冥界の番人ケルベロス
◇◇◇
「お姉さま、泉を見てください。泉のまわりに綺麗なお花がたくさん咲き乱れていますわ」
樹木の間から泉に差し込める穏やかな太陽の光。フリルがふんだんにあしらわれた上質なサーモンピンクのドレスを着た少女が草花の上に屈む。透明で透き通った泉の水をたっぷり吸った百合の花に顔を近づけると花の香りを堪能する。それは甘い濃厚な蜂蜜のような香りだった。
肩にわずかにかかる緩く巻かれたミルクティー色の髪の毛。小柄で細身の彼女の声量は鳥のさえずりほど小さく、語尾が優しい印象を受けるやわらかな口調だった。彼女の名前は『ライリ・ベリー・ブラン』。北陸シュリア帝国の『第六王女』である。
すると、森の奥から生い茂る草木を掻き分けて一人の女性が近づいてくる。
「……なんだい、ライリ?」
腰まであるプラチナブロンドの長い髪を、白いリボンで1つに結んだ、ターコイズブルーのジャケットに白いパンツ、革のブーツを履いた女性。
腰には鞘をベルトで固定し、鞘の中には良く研がれた一級品の剣が収まっている。
彼女の名前は『リリー・ヴァリーヌ・ブラン』。ライリの姉で北陸シュリア帝国の『第一王女』である。
「お姉さま!」
「ああ……ライリ。そんなにはしゃいではせっかくのお召し物に泥が付いてしまうよ」
ライリは姉のリリーの姿を見ると、自分よりも背の高い姉の胸にぎゅっと抱きつき、澄んだ森の大気を胸一杯に吸い込んだ。
「お姉さま、山奥にこんな素敵な場所があるのですね!」
「ああ、私のとっておきの場所なんだ。」
リリーはジャケットのポケットから成熟した瑞々しい林檎を取り出すと、泉に水を飲みに来ていた鹿の前にそっと差し出す。鹿は人間に慣れているのか怖がることなくリリーの手のひらから、シャクシャクと林檎を食べた。
「鹿に触ってみるかい? ライリ」
ライリは見たこともない動物に初めは姉の後ろに隠れていたが、危険ではないと分かると鹿を驚かさないように恐る恐る手を差し伸べた。
《ドン……ドン、ドン……!!》
いきなり教会の方から身の毛もよだつ、恐ろしい銃声が聞こえる。その音に反応し鹿は逃げてしまった。銃声はけたたましい音と共に再度数十発放たれると、木に止まっていた鳥はその場から一斉に飛び去った。
「……! お姉さま……!?!?」
ライリは一瞬の出来事に言葉を失う。姉の名前を呼ぶと腰を抜かしその場にしゃがみこんだ。
《グオォォォォ……!!!》
リリーの背後で錆びた鉛どうしが絡まってぶつかり合う音がする。リリーの体は宙に浮き、突然の衝撃に全身の力が抜ける。
「きゃあああああ……!!!」
リリーは妹の悲鳴を聞くと、徐々に自分に起きている『異変』に気づいた。真っ黒い巨大な狼が息を上げ激怒しながら自分の背後に立っている。地面を見ると足が浮いている。最悪の事態から脱出しようと思ってもがいても、首に刺さっている牙が動く度に奥にのめり込んで行ったーー……。
噛みつかれた首からはダラダラと血が流れ泉を赤く染めるーー……。
すると、怒りが治まらない魔物は姉だけではなく、怯える妹にまで手を伸ばしたーー……!!!
「や、やめーーやめ……ろ……っ!!!!」
むざんにも魔物の鋭い爪は妹を引き裂く。
綺麗なドレスは爪痕でボロボロになり、ライリが持っていた百合の花は魔物の爪で花と茎を真っ二つに引き裂かれる。
泉に落ちた真っ白な百合の花びらは、その姿を徐々に真っ赤に染めていったーー……。
◇◇◇
◇◇
◇
「ラ、ライリ……!?」
リリーは全身に大量の汗をかき、目を覚ました。
すぐに辺りを見渡すと20メートルはあろう石でできた大きな柱が2メートルおきに平行に並んでいる。柱と柱の間から見える幻想的な風景。地面は煙で覆われて足元がよく見えない。北陸シュリア帝国に『このような場所』など見たことがなかったーー……。
リリーは神殿を出て、石の階段を下りる。霧を手で掻き分けると土は干からびて割れた地面が現れた。リリーは靴擦れが出来たヒールの高い靴を脱ぎ、ウェディングドレスの裾を持って歩き出した。
……だが、歩いても歩いてもまた同じ神殿の前に来てしまう。それは反対方向に向かって歩いても時間の無駄だった。
以前、本で読んだことがある。人間は死ぬと体から魂が抜け、魂はこのような場所、『冥界』に来ると。
……時間がたったのを体感で感じとるとリリーは全てを悟った。自分はついに冥界に来てしまったのだと。
「ふ……ふふふ……」
すると淀んだ霧の中から不気味な笑い声が聞こえる。
「誰……?」
四本足を鎖でつながれた魔物はだんだんと姿を現し『人間の姿』に変化した。
「俺の名は冥界の番人、ケルベロス」
リリーは太股にベルトで固定してある鞘から剣を抜くと、両手で刃先をケルベロスに向ける。これ以上近寄ったら殺すと鋭い眼光で睨み付け警戒した。
「泣いているかと思って様子を見に来てみたら、随分肝が据わった威勢の良い花嫁だな」
「花嫁……?」
じわりじわりとケルベロスはリリーに近寄る。
「忘れたとは言わせないぞ? ……何よりも、薬指の『誓いの指輪』が証拠だ」
リリーは自身の左手薬指を見る。
そこには、『黒い棘の指輪』がつけてあった。
「おまえは俺の花嫁だ」
リリーは先程教会であったことを思い出す。
指輪の付いた薬指で自分の唇に触れる。
(そういえば、私、あの時、魔物の花嫁にさせられたー…。)
剣はリリーの手からスルリと抜け、地面に落ち、彼女はうつ向く。
「自分が知らぬ間に勝手に花嫁にされたなど。しかも、憎き魔物の花嫁などと。絶望するか、泣き喚くか、さぁ、人間の苦しむ顔を見せておくれ……!!」
リリーは自分の中で納得したのか、魔物の瞳を見つめ重たい口を開いた。
「……別に構わないわ。あなたの花嫁になっても」
「なんだと……!?」
「……けど、一つだけ願いがある」
リリーは剣を鞘にしまい、胸に両手をあてて、再度瞳を閉じた。
「……妹が泣いてる気がする。妹ときちんとお別れをさせて欲しい」
ケルベロスは腕を組み少し考え、リリーの表情を横目で見る。リリーは依然自身の信仰する『神』に祈っていた。目の前にいるのは『神』ではない、『冥界の悪魔』なのだけれどもーー……。
「……いいだろう。しかし、お前一人では帰らせぬ」
「そう言うと……?」
「旦那も共に着いて行こうーー……」
ケルベロスは花嫁の手を取り、彼女を自分の物だと主張するように棘の指輪にキスをしたーー……。
それをリリーは冷酷で非情に冷たい目で見つめている。
(城は長年住んだ私の庭。どこに何があるか手に取るように分かる。城にさえ戻ればこっちの物。きっと魔物の隙を見て、逃げ出せるーー……)
「……わかったわ」
(……だから、心残りのないように最後だけ妹の様子を見に行きたいのーー……)