傷 痕
*
「ーーーーーー……!!??」
リリーは目を見開くと隣には黒い毛に全身を覆われた一匹の狼がぐうぐうと寝息をたて彼女を包み込むように寄り添っている。
石柱の神殿、全てを見透かすような大きな月。
自分は『冥界』に戻って来たことを思い出したーー……。
リリーはケルベロスを起こさないようにそっとその場から離れる。ヒールのある靴を脱いで、渇いてひび割れた地面を素足で一歩一歩歩き出す。
《サァーーーー……》
動きやすいようにと長いウェディングドレスは太股で破り、破りとって巻き付けていた生地も小鳥と一緒に地面に埋めてしまった。
胸から膝まで薄い生地一枚だというのに、冥界の風が肌にあたっても寒いとも感じないし、川の水に触れても冷たいともあたたかいとも感じない。
彼女の死ぬ間際に付けられていた『一本の短剣』は『彼女の死』と共に『冥界』に持ってこられていたーー……。
乾ききった地面を素足で歩いていても、足が痛くなることもない。
……けれど、母親に裏切られた記憶は、死後にも記憶から消えることなく忘れようとしても、幾度となく夢に現れ彼女を何度も深く傷つけた。
「リリー?」
『何も感じない体』になってから『唯一得られる存在』があったーー……。
「……散歩よ。……それに、どこへ歩いていってもあなたのいる神殿に戻ってきてしまうの、わかっているでしょ? ケルベロス」
「そんな無意味なこと止めたらいい」
「無意味だって言われたって……。立ち止まっていると何もできない無力さに苛々して……胸が苦しくなるんだ……」
リリーが感じられた唯一の暖かさはケルベロスの体温だった。
怒ると大きな背中の毛が逆立ち、大きな尻尾は苛立ちを抑えるようにピンと伸ばされた後左右に揺れる。
リリーの体に触れると鋭い爪から人間の男性の綺麗な指先に変わり、体が小さくなった分手枷はスルリと腕までずれ落ちる。
「お母様は……私を……助けてはくれなかった……。私は愛されては……いなかった……」
リリーは生まれた時から疑うことはあっても自分は他の姉妹と同じく、母親から愛されていると思っていた。他の友達の家族や街であう家族と同じだと思っていた。今も、心の隅では母親のことを信じている。
裏切られてもなお彼女は、唯一のあたたかさを心で感じ『愛』を求めていたーー……。
「訃報だ」
月の光が反射し銀色に輝くケルベロスの瞳を見つめる。
リリーはその場に立ち尽くし涙を流した。
それを見たケルベロスは、遠くを見たまま彼女の肩に手をあてる。肩に触れた手で彼女を自分の胸に抱き寄せる。
ケルベロスの黒の衣装が、リリーに強く捕まれた指先で皺ができる。彼女の長い睫毛に雫がたまっては、頬をつたい、流れては渇いた地面にポタポタと落ちたーー……。
ケルベロスは自身のマントに彼女を包み込み、二人は冥界から姿を消した。