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ガラパゴス

作者: 津村基樹

人がなんとなく死んでしまう話です。「そういうのあかんやろ」という方はお戻りください。

 九月十四日までに、知多川の下流域では歴史的な大雨が記録された。

 川幅が広いため堤防が決壊する等の被害はなかったが、翌十五日、河口付近で白骨化した遺体が発見された。

 身に着けていた衣服から、遺体は河川の周囲を通学圏内に持つ、ある高校の女生徒のものであると判明した。


 勝弘はドアの脇の柱に掴まり、眼下に流れる町の灯りを眺めていた。

 頭の中にあるのは、長く留守にしていた下宿先、そして、大学のこと。入学してからこちら、ずっと考えていることだ。もともと入りたくて入った学校ではなかった。当時の家のあの空気から逃れたくて、無理に遠いところを選んだのだ。

 が。

(どうもな……)

 どうも、自分の望んでいたものとずれがある気がするのだ。そもそも自分の望んでいたものとは何だったか。小さな後悔は入学以来彼につきまとっていた。

 なんにせよ、自分で選んだ道だ。誰に訴えるべくもない不満だった。勝弘は小さく溜息をつき、そして首を後ろに巡らせた。

 高校三年の男子生徒を少年と表現していいものか。シートに一人の少年が座っている。知った顔だ。今は下を向いているが……。

「玲人」

 声をかけると、彼の肩がびくりとはねた。恐る恐るこちらを見てくるその幼馴染の目に、勝弘は軽く肩を竦めてみせる。さっきから彼がこちらをちらちらと窺っていたことぐらいとっくに分かっていた。大体、こんなに人の少なくなった車内でばれないと思う方がどうかしている。

「あ、あれ、弘くん」

 さも今初めて気づいたと言わんばかりに、玲人は驚いた顔を作った。自分でもわざとらしいと思ったのか、取り繕うように言葉を継ぐ。

「久しぶり……その、元気?」

「元気だよ。大方の面倒なことも終わったしな」

 彼が息を飲む。再びその口が開くまでに、どうだろう、ひと駅ほどはかかっただろうか。

「やっぱり」

 電車は高架線上を進んでいる。

「やっぱり、すずのだったの」

 足下に聞こえる音が変わる。電車が橋に差しかかったことが分かる。長い橋。広い川。

 勝弘は頷いた。

「ああ」

 知多川。涼乃を飲み込んだ川。ずっと行方不明だった、妹。

 ひと月前に彼女の亡骸が見つかった時、勝弘は両親のようには泣かなかった。いなくなって二年近く経つ。無事でいるとは思っていなかった。妹のために動かせる心は、きっと、この二年の間に少しずつ使い果たされていったのだ。

 彼も同じだと思っていたのだが、違うのだろうか。

 玲人、涼乃、そして勝弘。朝はいつも同じ電車だった。ひとつ上の勝弘はタイミングが合わなかったが、二人は帰りも一緒のことが多かったらしい。いつものようにおれが一緒だったならと、涼乃がいなくなった時に泣いて謝った彼なら、もしかしたら諦められないのも無理はないのかもしれない。

 そういうことではないのに。

「玲人」

 水面の光を遮る、黒い影のような中州を見下ろしながら、勝弘は言った。

「涼乃は服を着ていた」

「え……?」

 聞き返す彼に、目は合わせない。

「状況が状況だから、正確なことはわからないけど、少なくとも暴行を加えられた形跡はなかったって聞いた。はっきりとは言わなかったけど、あれは……自殺、の可能性もあるって言い方だった」

「自殺って」

「そうだとしたら」

 息を吸う。あれから、彼を避ける気持ちがなかったと言えば嘘になるが、会ったらこれだけは言わなければならないと思っていた。

「お前は関係ない。お前が責任を感じる必要はない」

「なんで……っ」

 言いかけて、玲人は慌てたように周囲に視線を走らせる。終点に近い車内に人はほとんどいない。それでも、声を低めて彼は続けた。

「なんで、すずのが自殺なんかしなきゃならないんだよ」

「あくまでひとつの可能性だ」

「そんな……そんなわけないだろ? あいつが自殺なんて……。最後に話した時だって、そんな気配は微塵も」

 勝弘は振り返った。

「憶えてるのか、あいつと最後に話した時のこと?」

「当たり前じゃん。あのとき弘くんはいなかったけど――学校だったから――確か、あいつの部活の話をしてて……」

 なかばむきになって彼は言うが、勝弘は既に回顧に沈んでいる。

 自分は憶えているだろうか? 涼乃との、最後の会話を? なにしろ二年も前のことで――

「弘くん」

「……ああ」

 玲人が呼んでいる。

「聞いてる?」

「全然」

 聞こえてはいたが。顔を上げ、あらためて彼の方を見る。

「なんだよ?」

「遺書は? 見つかってないんだろ?」

「まあ」

 挑むような口調だ。勝弘は曖昧に頷いた。

「けど、あの大雨だからな。あったとしてもとっくに海まで流されてるさ」

「定期の件はどうなったんだよ」

「あれはもともと正確じゃないって話だったろ」

 そういえばそんな話もあった。

 涼乃が行方不明になった当初から、彼女は下校中にいなくなったということは判っていた。乗車駅と降車駅の通学定期の使用者の人数が一致していないことから、彼女がその中にいるのではないか――つまり、彼女は電車に乗ってから降りるまでの間に何らかの事件に巻き込まれたのではないか、という見方が、あるにはあったのだ。それでも、田舎とはいえ、一日の鉄道の利用者が千人を下回ることはないだろう。最初から正確な情報ではなかったというのは、先ほど彼にも言った通りである。

 勝弘はため息をついた。

「なんで、そう否定するかな」

「弘くんこそ、なんで自殺って決めつけるんだよ」

「決めつけてなんかいない。なんにせよ、お前には責任なんてないんだと言いたいだけだよ」

 玲人は、俯いた。

「……冷静なんだね、弘くん」

「周りに冷静じゃない人間が三人もいるからな」

 おどけて言う。彼は力なく笑った。父と、母と。

「誰だよ、それ。一人多いじゃん」

 ほっとして、勝弘は肩を竦めた。運転手の声が、二人が降りる駅を告げた。


――お兄ちゃんには、わからないよ。

 彼女の声が、耳の奥に蘇る。

――お兄ちゃんにはわからない。

 あれはいつのことだっただろう。確か……そうだ、涼乃がいなくなる、一週間ほど前。

 自分は覚えているだろうか? 彼女との、最後の会話を?

 人間なら誰でも、何らかの、悩みや不満を抱えている。いつの頃からか、妹はそれを溜め込むようになっていたようだった。両親も気に掛けてはいたらしく、あるとき、事情を聞いてみてやってくれと言ってきたことがあったのだ。

 返ってきた答えが、これだった。

 かちんと来た。

――わかるわけないだろ。

 苛立ったのは、同じ状況なら自分も同じように言っただろうと思うからだ。きっと誰だって同じことを思う。誰だって、自分の悩みが他人に理解できるなどと思いたくはない。勝弘の口から出たのは、だから、言い訳のようなものだった。

――何のために言葉があると思ってんだよ。伝えようともしないのに、人にわかってもらえるとでも思ってんの?

――馬鹿じゃねぇの。

 そこまで言った気がする。

 警察の表情に自殺を読み取ったのも、今思えば、このことが頭の隅にあったからかもしれない。ずっと忘れていた。この程度の喧嘩は日常茶飯事だと、少なくとも勝弘はそう思っていたのだ……


 彼が何を考えようと、夜は明けるし、日が昇れば当然学校へ行かなければならない。切符を買って改札をくぐり、そして勝弘は目を閉じて電車を待つ玲人を見つけたのだった。

 今日は土曜日である。

「部活か?」

「……。それだったら私服着てこないよ」

 重そうに頭を上げる様子を見ると、どうやら眠ってでもいたらしい。起こしてしまったのだとしたら悪いことをした。

「なら?」

 彼のその問いに、玲人は線路の先へ目を向けた。遠く電車がやってくるのが見える。

「……知多川まで行こうと思って」

 勝弘は口を開きかけ、すぐに閉じた。言葉を探す。

「お前の気持ちはわからないではないけどさ。いつまでも引きずってたって……」

「そうじゃなくて」

 玲人は言いよどんだ。彼が迷っている間に電車はホームに滑り込む。

「昨日、あれから考えたんだよ。ひとつ思い出したことがあったんだ」

 ドアが開く。平日ほど混んではおらず、空いている席もあったが、二人とも敢えて座ろうとはしなかった。あまり誰にでも聞かれたい会話ではない。

 電車がゆっくりと動き出した。

「で、なんなんだ?」

「思い出したんだよ」

「それはもう聞いたって」

「前、すずのと二人で帰ってたときに、言ったんだ、あいつ」

 ……それは川の上だった。鳥の集まる一級河川。窓に向かって立っていれば、どうしたって大きな中州が目に入る。生い茂る木々を見つめながら、彼女は、言ったのだ。

――いま、この窓開けて何か落としたらさあ。

 この幼馴染が妙なことを言い出すのは、珍しいことではあるが経験のないことでもない。なにしろ思考の過程を他人に話そうとしない奴なのだ。

――はあ?

――あそこの木の間に落ちるじゃない。そうしたら、きっとずっと見つからないよね?

 ドアにもたれて立っていた玲人は、窓の外を振り返った。中州の木々はその面積のほとんどを覆い、場所が場所なら、そして木々の種類が種類なら、どこぞ亜熱帯のマングローブ林とでも見間違うほどだ。

――まあ、そうだろうけど。

――ってことは、あの一番大きい木、あの木ね、あの木が芽を出してから今までのいろんなものが、誰からも見つけられずに、あそこに隠れてるってことだよ。

――……はあ。

 内心、思うところが無いでもなかったが、玲人は口に出しては何も言わなかった。彼女もまた黙ったまま、何やら考えているようだった。

――なんかさ、ガラパゴス諸島みたいだよね。

――何が?

――水によって外界から切り離されてる。きっと、ダーウィンに見つけてもらうのをずっと待ってるんだよ。

――ガラパゴス諸島を見つけたのはダーウィンじゃないぞ。

――合ってるよ。だって、そこから進化論を見つけ出したのはダーウィンでしょ? そうでなきゃ、誰も気づかないままだった……見つけられるべきもの(、、、、、、、、、、)を見つけたのは、ダーウィンなんだって。

 彼女は玲人から顔を背け、窓の外に目を向けた。既に視界から流れ去ってしまった川を追っているようだった。

――きっとあの『島』もそう。人が立ち入れないなかに何かを隠してて、それでも誰かが見つけてくれるのを待ってる……。

「……それで?」

「……いや、だから、それで」

 勝弘が訊くと、玲人は戸惑ったように視線をさまよわせた。まさかここで尋ねられるとは思っていなかったのだろう。あるいは、話しているうちに自信がなくなってきたのだろうか。

「すずのは電車の中でいなくなった。遺書はまだ見つかっていない、だろ? 思ったんだけど」

「この電車の中から飛び降りた、か? 川の中に。中州の木の中に」

 彼は、頷いた。

「鞄は重い。水も入る。その上小さいから、砂の上に落ちたりしたら沈むはずだよ。もしその中に遺書が入ってたとしたら、きっとまだそこにあると思うんだ」

 上流から運ばれてくる土と砂が、二年の間に少しずつ彼女の鞄を埋めていく。そしてあるとき水門が用をなさなくなるほどの大雨が、主人の亡骸だけを運び去る……。

 勝弘は呆れた。

「あのな、『もし』だとか『きっと』だとか、そんなことで警察が動いてくれると思うか?」

「警察が動いてくれないなら」

 玲人はきっぱりと言った。

「このあたりの人たちはみんな舟を持ってるから、それを借りたっていい。泳いだっていい。とにかく、もしすずのが本当に自殺だったんなら、あいつの性格からして絶対に遺書はあるはずなんだ。おれはそれを見つけたい」

「自殺だとは決まってないって言ったろ。大体、それを言ってたのはお前じゃないか」

「あいつは溜め込む性格だったから……それに」

 首を振って、彼は続ける。

「それは関係ないんだ。自殺にせよ事故にせよ、それ以外にせよ、あいつがいなくなった理由をおれは知りたい。

 二年前、すずのが行方不明になったとき、弘くんもおれもなにもわからないままだった。だろ? あいつがどこへ行ったのか、何を考えていたのか――少しでも可能性があるのなら、おれはそれを知りたいんだよ」

 勝弘は改めて彼の顔を見つめた。

 そして、悟る。――彼は諦めてはいないのだ。

 彼は変わっていない。二年前、まだ誰もが妹を探し出せると思っていた頃から。その目は今の勝弘がもう持っていないものだった。

 窓の外の視界が開ける。川べりの葉の色のくすみ始めた桜の並木を抜けて、電車はいつの間にか橋の上にいた。水面が光を受けて輝いている。

 あそこに鈴乃がいるかもしれない……。

 勝弘は、心の中に、何かの衝動が形成されつつあるのを感じた。

 川を渡りきると知多川駅だ。玲人はそこで降りるだろうが、勝弘は学校へ行かなくてはならない。別れてしまう前に、彼に何か一言でも伝えたかった。

「明日は、日曜だな」

「え?」

「明日が多分、こっちで暇な最後の日だ。来週にはまた向こうに戻るから」

 彼が不思議そうな顔をしている。

「だから、その、なんだ、もし本当に探す気があるのなら、明日なら手伝えると思う」

「……っ」

 見つからない可能性の方が高いんだぞ、と勝弘は言おうとしたが、彼の顔を見てやめてしまった。たとえ今度なにもわからなかったとしても、きっとずっと探し続けるのだろう。

 彼は。


――お父さん、お母さん、お兄ちゃん、ごめんなさい。

 それから、玲人も。この文章が見つかったのなら、見つけたのはきっと玲人だろうから。……


 ノートを机に放り出し、勝弘は部屋に独り、天井を見上げた。

 鈴乃の鞄は結局、砂の中にそのほとんどを埋めるような形で発見された。見つけたのは彼女が想像したように、玲人だった。それは彼女の望んでいた形だったのだろうか。

 泥に汚れたノートに綴られていたのは悩みなどではなかった。強いて言えば、それは彼女の諦めにも似た気持ちだった。

 あいつは溜め込む性格だったから。玲人の言葉が蘇る。次いで、自分の言葉。伝えようともしないのに、人にわかってもらえるとでも思ってんの?

 ノートに綴られていたのは、彼女の諦めにも似た気持ちだった。小さな(わだかま)り。誰に訴えるべくもない不満。……彼女はそれでもわかってもらいたかったのだ。それでも、理解してもらいたかったのだ。

 誰だって自分の悩みが他人に理解できるなどと思いたくはない。けれど同時に、他人に理解してほしいと思っている。人は皆、心にガラパゴスを抱いている。

 勝弘は片腕で顔を覆った。涙は出なかった。彼女のために動かせる心は既に使い果たされ、涙もとうに尽きている。

 誰も彼女のダーウィンにはなれなかった。彼女を見つけたのは、勝弘でも、玲人でも、父でも、母でもなかった。それはただの雨だった。

 ただ、それが悲しかった。

この小説はフィクションです。万が一、小説内の人物名、地名に心当たりがあったとしても、偶然に一致しただけのことであり、実在の名前とは関係がありません。

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