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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

一月の兄

作者: 谷崎 亜矢子

病気の表現を含みます。

苦手な方はご注意ください。

 その沼は冷たかった。とろりとした泥は意思を持つように彼の自由を拐い、奥へ奥へと連れ去ろうとしていた。彼は四肢を動かした、しかしその生んだ泥の波は、空しく彼の顔の輪郭を撫ぜた。耳、こめかみ、そして額が、なめらかな泥に包まれた。最後の砦は、もはや突き上げられた顎のみであった。くは、と彼は口を開いた。とぷん、と視界が鈍色に閉じた。泥の境界は静かに鼻梁を上った。これでいいのだ、と彼は思った。ここでこうして独りきりで、(こご)った羊水のような泥に呑み込まれれば。とうとう、顎の堤防に決壊の時が訪れた。銀灰色の泥が一時に彼になだれ込んだ。ぐぶり、彼の肺は一瞬にして満ちた。




「ゲホゴホ! ぅ、ゴッホ、あ、ぅ、ゴボ、ゲッホゴホッ」

 彼は目を見開いた。息ができなかった。

「ぜボぐふっ、ゴボ、ゴッホゲホゲホゼロロロロッ」

 全身が冷たく濡れていた。彼は異音にまみれた息を継いでは、蹴り上げられるように激しく咳いた。重たい痰の塊が気管の壁にねっとりと張りついていた。彼の薄い上体は湿りきった布団の下で痛々しいほど苛烈に跳ねた。彼の手は割れ散りそうな胸を掴んだ。浮き出した肋骨の間に痩せこけた指が埋まった。

「ゴホッ、ケッホコホキィッ、ゴロロロ、ゼッほ」

 いくら咳こうとも、彼の努力は痰の表面を掠めていくだけだった。泥が、と彼は思った。しかし、彼の目に映るのは垂れ込めた沼の空ではなく、橙色の柔らかな光に照らされた天井だった。滾るような熱が彼の思考力を溶かしていた。ぐぅぅ、と胸の深部が軋み、彼はきつく目を瞑った。長い睫毛が眼窩の縁に触れて悠然とたおやかに(しな)った。

「ご、ぼ……! がぼ、ぁぐっ、う……!」

 緩慢に上がってきた痰がやっと喉に達したのは、どれほど苦しんだ頃だっただろうか。彼は嘔吐するように口を押さえ、なおもぐぶぐぶと咳き込みながら、片肘を立てて身を起こし枕元を探った。そして真っ白な懐紙を引き寄せると、口にあてがい、さらに二三度強く咳いた。

「ぐ、ごっ……! ゴフッ、ゲボ……ぁ、けふ……っ」

 生気の削げた顔でぜぃ、と息をつき、彼は懐紙の中を見た。

「…………っ」

 微かな動揺が彼の目に走った。そこにあったのは、濃厚な黄色にたっぷりと絡みついた、逞しく鮮烈な赤。湿った懐紙は温かった。舌に残る感触が生々しかった。(うつつ)なのだ、と彼は悟った。




 彼はゆっくりと半身を起こした。濡れそぼった着物に、一月の冷気が染み通った。しかし彼の胸に巣食う、熟れすぎた果実のように熱く濁った淵源は、少しも温度を失ってはくれなかった。

 彼は布団の左脇に置かれた書き物机に目をやった。

「兄さん、お加減はいかがですか……」

 昨日受け取った弟からの手紙がそこには広がっていた。

「お手紙ありがとう。私は」

 返信の便箋はそれだけ書かれたきり途切れていた。彼の万年筆がその上に転がっていた。わたしは、という形に彼の唇は動いた。

 遠くの通りを車が走り抜けていく音が聞こえた。彼の弟は、今頃トラックでどこかの高速道路を疾走しているはずだった。闇を切り裂くヘッドライトと、その車窓から覗く弟の横顔を、彼は祈りにも似た気持ちで思った。彼の正面には立派な白黒テレビが鎮座していた。兄さんもオリンピックが見たいでしょう、と言って去年の秋に弟が贈ってくれたものだった。大会の期間中、彼はそれを常につけ放しにして全ての競技を観た。その後で彼は、平和は文化だね、と語った。しかしちらつく画像は彼の体力を奪った。今ではすっかり、そのダイヤルは埃を被っていた。

「私は」

 今度は声に出して、彼は呟いた。掠れた声は喉に引っ掛かり、新たな咳が込み上げた。彼はしばらくの間ぜほげほと咳き入り、どうにか呼吸を落ち着けると、骨ばかりの指で万年筆をとった。

「変わりありません」

 どこか女性的な曲線を持った彼の字が、紺色に美しく便箋を染めた。彼は浅く息をつき、かたんと筆記具を置いた。今これ以上書き連ねることはできないと彼は思った。この煮えるような熱が、普段は小さく凍らせて自分にもわからないほどの深奥に葬ってある何かを溶かし出し、文面にまざまざと焼きつけてしまうだろうという気がした。

 彼は、一年近く開かずに放ってある日記帳を思った。「恭二が来てくれた。顔の左半分だけが日に焼けていた。今年の梨は甘くて良い」、初めの方のページには確かそんなことばかりを書いていた。だが、そのうち怖くなった。増殖し続ける自分の思考を、言葉にしてしまうことが。自分がどう感じているかを、自分で認識してしまうことが。彼は言葉から逃げていた。彼は自身からさえ逃げていた。いずれ来る、何も考えられなくなる時を、彼は恐れ、同時に待ち望んだ。




 彼は、右手の庭に目を向けた。障子は開いていて、縁側の向こうのガラス戸は閉まっていた。深夜の庭は暗く、ガラスに彼の姿が映って見えた。かつてはえくぼがへこんだ頬も肉があらかた落ちてしまい、目ばかりが昔の通りに艶々していた。顔色は蒼白く、まるで頭蓋骨が透けて見えているようだった。彼は目を凝らして、自分の像の奥の風景を見ようとした。金木犀の葉の輪郭がぼんやりと緑色に浮き出してきたが、他は依然として闇に沈んでいた。

 弟が来る時も、出入りはいつも庭からだった。三歳になったばかりの姪も、よく弟に連れられてやってきた。姪は父の真似をして彼をにいたんにいたんと呼び、愛くるしい笑顔を振りまいた。しかし彼は、彼女のことも縁側よりそばに近づけることはなかった。彼を慕う姪は隙あらば部屋に上がり込もうとしたが、寄ったらいけない、といつも彼は首を振った。

 あるとき彼女は、父の力強い腕に阻まれながら、涙混じりに叫んだ。

「どーして? ふじたさんもすどーさんもいれてくれるよ、どーしてにいたんはいれてくれないの?」

「兄さんはご病気だからね、由美子にうつしたらいけないと思っておいでなんだよ」

「ゆみはげんき! うつんない!」

「由美子はまだ小さいから、元気でもうつりやすいんだよ」

「ゆみはもうちーさくない!」

 彼はその応酬を胸が潰れるような思いで見ていたが、やがて俄に痰が詰まり、前にのめって激しく咳き込んだ。弟と姪は同時に口をつぐみ、そっくりな表情で彼を見た。一瞬の後弟は娘を手放し、自ら部屋に突入しようとした。

「来るなっ!」

 咳とともに口を飛び出したのは、単純な拒絶の言葉だった。弟の顔に衝撃が、続いて焦燥が現れ、最後には悲哀に変わった。彼はそれを、次々に繰られる紙芝居のように克明に見て取った。そして、自分もまた鏡のように同じ表情をしているのだろうと思った。彼は自身がそのような感情の引き金となっていることが心苦しかった。笑おう、と彼は決意した。咳の合間を見計らい、彼はふわりと口角を上げた。

「ご飯、できたよ」

 炊きたてのお米の甘い香りを漂わせながらそう言った、在りし日のように。うまく笑えたと彼は思った。でも弟は、笑い返してはくれなかった。がっしりした男顔の中で、昔のままの黒く丸い瞳が見開かれ、かたかたと音を立てるように揺れた。弟は仰向いて庭を振り返り、彼に背を向けて縁側に座った。いとけない姪は、体の自由を回復したことにも気づかないように、その場にじっと立ち尽くしていた。




「にゃあ」

 小さな声がした。

「ねこ……」

 ガラス戸がきちんと閉まっておらず、その隙間から入ってきたようだった。その白い猫は、とことこと歩いてきて彼の布団に乗っかった。

「……ねこ」

 彼は手を伸ばし、猫を抱き上げた。

「にゃーお」

 猫は抵抗しなかった。彼の手に、柔らかな毛とその下の肋骨の感触が伝わった。彼は猫を抱きすくめた。猫は温かく、微かに土の匂いがした。

「ねこ……っ」

 彼は抱きたかった。彼は抱かれたかった。彼の腕の力はどんどんと強まった。みー、と猫が尻尾を振った。しかし彼は構わなかった。ここ二三年ほどの空白が一度に埋まっていくような気がした。この時間がいつまでも続けばいいと、彼は心の底から祈った。

 時間切れを告げる鐘は、ぐぶ、と濁った胸の音だった。

「ゴッホゴホ! げほ、ぐ、ゴボゼホッ、ゲッホ……」

 突然咳き込んだ彼に、猫は驚いたように体を震わせ、身をくねらせて彼の腕を抜け出した。真っ直ぐにガラス戸の隙間を目指す猫を、彼は潤んだ目で追った。猫はそのまま去るかと思われた。が、戸の前で一瞬立ち止まり、彼の方を振り返った。

「さよなら」

 彼は言った。猫は消えた。きんと冷えた外気が、彼の湿った髪を揺らした。

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