イベリス
イベリス
心をひきつける 初恋の思い出 甘い誘惑
(私の二度に渡る初恋の思い出を語らせてください)
慎ましやかな唇から搾り出すようにして、そう語り始めた年頃の乙女の頬は仄かに赤みがかかっていた。
その声はか細く、風が吹けばどこかへ押し流されてしまいそうな程小さな音なのに、不思議と彼女を囲んで円座になって座る少女たちの耳によく通った。
私が初めて異性と言うものを意識したのは保育園の頃で、その人は女性保育士さんでした。
彼女の名前を仮にSさんとしておきましょう。その人の肩まで伸びた黒い髪はいつだってボサボサで、おおよそ艶やかさとは縁のない枯れ枝みたいな毛を振り回しながら、園内をそこらかしら走り回ってはやんちゃな子供達を追い回していました。私の記憶のアルバムに残されている彼女はどの場面も汗だくで――けれど殆ど全ての場面で彼女は笑顔で写っています。彼女は決して美人といえる顔立ちではありませんでしたが、私達を見守る慈愛に満ちた優しい笑顔は、当時の私の心に強く刻まれました。
その保育園にはお昼寝の時間があり、私が彼女を強く慕いだしたのはその時に起きた事が切っ掛けでした。
麗らかな春の陽光がカーテンに注ぎ、仄かな優しい温かみが教室に広がる午後のひと時。私たち園児は教室に揃って敷かれたお布団に横になっていました。室内には他の子どもたちの快いすうすうとした寝息が聞こえていましたが、私は両の目をぱちくりと開かせてジッと天井を見つめていました。もし眠ってしまったらお母さんが迎えに来ても気づいてくれないのではないだろうか、なんて馬鹿な事を考えていたのです。そんな私にソッと寄り添って、その暖かい掌で私のお腹を撫でてくださったのが彼女だったのです。私はくすぐったさと恥ずかしさに身悶えして――同時にドキドキし始めました。母以外の人から添い寝をしてもらうのはその時が初めてではなかったように思いますが、その時、私は彼女から漂ってくる――我が家のものとは違う種類のシャンプーや柔軟剤を思わせる幽かな香りに混じって、母とは違う人である事を示す――臭いに震えが走りました。
それは強く、強く、異性を意識させる花のような香りでした。
私は――なんだか――その――むずむずしてしまって――お腹を撫でる、その無骨ながらもどこか繊細な指先の触れ幅が、これ以上大きくならないよう祈るのみでした。
彼女はそんな私の思いを知ってか知らずか、ただただ私の午睡を促してきました。それは母親以外から初めて向けられた母性の欠片を感じさせ、単調なリズムで撫でるその動作には、決して事務的なものでないと確信させられる何かが込められていました。
その日から私は彼女を目の端に住まわせる事に終始する日々を過ごすようになりました。
そうして私は卒園する際、彼女に自らの思いを告白する事にしました。園内の花壇に可愛らしく咲いていた花を一輪摘み、制服の胸ポケットに隠して卒園式に臨みました。この花と一緒に婚約の約束を取り付けようと考えたのです。今思えば愛らしいと言えなくもない稚気溢れる行動ですが、その時は、その時にしか持ち得ない熱情に包まれて動いていたのです。
そして、卒園の日、遊戯室に集まった園児達が一斉になって別れの言葉を告げると、皆一人づつ親に連れられて帰路に着きました。私は母の目を盗むようにしてガヤガヤとごった返す室内を押し進み、彼女の元へと駆け寄りました。小さい体いっぱいにありったけの勇気を込めて――。
しかし、私は彼女の姿を見て固まってしまいました。
彼女はさめざめと泣いていました。
その月は3月にしては気温が高く、私も制服の下に羽織っていたシャツにうっすらと汗が滲んでいた程です。彼女は汗っかきであったのでしょうか、顔中を真っ赤に染め上げ、額は流れる汗でしとどに濡れ、充血した目を何度もハンカチで拭っています。嗚咽を堪えようともせず、壊れた蛇口が吐き出すかのように顔中に涙が氾濫し、林檎のように火照った頬が優しい雫によっててかてかと輝いていました。
私は彼女がここまで泣きはらすとは露ほども思っていませんでした。園児が粗相をしてしまい、彼女の服を汚してもニコニコしながら雑巾を持って清掃し始める程温厚な人柄だったからです。また、悪戯をしてしまった悪童を怒る際にも決して声を荒立たせず、困ったような表情をしながら、ずっしりとした口調でその子を諭すほど温厚な人でした。
ともかく私はその光景を見て――今思い返しても歯噛みしたくなるほど――情けないことに告白する意気地がなくなってしまったのでした。大人は泣かないものだと信じていた愚かな私は、見てはいけないものを見てしまったような、なんだか居たたまれない、居心地の悪さを感じてしまったのです。もし私がその花を彼女に渡せば、彼女はどうなってしまうのだろうと考えると恐ろしくさえなりました。
結局、私はそのまま彼女に花を贈らずに母の元へ駆け寄りました。一言、別れの声を掛ける勇気さえ私には無く、卒園式の際に皆と一緒になって「ありがとうございました」だかなんだかの、通り一遍の挨拶を投げかけただけで別れを済ませてしまったのです。
これが、私の一度目の初恋の思い出です。
――
初恋に「一度目」だなんて言葉を用いたのは奇妙に思われることかもしれませんが、これにはキチンとした理由がありまして、お集まりいただいている皆さんはもう感付かれていると思われますが、先ほどの思い出話は私がまだ男であった時分に落ちた初恋の話なのです。
ここからは私の二度目の初恋の話――即ち男であった私が今の身体になってから始まった恋の話をしたいと思います。
私は、かつて男であった身でありながら、元同性である男に惚れてしまったのです。
その男の名を、仮にTさんとしておきましょう。私と彼の関係を一言で表すならば、親友という言葉が近かったように思います。
私が小学生になり、初めて教室の席に座ったその隣に彼がいました。そうして二ヶ月ほど隣り合って授業を聞いていたわけですが、その間に私たちはすっかり仲良しになっていました。例え、私たちがその日に出会っていなかったとしても、いずれ出会えば友人になっていたことと思われます。それほど私と彼はウマが合ったのです。
彼は、何をするにしても私より常に一歩秀でていました。テストの点数、足の速さ、友達の多さ――上げれば切りがありませんが、当時の私はそれを悔しがることも無く、彼と一緒にいて、彼を頼る事を覚えていきました。末っ子だった彼は自分を頼ってくる存在に憧れていたのか、私の事を弟分のように可愛がってくれました。時にはケンカをする事もありましたが、謝罪すれば向こうは必ず受け入れてくれるという信頼感がお互いにはありました。
それは、彼が言い出した「兄弟の契り」がもたらした成果だったのかもしれません。この契りは彼が仁侠映画を見ていた時に、杯に入った酒を互いに飲み交わすシーンを見て、それが彼の心を大きく動かしたようなのですが、その翌日、彼は自販機でお酒を購入しプルタブを開けて一口飲んだ後、私に渡しました。私は、何度も首を横に振りましたが、彼は頑なにそれを勧めました。それがとても大きな意味を持つ行為だと、彼は信じきっていたのです。私は仕方がないと覚悟を決め、その苦い水を飲み干しました。渋柿を食んでしまったかのような表情になった私を見て彼はくすくす笑った後、真面目腐った顔で言い放ちました。(これで俺たちは兄弟だ)と。私はそれを聞くと、苦汁を飲んだ甲斐があったかもしれない、と思いました。
思えばここで初めて二人で秘密を共有する楽しさを覚えたのかも知れません。
その後、私たちは何をするにしても一緒になって事に及ぶようになりました。
例えば、夏休みの自由研究――。私は彼と二人で野山を一日中掛けて探検しましたが、私たちの住む町の観光名所であるその山に「ツチノコ」は見つかりませんでした。彼が藤岡隊長役で私は隊員Aの役でしたが、当時の私には一切の不満は無く、ただ彼の後を付き従って(隊員の為にも必ずツチノコを見つけねば……)等と渋い声を作って汗を垂らす彼と笑い合っていました。まだまだ私たちは幼く、何も考えず夢中になって遊びあう事が楽しくて仕方ありませんでした。
例えば、秘密基地――。私の住む町は、田舎と呼んで全く差し支えの無い程に田園や緑に囲まれていました。神社境内の裏手には、人や文明――理知的なものの進入を拒むかのように好き放題に荒れ果てた雑木林が広がっており、私たちはその場所が酷くお気に入りでした。先生たち大人はアブナイもの、キケンなものには近づかないよう私たちに教え、特に件の雑木林は子供の遊び場にしないよう、よくよく注意しておりました。ですが子供は禁止されると余計にその場所に何があるのか知りたくなるものです。だから私たちは皆には秘密でその林に忍び込み、その奥にダンボールで組み立てられた簡素な「秘密の場所」を共有しあいました。この場所は大人には絶対に教えてはいけない、と普段のおちゃらけた彼からは想像も付かないほど真面目な口調で話したので、私もゴクリと唾を飲みゆっくりと頷きました。私たちはその場所に「大人に見つかってはいけないもの」を隠して、ひっそりと楽しんでいました。入手経路を説いても決して明かしてくれなかった新品同様のラジオ、八時間ほどかけて作ったのに一度も使う機会が訪れなかった釘バット、公園のトイレに捨てられていた卑猥な本、防災袋から持ち出した非常用のカンテラ、――それらが一緒くたに投げ込まれあったその場所は、大人が私たちに課す義務のようなものへの小さな反逆心を存分に満たしてくれました。
目に映るもの全てが宝石のように輝いていたあの頃、私たちは二人でそれらの価値や触感を直に触れて確かめあい、そして共有しあうことが楽しくてなりませんでした。私たちの、これからも成長するであろう両の足は、伸びた分だけ様々な場所へと赴くことが出来るようになる――無邪気にもそう信じておりました。
けれどもある日、唐突に、そんな日々は終わりを迎えました。
――
私が小学校4年生ぐらいの頃です。ある朝、下腹部に違和感を感じて目を起こした私は、その違和感を確かめるために寝ながらズボンを下ろしました。そこには萎んだ陰嚢と、生気を失ってしまったかのような陰茎がくたりと横になっていました。
泡肌が首元、背筋、両腕を一呼吸する間もなく駆け巡り、正気ではいられない程の嫌悪感が脳を震わせました。自分が目にしたものが信じられず、震える指先を伸ばして、死んだようになっている生殖器に触れて確かめました。かつてそこにあった筈の精巣は無く、そこにはただ垂れ下がった肉の皮がぶら下がっており、親指と人差し指でそれを摘むと、ぷにぷにとした感触が返ってきました。
この世の終わりを告げるような絶叫が私の喉から独りでに溢れ出し、私の意識はそこでプッツリと途絶えてしまいました。
次に目を覚ました時、私は病院にいました。首を傾けると心配そうな表情のまま青覚めている母親の顔が見れました。ワケも分からぬまま事情を問いただすと、母の隣に立って私を見ている髭の生えた医者はトンデモない話を聞かせました。
曰く、『私は君たち一族の掛かり付けの医者だ。突然だが君は一族特有の奇病に犯されてしまった。それは千人に一人ぐらいの割合で発症し、この病気に罹った者は精巣が二つとも小さくなって身体の中に引っ込んでしまい、その精巣は男性ホルモンの製造をボイコットしてしまうのだ。んで、その石のようになってしまった精巣は、どこをどう間違ったのか女性ホルモンを気まぐれに出すようになる。そしてココからが最も奇妙な症状なのだが、君の陰茎はこれからどんどん小さくなっていき、最終的にはポロッと取れる。ついでに嚢の部分も何故か取れる。そしてその後、枯れた御花の地面から新たな芽が息吹くかのように小さな陰核が生えて来る。その際君の蟻の門渡りの部分に亀裂が走り、それがだんだん女性器の――あのアレになる。この辺りは全くどうなっているのか説明のしようがない。むしろ話す方の身にもなってくれ。オホン、ともかく君の身体は今後段階を経て女性になっていく。過去、この病気に罹った者が妊娠したこともあるらしい。これは一族が過去に女性に酷いことをして発展してきた呪いのせいだといわれているが、実際良く分からん。不思議なこともあるもんだと受け入れてくれ』とのことでした。
その医者の言葉が終わるや否や母はワッと泣き伏してしまいました。けれど私は医者の言った言葉の意味をよく理解出来ず、ましてや女性になっていくと言われても、実感が沸きませんでした。幾ら私でもそんなことはありえないだろう。と高をくくっていました。私の精巣が引っ込んだのは一時の気まぐれで、何かの拍子でストンと二つとも落ちてくるかもしれない、とどこかで期待していました。
ですが、結局今も尚、私の精巣は体の中に入ったままです。
その後、嵐のように日々が過ぎました。
学校でも教師の口から私が罹ってしまった奇病の事は説明がなされましたが、皆一様に教師が言った言葉を上手く飲み込めていないようでした。そもそも当事者である私もよく分かっていなかったですし、説明をする教師も首を傾げながら言葉を紡いでしました。例の医者もキッパリと「よく分からん」と仰っていましたので、結局この件に関する誰もが符合の付く説明をすることが出来なかったのです。雲を掴むような話とはこのことです。もうこの辺りの話はしないことにしましょう。よくわからないので。
けれども、その病気は確実に私の身体を変えていきました。医者の言った言葉通りに私のそれは縮小していき、脛の毛や腕の毛がきまぐれにはらりはらりと抜け落ちて、時折胸の周りに鈍痛が起こるようになりました。その頃から私は手鏡や姿見を見る時間が増えました。元々中性的な――悪く言えばなよなよしい顔つきだと自分でも感じていたのですが、奇病に犯されてからと言うもの、特にそれが顕著になっていきました。
仮に女物の服を着せられれば、もうそれでそのまま女性として誰も疑わずに過ごせるだろう、と我ながら他人事のように考えつつ、鏡に映った奇妙な自分の姿を日に一時間も見とれていたりして、両親に哀れな目を向けられました。
私は身体の変化に戸惑いましたが、周りの生徒達が私と同じように身体が変化していくのを見ていると、少しだけ安心できました。変化は私一人に起こっているワケではないのだ、と考えるようにしたのです。男児たちは身体がもりもりと大きく、そしてゴツゴツしくなっていき、まるでコーラスのように男児達の声の調子が揃って低くなっていくのを私は傍目で見ていました。女児たちは柔らか味のある身体のまま、ふっくらとした部分が出てきて、手提げ袋を各自持つようになりました。
男児の背が伸びる様は大木が力強く育つかのようなイメージが湧きますが、女児のそれは花が日を求めて軽やかに身を高くするような、華々しく優雅な様相を呈していました。
――
中学ともなると私たちの性差はキッパリと現れてきて、私はクラスメート達の体の成長を別の離れた場所から眺めているような錯覚に陥りました。その頃にはもうすっかり、(女生徒が男子生徒服を着ているかのようだ)などと生徒たちの話題にあがるほど、私の身体について噂されるようになっておりました。
髪は短く切りそろえるようにしておりましたが、私の体は女へと向かって成長する方針を定めたかのようで、胸の方もささやかなる膨らみを帯び、秘するべき箇所にはうっすらとした若草が生い茂り始めました。そして、その繁茂に呼応するかのように、ついに私は女性の性器を授かったのでした。月のものが訪れるようになり、その度に下腹部に間断なく続く鈍痛と、いきなり小針で刺されたのかと錯覚するほどの刺激に頭を悩まされることになりました。
けれど、最も男性を象徴する例の箇所は未だに私についたままでした。件の医者に診察してもらった際その事を相談すると『あれ、まだ残ってるのかい? 不思議だなぁ、でもまぁそのうち取れると思うから気にするな』と仰って私に痛み止めのお薬を渡してくださいましたが、私には、この男性の部分が残っている事実が、何かの意味を持っているような気がしてなりませんでした。
次第に私はクラスの皆から好機の目で見られていることに気づき始め、学校に行くのが嫌になりました。けれどTさんだけは私を変わらぬまま男として扱い、(虫取りに行こう)やら(鬼ごっこの新たなバリエーションを模索しよう)等と子供の頃と同じように、ともすれば強引な態度で接してくれました。
けれど、私はそんな彼と同じときを過ごす事が辛く思えるようになって、彼を避けるようにしていました。
私が、彼に対してどのような思いでいたのか――それはこれからお話します。
そう、それは春も盛りを過ぎ、桜の花びらもすっかり舞い落ちた物憂げな五月の初旬のことでした。
――
その日、私の体調は特に変化が目まぐるしく、朝起床した際には調子の良い心持ちだったのですが、午後になると陰鬱とした暗澹たる気分になってきました。そうして、終業を告げるベルが鳴り、生徒たちは三々五々帰宅していきましても、私は席にジッと座ったままで夕日の落ちるのを眺めて痛みを誤魔化そうとしておりました。そうしていると段々と町の闇が深くなってきまして、私の物思いもそれに釣られるかのように沈んでいきました。
このままの体で一生を過ごすハメになってしまったらどうしようか、自分が女性になっていくのを止める手立てはないのだろうか、どうして自分だけがこのような訳の分からない病気に罹ってしまったのか。そのような重くて暗い考えが頭の中で渦巻かせながら、黄昏の彼方から紺碧の波が町に押し寄せてくるのを眺めていました。
どのぐらいそうしていたのでしょうか。突然私の背に向かって声が掛けられました。私が頬杖を外し、声の方を振り向くと、そこにはTさんが立っていました。
その頃には彼の体も大人びてきており、やわさと堅甲さの両方を併せ持つ――なんとも言えない体つきとなっていました。ですが、その肢体もいずれ子供特有の中性的な部分が時のやすりによってそぎ落とされ、確固とした性を自認し、またその自覚を持ちゆくこととなるのでしょう。その事を考えるだけで、私の胸中に熱が産まれたような感覚に陥るのでした。
私は彼に適当な返事をして目を背けましたが、彼は詰め寄って来ました。(どうして近頃俺を避けるんだ)とそのような話の内容でした。私はただ目を伏せて、貝のように口を閉じたまま押し黙っていました。豪を煮やした彼は私の制服の襟首を掴み、ひたすら私を問い詰めました。私はなんだかもの悲しくなってきて――だのに彼の精悍な相貌と、仄かに香る男の汗の臭いで、私の股間には微細な反応が起こってきたのでした。
私は彼の事をどう思うようになっていたのか――尾篭な話ですが、私は男になっていく彼に憧れ、自分も同じようになっていたハズの肉体を見るたびに、憧れを感じていたのです。
つまり――その時――私は彼に――彼に欲情していたのです。ああ、浅ましい。ああ、いやらしい。このどちらつかずの身体と心は性欲と嫉妬で塗れていて、無垢だった頃に二人で築きあげた友情に汚泥を塗ってしまったのです。
そのような事実が彼に知れては、それまで通りの関係で居られる筈もありません。私は静かな口調で彼に手を離すよう諭し、友人関係を断ちたいと願い出ました。すると彼はそれまで見た事がないくらいに憤慨しました。私をなじり、兄弟の契りはどうしたのかと罵声を浴びせましたが、私は沈黙を続けました。彼は何度も、何度も私に向かって声をあげました。私にはそれがそのまま彼の私への友情の裏返しだと思うと、身を切られるような――それでいてどこか快いようなゾクリとした恍惚感を感じていました。
やがて、彼は叫ぶ事に疲れたのか、シュンと肩を落として教室を出て行きました。
私はそれを見届けると再び窓の向こうへと目をやりました。
ですがいつの間にか夕日は瞳から篭れ出た雫で滲み、紺の水膜がまろびやかに煌きを乱反射させ始めました。その、美しくももの悲しい視界を塞ぎたくて、私は机に突っ伏して世界を真っ黒にしました。彼が寂しそうに背を向けて教室から退出したことを思い返すだけで、胸の奥から成長痛とは全く違う種類の痛みが起こりました。これが最良の結果だったとはとても思えず、だけれど、自分の歪んだ肉欲が彼に晒されるよりは遥かにましなのだったと自分を慰めるしかありませんでした。
暫くすると用務員さんが現れ、教室を出るように促されました。その頃には私も泣き止んでいたので、素直に応対することが出来ました。
――
校庭に出ると、電灯が仄かに灯っており、風に揺らぐ花壇が目に付きました。
子どもだった頃は全く気にも留めなかった花や、木々が、気が付けば視界に入れば目で追うようになり、色鮮やかに咲き乱れるそれらを見てはその美しさに息が漏らすのでした。
だけどその時は、どんなに美しい情景が眼前に広がろうとも私の憂いを払うことなど出来はしないだろうと考え、一瞥したきりで帰路に付くつもりでした。
その花壇には、淡い色彩に彩られたリナリア、花弁から色が滲むように染み出でて可愛らしいクレマチス、黄色い花びらを陽気に咲かせるスイセンがありました。どの花も自らの最も美しい部分を爛々とひけらかし、蜂や蝶の気を引こうと香りを振舞っています。彼女らは与えられた生を一生懸命謳歌しているのです。いやしい私の心は妬ましく感じて顔を背けようとしたその刹那、私はその花を見つけてしまいました。
黄色い雌しべに四枚ちょんちょんと白い花弁をくっつかせ、その小花が身を寄せ合って一つのタンポポのような形状となっています。その花々は首を揃えて夕日の方を向いており、暮れなずむ景色を皆でそろって鑑賞しているかのようでした。
私は彼女らとは違う方向に首を捻って、(はて、このような花が花壇に咲いていたのかしらん。遠目で見れば砂糖菓子が集まっているようで楽しい花だわ)など、頭の中で一人呟いていると、段々とその花に見覚えがあるような気になってきました。
――それは、私が初恋の人に手向けようとした花でした。
その事に気が付いた瞬間、脳裏に彼女との記憶が鮮明に蘇りました。
私は、幼き時分とは言えこの奇病に犯される前、彼女のような女性に恋慕の情を向ける男性だったのだと――そして、その男の部分は私の身体と心に小さくともしっかりと残っているのだと。
そう気づいた私は、女性を恋い慕う気持ちは今後も身に残るだろうと、確信の思いに包まれました。思い出の中の彼女は美しく、母のような暖かさと色気に満ち満ちて、恋をする相手は女性であると、私の根幹をなす何かがそう告げていたからです。
私は、あの人に出会わなければ、自身の性別を意識する事も無く、女性に変化してくことを受け入れられたように思えます。ともすると、この奇病の他の罹患者たちは、私ほど早い初恋をしていなかったのではないでしょうか。ですから、私の心と身体は、男と女どちらでもないものへとなってしまったのではないでしょうか。
白くて小さい綺麗な花――。
私はその純真さの権化のような可愛らしい花を彼女に渡すことが出来ず、また、彼に渡す事も出来ませんでした。おそらく、これからも――。
私は、男か女――そのどちらかの性別である。と胸を張って言うことが出来ません。ですから、声を大にして誰かに好きと言うことが出来ないのです――。確固たる自分がなければ他者を慮る余裕など出来ず、ただ爛れた肉欲を向けてしまうのみ――。
そよ風が花壇を通り抜け、花々は一様にざわざわと揺れてその香りを辺りに振りまきました。
私はそれをただ見ていることしかできませんでした。
――
これで、私の二度に渡る初恋のお話はお終いです。
彼とはその後、深く話したことはありません。お互いに気まずく思って避けあってきました。もちろん私に彼への思いを吐露する勇気などありません。私の心と身体には、いまだ――いえ、おそらくずっと男の性の残滓がへばり付いているのですから。外見だけはもうすっかりこのように女性らしくなって、早く男を受け入れろ、と私に催促するかのようです。ですが、こんな奇異な身体を誰が愛してくれると言うのでしょう。そして、私は誰を愛せるのでしょう。
『初恋は実らぬもの』だとどこかで耳に挟みました。私の二度目の初恋も、その例には漏れなかったようです。
どうも、皆さん。長い間、お話を聞いてくれてありがとうございました。
最後に一つお聞きしても宜しいでしょうか――?
私はこの花を――イベリスの花を一体どちらの性別に渡すべきなのでしょうか。また、それを受け入れてくれる人は現れるのでしょうか?
誰か――誰か、教えてください――誰か――誰か――。
おまけ
「話は全て聞かせてもらった。その相手は俺だ」
そう言って野花中第二会議室の隅の方にあるロッカーから突然現れたのは、誰あろう話中の人物「Tさん」こと、竹井秀樹その人であった。
「!?」
今までなっがい間一人でべらべら話していたその少女は驚愕の眼差しで、汗まみれになっている竹井の顔を見つめると、彼女の頬もトマトのように真っ赤に熟して滝のような汗を流し始めた。
竹井は言葉を続ける。
「オイ、千尋。お前そんなくだらん理由で俺との兄弟の契りを断ったのか、ふざけんじゃねえぞ」
「……」
「また、だんまりかよ。さっきまでの、水分補給一切無しで十分ぐらい話し続けるすげぇ饒舌はどうした、このすかぽんたん」
「ちょっと、千尋さんが顔を真っ赤にしてそっぽ向いちゃったじゃない! おお、なんて可愛らしいプチトマト! あんたがデリカシーの欠片もない登場するからよ!」
「黙ってろモブ女! 他に隠れる所無かったんだから仕方ねぇだろうが! あそこすっげぇ蒸し暑いんだぞ!」
「……??」
「あ、ごめんね千尋。今回の『第一回、女の花園じゃありませんことよ、チキチキ、ガールズトークショウ』は貴方の為にセッティングしたのよ」
「???」
「不思議そうな顔してるわね、そう――この会は他言無用の女子トークをする場じゃないの。皆、ずっと辛い表情で苦しんでたあんたを気遣ってたのよ。だから私たちは竹井に聞かせるつもりで、コイツをこの会に呼んだの」
「ロッカーに押し込められるとは思わなかったけどな」
「!!」
千尋は衝撃のあまり目を何度も瞬いたが、竹井はそれに構わず話を進めた。
「お前がそんな思いで俺を見てたなんて知らなかったよ。ココに集まったモブ女どもは気づいていたようだけどな。で、まぁお前が俺を好きなら、俺と恋仲になっても良いんじゃないか? 俺はばっちこいだぞ」
「……」
しかし、千尋は黙って頭を振るばかりだった。
「なぜじゃ」
「……」
竹井と面と向かって話すのは憚られるのか、千尋はモブ女に耳にそっと手を添えて耳打ちを始めた。
(ごにょごにょ……)
「え? なになに? ふんふん。ふぅん」
「千尋は何て?」
「なんかね『自分は身も心もちゃんとした女性じゃないから付き合えない』だって」
「別にそんなの気にしねぇけどな。俺は」
(こしょこしょ……)
「え? なになに? あん、耳がくすぐったい」
「俺に向かって直接話せよ、七面倒くせぇ」
焦れた竹井は千尋に詰め寄ったが、別のモブ女がそれを遮った。
「きっと恥ずかしがっているのよ、男ならどっしり構えていなさい」
「むむむ」
「――うんうん、なるほどね。千尋は『秀樹が巨乳好きなのにそんなことを言われても信じられない』って」
竹井はこの言葉を受けて、ひとつ頷いた後、反論した。
「ああ、そーいや秘密基地に俺が持ち込んだAVはだいたい巨乳モノだったな」
「何それ……コイツはともかく千尋も昔はやんちゃだったんだね」
「……」
「因みにその秘密基地に再生機はあったの?」
「無かった。だから盤面に記載されてある文字を読んで内容を想像して楽しむと言う、ある種高尚なAV鑑賞会だったのだ」
「バカか」
「バカなのはさっきから一言もしゃべらねぇ千尋だ」
「……」
「なぁ、千尋。女性に取ってお菓子が別腹なように、男に取ってAVも別腹なんだ。この意味分かるか」
「意味が分からない、だって」
「この言葉の意味がわからんなら、千尋のハートはもう完全に女性、ってことさ。俺が好きなのは、そこまで俺の事を思ってくれているお前の心だ。身体は、おまけ」
「……」
「男ならさっきの言葉の意味が分かるのかしら……?」
「さぁ?」
「千尋、確かにお前の胸は、なだらかだ」
「……」
「舗装されていない道路の、なんか一部分だけ盛り上がってるところみたいなもんだ」
「……」
「だが、貧乳もまた良し。と、俺は最近気づいた。男は旅人ってワケだな。巨乳も良いが、貧乳も良い。少し手を広げれば両性具有や、とらんすせくしゅある娘って嗜好もアリだと思う。女性探求の旅は終わりがない。だから、AVは素晴らしい」
竹井の主張を聞き終えた千尋は、呆れたようにため息を一つこぼした。
「納得してくれたか? 千尋。俺、お前のなっがいなっがい自分語りを聞いて気づいたことがあるんだ。言わせてくれ。俺はお前の心や身体が女性になりきれなかったとしても、俺はお前と離れるのはやっぱりイヤだ。お前が全然事情を話してくれず、この一週間はくさくさしてたが俺はもう耐えられない。お前と友人や兄弟でいられないのなら――恋人として傍にいたい」
「……」
「何か言ってくれよ」
千尋は、そのやたら長い一人語りで、ぱさぱさになった小さな唇を開いた。
「わ、私は――ごふ! 秀樹を裏切ってしまいました」
声ガッラガラだった。
「どうしてそう思う?」
「……友人に浅ましい肉欲を向けてしまった」
「それがどうした。性欲がなけりゃ俺達産まれてこなかったぜ」
「ですが、同性同士の性欲は――」
「生物の本能を越えた想いなんだろ? 愛はすべからく尊い。互いの気持ちが本物ならな」
「で、でも――」
「千尋、ぐずぐず言わず俺と付き合え。OKなら返事としてそのイベリスを俺にくれ。部屋に飾って愛でる。やっぱり男はNOだってんなら、その花は花壇に返せ。演出の為にわざわざ会議室にまで持ってくるな」
「……」
「返事は?」
「わ、私は――その――」
「聞かせてくれ」
「ほ――」
「ん?」
「本当に私で良いのですか?」
「ああ、お前じゃなきゃ駄目なんだ」
「……!」
集められたモブ女達の口元になだらかな微笑が広がった。そうしてその小波が会議室中に行き渡ると、千尋は流れ出る一筋の涙をその言葉に添えて、返事を返した。
「わ――私で良ければ――喜んで突き合いましょう」
「よっしゃあー! ありがとう、ちひ――ん?」
おしまい