07.片側に下がりきった天秤
真っ青なはずの空は白と黒の煙に隠され、道は鉄骨やら石やらを運ぶ労働者たちで賑わっていた。建物同士も近接していて解放感はないけれど、体は大きく動かせる。
「やっと外に出られた……」
リズによると「この辺りは安全そうだから少しなら出てもいい」らしい。ちなみに二人の悪魔はいつも通り偵察に、ミラは私とは反対側を散歩している。来た時にチラッと見えた石像を間近で観察したいんだとか。
港町のあの通りと比べると、人通りは変わらないが店の数は極端に少ないように思える。殆どの建物が住居だ。駅の近くならもっと面白いものがあるかもしれないのだが、リズに「この辺り」と制限をかけられていて行きようがない。
それにしても……暇だ。外に出て気分転換できたのはいいが、結局やることは何一つない。お金があれば買い物もできたのだが、前に拾った真っ二つの硬貨以外持っていなかった。
「散歩しかないかぁ……」
空き家で独りちょこんと座っているよりはマシだ。動ける範囲が広いだけ、まだいい。
でも考えてみれば、アギルを倒してから既に一週間も経っている……ちょっと変だ。レイクロック学園にいたことだって、すぐにバレた。この町の方向に鉄道で逃げたのに、捜索の手が及ばないはずはない。
実はもう見つかっているんじゃないだろうか。そんな不安感が私を襲う。もしかしたらこの近くに見張りがいたりして――
ドスッ。
「きゃっ」
「わっ、すみません!!」
白いワンピースを着た金髪の女性とぶつかってしまった。少し下に目線を落とし考え事をしながら歩いていたから……。
「大丈夫?」
落ちた青白いつば広帽子を拾い上げた女性は、ぶつかった私に気遣いの言葉をかけた。綺麗な顔立ちとその優しさは、まるで女性の理想像。私もこんな風になりた……んん? あれ?
「ど、どうしてそんな見つめて……え?」
見覚えがある気がする。ええと、金髪の女性……私じゃなくて……あっ。
「シャノン!?」「ラキュエル!?」
驚く声が見事に重なった。さっきのは訂正する。人を殺しに来る人間は理想像でもなんでもない。あ、でも国のために仕事をしているから、考え方によっては理想像って言っても間違ってはいないのか。
それで、私はどうすればいい? こんな場所で戦ったら住人を巻き込んでしまうかもしれない。リーンが近くにいるわけでもない。それなら、残る選択肢はたった一つ。
逃げるが勝ち!
「ちょ、待ちなさい!!」
足を踏み出した瞬間にガシッと腕を掴まれた。詰んだ。こ、こうなったら大声を上げるしか……。
「アナタに危害を加えたりはしないから! 話を聞いてちょうだい!!」
「え?」
リズによると、シャノンは三天使の一人。普通に考えれば、あの日のように私を殺そうとするはずだ。
「……頭でも打った?」
「なんでそうなるのよ」
違ったか。いや、でも殺そうとしていたのには変わりないはず。頭を打つ以外に思考がおかしくなる原因は……ん? なんかガヤガヤし出したぞ。
「なんだなんだ喧嘩かぁ?」
「いいぞ、やっちまえ!」
たまたま通りかかった男たちが何故だか盛り上がり始めた。マズいな。騒がれるとリズにバレる。面倒事を増やしたら何をされるか分からない。
「ああ、もう! こっちきなさいよっ!!」
シャノンが私の腕をそのままグイっと引き、輪から抜け出す。急いで近くの建物の影に隠れると、自然と長嘆息が漏れた。
「素直に言うこと聞けばいいのに……」
「アンタの言うことなんて聞くと思ってんの?」
自分を殺そうとした人の命令を素直に聞くやつがいるか。やっぱりこの人、ちょっと抜けているのか? それとも常識が通じないくらいに狂っているのか?
「今、絶対心の中で笑ってるでしょ……」
ご名答。とても面白かった。この後、どうせまた言い合いになるのだろうと身構える。だが、シャノンは声を張らずに、呟くように発した。
「まあ、そうよね。アナタにとって、アタシは敵だもの。警戒して当然だわ」
はねてしまった前髪をちょいちょいと元に戻し、腕を組みなおして話を続ける。
「なんて言えばいいのかしら……そうね、ちょっとアナタに話があるのよ。言い方を変えれば取引みたいな?」
* * * * *
カップから立ち上る温かい湯気と漂う香りが、一週間も引きこもっていた私の感覚を刺激する。このようにゆっくりできるのも、ミラにご馳走になった日以来か……って、何をしているんだ私は。
「なによ。あんまり好きじゃないの?」
「別にそういうことじゃないけど……」
万が一何かされそうになったらすぐ逃げようと決意して、うんと頷いたのだが……近くの喫茶店に無理やり連れ込まれた。本当に大丈夫だろうか。しかも一番奥の広めの個室だ。二人の店員さんがドアの外に常駐している。
「わ、私……お金持ってないんだけど……」
どうにかしてここを出る口実を作らなければ。そう思っての金欠アピール。
「奢るわよ。アタシから誘っておいて割り勘は無いから安心しなさい……まあこっちもギリギリだけど」
「わー、やったー」
嬉しいけど嬉しくないとはまさにこのことである。あ、なんか高そうなお菓子が運ばれてきた。しかも、それと同時にお腹が鳴った。
「話、初めていいかしら」
「あ、どうぞ」
おいしい。勿論名前も知らないし、食べたことも見たこともないけど、なんかふわふわしていて甘い。
「まず、アギルについてね。彼、生きてたわ」
「ゴホッゴホッ……え?」
あまりにも予想だにしない言葉を耳にし、お菓子をのどに詰まらせむせてしまった。アギルが生きていた? 腕を捥ぎ取って、川に捨てて、あんなに血も出ていたはずなのに……。
「相当痛めつけたみたいだけど、大量出血じゃ死なないのよ。ほら、アギルって空気を操れるでしょ?」
そうか……能力のことを完全に忘れていた。確実に殺すなら、頭を割ってやるべきだったか。
「その後アタシが倒しちゃったけどね」
「え? 天使同士なのに、いいの?」
ファイザーによって選ばれ、常人を遥かに凌ぐ力を与えられた人間である天使たち。天使同士で衝突するというのは、ファイザーの意向に反することなのではないだろうか。
「……いいわけないでしょ。でも、やるしかなかったのよ。二人とも、来なさい」
アギルと戦わなければならない理由があったのか。ところで、二人っていうのは……。
バンと扉が開け放たれ、いきなり部屋に入ってきた店員たち。黒を基調とした制服に手をかけ、二人同時に脱ぎ捨てて正体を明かした……みたいだけど、誰?
「アタシの部下よ」
そっか、部下か……私、初めから閉じ込められてたみたいだね。唯一の扉の前に部下を、しかも二人配置するなんて何かする気満々じゃん。
「そっちの子を人質に取られちゃってね。アタシは部下の命を守ることを選んだわ」
「どうしてアギルはそんなことを?」
「分からないわ」
アギルがシャノンの部下を人質にとるということは、すなわちシャノンに対し何か命令を下したということ。ファイザーには歯向かわなそうな男だけど……そっち側にも理由があったのだろうか。
「ボコボコにはしたけど、殺してはないのよ? でもまあ、ファイザー様に知られたらアタシだって狙われかねないわ」
「じゃあ、ファイザーに狙われてるって点では、私とアンタは同じ境遇ってこと? 気に食わないけど」
「ええ、そうなるわね。気に食わないけど」
私の言葉をわざと重ねて話すシャノン。すると組んでいた足を元に戻し、一呼吸置いて口を開いた。
「アナタとの取引、もう分かったでしょう? アタシはこの二人を守りたい。それに、二人を置いて先に死ぬわけにもいかないの。だから、アタシはアナタに手を出さないし、こっち側の情報もできる限り提供するわ。必要なら戦いにも協力……」
「分かった! 分かったから!!」
一生懸命になって私に頼み込むシャノン。その理由はよく分かった。私が同じ立場だったとしても、同じ選択をするんじゃないだろうか。
それに、これはこちらとしても悪い提案ではない。敵が減るだけでなく、敵の情報が手に入る。それだけじゃない。天使に関して、ファイザーに関して、それに――
「じゃあ、教えてよ。アギルが私を『生まれてきてはいけない人間』だって言ったんだけど、どういう意味なの? それはファイザーに狙われる理由なの? それに、私のお父さんとお母さんはどうなったの? ねえ、教えてよっ!!」
私の視界はいつの間にか滲んでいた。