病原体
これは僕が大学病院にいたころの話である。
今も変わっていないと思うが、当時、毎週月曜日は教授の一般外来があり、われわれ医局員は輪番制でベシュライバーにつくことになっていた。
ベシュライバー(Beschreiber)とは診療の横について教授と患者のやりとりを聞きながらカルテ、処方箋、手紙などを書くいわば代行業務なのであるが、ただでさえ忙しい月曜の午前中に回ってくるもんだから、われわれにとっては非常に面倒な役割であった。しかもうちの大学病院の外来は看護師が仕事をしてくれないため(語弊を恐れず敢えてこう言っておく)、患者のアナムネーゼ(問診)から身体測定、体温、血圧の計測に至るまですべてがわれわれの仕事であった。
ところで教授の外来は、一般診療以外にもう一つ重要な役割がある。
それは実習(という名のただの見学)に来ている医学生たちの指導である。
実習の形態にもよるが、たいてい外来に来る学生たちは5、6人のグループからなり、一週間単位でそれぞれの診療科を順番に回ることになっている。
教授はそれらの学生たちにレクチャーをしなければならないのだが、話すネタが無限にあるわけもないから、必然的に毎週同じような話をすることとなる。
その中でも教授の得意なネタの代表が免疫(予防接種)と病原体の話であった。
診察室の隅っこに椅子を並べて座っている学生たちに向かって、教授はいつもこう質問する。
「病原体の種類を一人一人順番に言ってみろ。」
普段は遊んでいる学生だが、国試の勉強を始める頃には生半可とはいえある程度知識はついてくる。一人目の学生が「細菌です。」と答えると二人目は「ウイルスだと思います。」と続く。さらに「真菌」、「原虫」…などメジャーな病原体が出てくる中、教授は黙ってうなずいている。
大体の病原体が出そろい、ついに学生が答えられなくなったとき、教授は嬉しそうに身を乗り出す。
「なんだ、もう終わりか?まだもう一つくらいあるだろ?」
そして頭を抱えている学生に向かって、満足げに薄ら笑いを浮かべながら低い声でこう言うのだ。
「わからんのか?プリオンだよォ。」
「プ、プリオン!?」
驚く学生たちの反応に喜ぶ教授。
プリオンはBSEやクロイツフェルト・ヤコブ病の原因となる感染性因子である。
その本体はタンパク質であるから生命体ではないが、確かに病原体であることにちがいない。さすがは教授だ、まったくもって目の付け所が違う…。
それから時が流れたある月曜日の朝、僕はまたベシュライバーとして教授の外来についていた。広い診察室の隅っこには学生実習のグループが座っている。
そして、一般診療がひと段落したあとで教授は学生の方を向いていつものようにおもむろに切り出した。
「病原体の種類を一人一人順番に言ってみろ。」
学生グループがざわつく。
そして、一人目の学生がこう言った。
「プリオンです!」
(完)