそう〟というやつは大事だな、と実感した。職場だけでなく、家庭においても。

報告、連絡、相談。

家族の中での、コミュニケーションの大切さを痛感。危ない危ない。

 僕は、その葉書をビリビリと破って、部屋のゴミ箱に捨てた。

「身に覚えが無いなら、心配する必要は無いよ。所謂、詐欺ってやつだね。こういうの、簡単に信じちゃ駄目だよ」

 ……知らない人(純)とのメールに応じた僕が言えることではないが。

 「安心して」と言って、母を居間へと帰した。まだ気の抜けた様子だったが、暫くすればまた元の調子に戻るだろう。

 僕が部屋に戻る時、「優も大人になったのねぇ。落ち着いちゃって」と母は言った。別に〝冷静だから大人〟という訳でもなだろうし、僕の場合は大人というか、ただ単に捻くれているだけだ。

 それでも、一応は母を、家族を守った、という事になるのだろうか。……純の言葉を思い出した。「裏切った。何かを返したい」という言葉を。

 僕は家族を、〝裏切る〟という事はしていない(と思う)が、〝恩返しをしたい〟と思っているところは彼女と同じである。どうしたら、〝家族の為〟という事になるのだろう? まぁ、それはこれから考えていく、「今後の僕の課題」という事で。今すぐにでも何かをしなければ、という訳でもない。

 取り敢えず、今の僕の対処は家族の為になった。と、自己満足で終わらせた。終わらせた、というよりは、再び純の事で頭が埋まってしまった、と言うべきか。今日の純とのやり取りを考えれば、今の出来事など些細な事。でも、騙す、騙されるという共通の根がある。疑わしき事が多い、この世の中。いつこの身に問題が降りかかって来るかはわからない。

二つの出来事が関連して、僕は一人で勝手に悩み苦しんだ。

 落ち着くまでは、時間が掛かりそうである。それまでは、他の事は全て後回しだ。


 翌日の仕事の昼休みに、僕は昨日の出来事を涼太に話した。

「やっぱさ、優は押しが弱いんだよ」

 いきなり説教を食らった。

「お前はさ、もっと図々しいぐらいで丁度良いと思うんだよな。あれだよ。〝押して駄目ならもっと押せ〟って感じ?」

 そこは引かなきゃ駄目だろう。

「それにしても、まぁ……。好きな子を、しかも両想いになった子を、みすみす手放すとはねぇ」

 手に入れても無いけどな。

「俺みたいに、〝来る者拒まず去るもの追う〟ってポリシーで頑張ろうぜ」

 ……それは、追わないであげた方がいいのでは?

 声には出していないが、涼太への突っ込みが追い付かない。

「ま、これでバドに集中できるってもんだな」

 簡単に言ってくれる。

「そういえば、聞いたか? あのオッサン、結婚するんだってよ」

「えっ!? マジで!? あの先輩が……」

 ここでようやく、僕の口から言葉が発せられた。

「先輩って、確か……、もうじき五十歳だったよな?」

「そうそう。んでもって、相手の女の人が、三十路手前らしいぞ」

 二十も違う! 親子かよっ!

 最近では、芸能界でも年の差婚は話題になる事が多いけども……。まさか、こんな身近で起こる事だとは思ってもいなかった。しかも、あの先輩が。

 あまり嬉しいとも思わないけれど、何だか僕にも希望の光が差した気がした。

「盛り上がってんなぁ。何か良い事でもあったのか?」

 噂をすれば影が差す。当人の登場である。

「あ、あの。先輩、結婚するんですか?」

「あちゃー。こんなところまで噂になってたかー」

 照れ笑いをしながらそんな事を言うが、多分、先輩が自分で触れ回ったのだろう。

「という訳で、差詰、唯我。後はお前等に任せたぞ」

「え? 先輩、この会社辞めるんすか?」

この会社を辞めるという事は、涼太も初耳だったようだ。

「おう! 寿退社だ!」

 何か違うけど……。まぁいいや。

「じゃあ、別の会社に?」

「いや、嫁の家が農家でよ。婿に行って農業するんだわ。嫁の家、一人っ子で跡継ぎがいないらしくてな」

 もう「嫁」呼ばわりか。そして、自分の父親ぐらいの人と結婚とか……。その女の人も、その人の家族も勇気があるなぁ。ま、好みの問題か。

「優も、先輩に女の子を紹介してもらえば良かったんじゃね?」

 涼太は、にやっと笑って、僕に会話を振る。話を広げようとするんじゃない。面倒臭い。

「あ。俺、他の人にも挨拶してこなきゃいけねぇから、またな。後ちょっとの付き合いだけど、よろしく頼むぜ」

 機嫌良く去っていく先輩。助かった。これ以上、絡まれなくて済んで良かった。

「おい、涼太」

「すまん、すまん。つい、お前を困らせたくなっちまってな」

 ぺろっ、と可愛らしく舌を出す涼太。

 何が「つい」だ。人を困らせたくなるなんて、悪趣味だな。

 ふぅ、と溜息を吐いた僕は、ふと純の事を思い出す。

「鈴木ちゃんの事か?」

 だから、何でお前は僕の考えが分かるんだよ。……本当にエスパーなのではないかと疑ってしまう。

「まぁ……な」

「まだ間に合うんじゃねぇの?」

「馬鹿言うな。今更。……もう、いいんだよ」

「そっか。優が良いって言うなら良いんだけどさ」

 本当は良くない。

 でも、どうしようもないんだ。

 もう、諦めて、すっきりして、切り替えなきゃ。




 三月上旬。

 三月の末に退職する、という先輩に何を贈ろうかと、皆が相談し合っていた。

 鬱陶しいと思う事も多かった先輩だが、あの無駄な明るさの為か、それなりに人望はあったようだ。まぁ、長年勤めてきた先輩だしな。僕も、そんなに嫌いという訳ではない。あの鬱陶しい絡みさえなければ。

 その話を聞いていて、「今年度もいよいよ終わりか」と感慨に耽っていた。

 新年度。

 四月といえば、純から初めてメールが来た頃か。

 間違いメールから、ここまで発展するとは。あの頃は思ってもいなかった。

 色々と、思い出してしまう。


 気が付くと、僕は、純の地元へ向かって車を走らせていた。

 もしかしたら、あの喫茶店で、コーヒーを飲みながら本を読んでいるかもしれない、なんて思って。


「いらっしゃい」

 店に入ると、店主が挨拶をしてくれた。

 僕も、「どうも」と挨拶をして店内を見回す。……やはり、純はいない。

「やっぱり来たんだね」

「やっぱり?」

「差詰君、だったよね?」

「は、はい」

 やっぱり、という店主の言葉が気になったのだが、「どうぞ」とカウンターの席を勧められて、僕は取り敢えずその席に座る。そして聞く。

「あの、純は……」

 僕の言葉が詰まってしまったところを見計らって、店主が口を開いた。

「純ちゃんはね、もう行っちゃったんだよ」

「そう……ですか」

 もう引っ越していた可能性も考えてはいた。それでも僕は、「もしかしたら」と思って来たのだが……。無駄足だったようだ。

 店主はコーヒーを淹れていた。渋くてカッコイイその姿に見惚れていたが、ふっと我に返って声を掛ける。

「あの、マスター。〝やっぱり〟ってどういう事ですか?」

「純ちゃんがね、引っ越す前にここに挨拶に来てくれたんだよ。〝今までお世話になりました〟って。本当、律儀な子だよねぇ」

 さながら、保護者のように微笑みながら、店主は言う。

「それでね、その時に、〝もし差詰君がまたここに来るような事があったら、伝えて欲しい事があるんです〟って言ってたんだよ」

「その……、〝伝えて欲しい事〟っていうのは?」

 少し、ドキドキしながら聞いた。

「〝あまり人を信じすぎちゃ駄目だよ〟だってさ」

 ……呆気に取られた。本当の最後まで、僕への指摘か。というか、それは純に言いたい言葉だ。

「あまり、疑ってばかりいるのも寂しいものだけどねぇ」

 そう言いながら、店主は僕にコーヒーを差し出した。

「えっ? これは……?」

「純ちゃんから。君への餞別だって。面白い子だよね。餞別って、普通は遠くに行っちゃう人に贈るものなのに」

 ははっ、と笑う店主に釣られて僕も笑った。本当に、変な子だ。

「有り難く、いただきます」

 ブラックのまま、一口。そして二口。

 ふと、純との思い出が過る。そして、涙がこぼれた。それと一緒に、言葉もこぼす。

「僕、純の事を理解してあげられたかどうか、分からないんです。本当に、これで良かったのか、未だに考える事があって。彼女が求めていた答えっていうのは、また違うものだったのかもしれない。僕は、彼女の為を思って、彼女の言う事を信じて、彼女を応援して送り出した。それが、正しかったのかどうか……。今となってはもう、後の祭りですけど」

 涙を袖で拭って、気持ちを紛らわすように、コーヒーに口を付ける。

「何が正しくて、何が間違っているかは、人の捉え方次第だからねぇ。後になって、やっと分かる事もあるし、迷宮入りしちゃう事だってある」

 「でもね」と言って、店主は続けた。

「無理して理解しようとしなくても良いんじゃないかな。そういう人もいるんだな、ぐらいに留めておけば」

 「重い荷物で辛くなったら、下ろして休む事も大事だよ」とも店主は言った。何だか、僕の心が軽くなった。店主が僕の荷物を持ち上げてくれたかのように。

 店主は、純から大まかな事は聞いていたらしく、僕はそこに付け加えるような形で話し、色々と聞いてもらった。

 心の荷物を下ろし、ひと時の休憩。

 純の事から雑談へ。

 色々な話をした。主には、信じる事や疑う事の話だった。

 その会話の中で、僕は思った。何処までを信じ、何処からを疑うか。その尺度は人それぞれで、その度合いが一致した時こそ、人と人は信頼関係で結ばれるのではないか、と。

 そして、今回の僕と純との場合は、度合い以前に〝出会い方〟が問題だった。一歩目にして躓いてしまっていた、という訳である。「たかが一歩、されど一歩」である。


 暫く店主と会話を交わした後、そろそろ頃合いかと、帰り支度を始める。

「長々と話し込んでしまって、すみません。ありがとうございました」

「いやいや、また話したい事があったら、いつでもおいで」

「はい」

「あっ!」

「えっ!?」

 大きな声を出した店主に驚いて、僕も大きな声が出てしまった。

「大事なこと伝えるの忘れてた」

「な、何ですか?」

 まだあるのか。伝えたい事。

「〝ありがとう〟と〝出会いを大切に〟、だってさ」

「……」

 こっちの台詞だ。

「全く、自分で伝えれば良かったのにね」

 本当だよ。あの捻くれ者め。

「マスター。もし彼女がまたこっちに帰ってきて、ここに顔を出したら伝えてください。〝その言葉、そっくりそのままお返しします〟と〝ごちそうさま〟って」

「分かった。メモしとくよ」

 店主は笑った。そして、店から出る僕に手を振り、「気を付けて」と言ってくれた。

 僕は深く一礼をし、車へ向かった。




 あれから数ヵ月。

 僕等は、少しぐらい成長する事はできたのだろうか。

 〝恐怖〟という点においては、それを乗り越える力を、多少なり、身に付けることができたかもしれない。僕は「何かを失う怖さ」を。純は「弱さを受け入れ、それを人に見せる怖さ」を。とは言っても、あれから僕と純は会っていないので、彼女に関しては、どうなっているのかは分からない。

 僕の場合は、彼女に告白しようがしまいが、結局はバッドエンドを迎えるルートが定められていた訳だが、どちらにしろ、結果的にそうなる運命だったなら、告白して良かったと思う。彼女の場合は、相手(僕)に弱みを見せる事ができた。そして、内なる恋心も。それならば今後、強がる振りをする事無く、他の人にも弱みを見せる事ができるようになるかもしれない。家族なり、新たな友達なり、人と打ち解ける事ができるようになる可能性はあるだろうと、僕は勝手に思っている。

 彼女も変わろうとしていた。何せ、僕に「成長しないわよ」と言っておきながら「私達、似過ぎてる」と言うのだから、自分に言い聞かせていたも同然である。僕を利用し、遠回しに自分に発破をかけた。……なんて、捻くれた女の子だろうか。


 それにしても、何故、僕のケータイアドレスが、純のケータイに登録されていたのだろうか? 今となっては知る由も無く、結局のところ、解らず終いだった。

 だが一応は、この偶然か、偶然でないかも分からない出来事に感謝しなくては。この出来事をきっかけに、お互い(特に僕は)、ほんの少しかもしれないけれど、変わることができた気がするから。

 純は「僕と出会えて良かった」と言っていたが、僕も今回出会った相手が純で良かったと思っている。涼太辺りに話すと、「あまり、昔の事を引き摺るのも……」等と言われるが、僕が良かったと思っているのは、僕の勝手である。僕自身が良しとしているのなら、それで良い。彼女と出会う前と比べると、考えられない程の変貌である。まぁ、涼太の影響もあるだろうが。人を好きになる事に関してもそうだ。僕は、僕を好いてくれる人を好きになってきた。しかし、今回は違った。冷たくあしらわれようが、無関心な反応をされようが、僕は彼女の事を好きでいた。〝騙されるかもしれない〟という事を覚悟の上で。


 受動的だった僕が、少しは能動的に行動するようになった。

 徐々にだが、自分の思いをはっきり伝えたり、感情が表に出るようになってきた。本当に、昔と比べたら別人のようだ。だが、それがおかしな事だとは思っていない。むしろ、自然に、ありのままで日々を過ごせている気がする。周りがどう思おうが、知った事か。僕は最近、純のように、無礼で我儘な態度を取る時がある。以前なら、そんな態度を取れば、その後の落ち込み様は酷いものだった。反省と後悔の念に押し潰されてしまうのではないか、というぐらいに凹みまくっていたのである。それが今では、落ち込む事もそれ程では無くなり、割とポジティヴな姿勢を保つ事ができている。「本当に僕は、周りに影響されやすいな」と思った。

 そんな僕の事だから、いつまたネガティヴ思考に陥るかは分からない。しかし、「取り敢えずはこのままで良いか」と思っている。涼太や純に、教えてもらわずとも教わった、〝自分がそれで良いと思うのなら、それで良い〟という考え。暫くは、この自分を信じて、自分のやりたいようにやっていこうと思った。




 後日談。

 涼太は、恵ちゃんと仲直りをしたらしかった。失くしてしまったという指輪も見つかったらしい。

 それからは、バドミントンのサークルに恵ちゃんも連れて来るようになった。あの二人は、喧嘩の頻度も少なくなり、やっと落ち着いた雰囲気になっていた。

 職場では、先輩が辞めた後、騒がしさが無くなった……、訳ではなかった。代わりに、騒いでいる奴がいる。恥ずかしい事に、僕と一緒にいる奴なのだが。そう。涼太である。

 事あるごとに、大声で、大袈裟な反応をする。恵ちゃんといる時は割と静かにしている癖に。そして、先輩の代わりに、僕に絡む。「早く新しい出会いを見付けろよ」等と。本当に煩い奴だ。でも、彼が僕の友達で本当に良かったと思っている。調子に乗りそうだから、本人には言わないけれど。


 仕事以外での僕は、というと。

 地元の喫茶店で、コーヒーを飲みながら本を読む事が多くなった。

 純の行き付けであった喫茶店にも、マスターに話を聞いてもらいたい時に、たまに行く。しかし、流石に遠いので、普段は純と初めて会った喫茶店でコーヒーを飲んでいる。今ではブラックしか飲まなくなった。


本日も、喫茶店にて本を読んでいる。

そろそろ、昔読んだ本を古本屋に売りに行こうかと思っているのだが、なかなか行動できない。古い本も再び読む事もあるので。今日はそんな気分の日だった。もう一度読もうと思った古本の一部をバッグに入れ、コーヒーを飲みに来た。いや、〝コーヒーを飲む為に〟ではなく、〝本を読む為に〟喫茶店に来たと言った方が正しいか。

「すみません」

 本を読み耽っている時に、急に声を掛けられて驚いた。

僕は手に持っていた本にしおりを挟んで閉じた。そして、声を掛けてきた人に目を向ける。

 ……知り合い、ではない。

 眼鏡を掛けた、長い髪を後ろで一つに結んでいる女性だった。僕と同い年ぐらいだろうか。

「え、と……。何でしょう?」

 尋ねると、その女性は僕にこう言った。

「最近、よくここで本を読んでますよね?」

「え、えぇ」

「本、好きなんですか?」

「まぁ、はい」

「私も本が好きなんですけど、ちょっとお話しませんか? 私、その本が気になってて。結構、昔に出版された本ですよね?」

 と、その女性は、僕が閉じた本を指差して言った。

 ……最近の女の人は、積極的なんだなぁ。

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