呪いの糸、ほどきます。
「かっ、かもさん!?」
「よう梓、待たせちまったな。それにしても、お前結構体力あるねえ。いや俺の体力が衰えた……いやんなこたぁないな!」
「かもさああぁぁん!」
「ぐふぅっ!」
梓は涙声でかもに抱き着いた。
犬の毛皮の感触が今は嬉しい。
「こっ、怖かったですよぉぉ……! 大きな変な生物が来るし、廊下はいつまでたっても廊下だし、走っても昇降口に行けないし……」
「わ、わかったわかった。落ち着け、俺が来たからにはもう怖くないぞ! こんなデカブツ、俺にかかればいひとひねりよ」
「うぅ……ありがとうございます、今はその一言が支えです……」
「おぉよ。梓を傷つけさせやしねえさ。だからもうちっとがんばろうぜ。また同じように細かいことは俺任せでさ」
「はい……っ、何とか、自分でもがんばります」
「よーしいい返事だ。家に帰ったらあとでいくらでも撫でていいからな。さあ立って」
犬の毛を堪能しきった梓はかもを床におろし、何とか立ち上がる。
改めて前方のオオカミと紫の巨人を伺う。
やっぱり怖いけれど、かもが近くにいるとわかると、先ほどよりはだいぶましになった。
「……なぜここへ来れた」
「神はどこにでもいてどこにでも行けるんだよ。八百万の神ってのは基本的にこれだっていう形を持たねーからな。それに、かわいい娘に懇願されたら、駆けつけるのが神ってもんよ」
「ふん……。目障りな」
「言ってろ。お前をきゃんきゃん泣かせて尻尾まいて退けてやるからな。そして梓のもふもふタイムを楽しむのだ」
「私欲にまみれた姿はダメな神の典型だな。……しかし、おまえも片づければ彼女の守りもなくなるか。かえって都合がいいやもしれぬ」
狼が一度尻尾を振る。すると巨人が一歩前へと飛び出した。
来る。黄金の目がこちらを見下ろしていた。
小さな子供に、さらに小さい犬が映っているんだろう。
金棒を使うまでもなく、ひねりつぶせるとふんでいるのだ。
「図体がでかいとありがたいねえ。梓の力と俺様の天才的な力があわされば、あんなんただの的だな」
「で、でも油断はできません。わたし、弓とか剣とかは素人ですから……」
「安心しろ梓。あのデカさと持ってる武器からして動きは大振りで小回りは苦手とみえる。奴の動きをしっかり見てれば、当たる攻撃も避けられるさ。さあ、ひとしごといくか!」
明るい声でそう告げたかもが、ひょいっと空に飛ぶ。
梓の胸ほどの高さまで飛び上がった犬は一回転し、白い光に包まれた。
光がだんだん消えてゆくと、そこには艶のかかった黒い弓が浮かんでいた。最初の時とおなじだ。
「これ……」
「こないだと同じ弓だ。ま、俺が何とかしてやる。ただ、使う技は前回と違うぞー。そりゃもうド派手に行こうじゃねえの」
黒弓を左手に持つと、右手に籠手(かもが言うには掛というらしい)がぴったり収まった。
胸には簡易の胸当てがつけられる。
「つっても……あのデカブツも当然動くし、狼野郎も何かしかけて来るだろうから、ちったあ手こずる可能性もなくはない、ってとこさな」
「相手の動きをしっかり見て、とにかく避ければいいですか?」
「いい判断だ、梓。それで行こう。射るときの姿勢とか手のつくりとかはこの際無視だ。あれは時間がかかるし今回は命もかかってるしな。それじゃ、いっちょぶっ飛ばして、さっさと帰るぞ!」
「は、はいっ!」
梓は自分を鼓舞するように、しっかりと返事した。
かもという一番の応援が駆けつけてくれている。その力を借りて、どうにかこうにか切り抜けるだけだ。
「いけ」
狼の一言で、巨人は行動を開始する。一歩踏みでて距離を詰めて来た。
梓はとっさに横へ避ける。先ほどいた場所には、巨人のでかい左手がぬっと突き出ていた。
突っ立ったままであったら、確実に逃げ遅れていた。
巨人は屈することなく、梓をとらえんと再び動く。
空を切ったその腕が、また梓を狙って動いてくる。
梓は巨人から目を離さないように意識する。巨人の動きを見逃すと命取りになる。
とにかく近くにいては危険だ。そう察した梓は、小走りで巨人と距離を取る。
「まずは小手調べ」
かもの真剣な声色が、梓の頭に響いて来た。
「梓、鳴弦だ」
「めいげん?」
「あっ、わり。えっとな、矢をつがえず、弦をはじくのだ。軽くでいいぞ」
「弦……。はい」
梓は言われた通りに弦を引っ張る。
びいぃん! と腹に響く音が、弓を中心に広がった。
弦の音が波紋となって、梓の目に映った。
青白いそれは梓やかもには無害であるが、巨人にしてみれば害悪でしかない。
鳴弦は魔除けなのだから。
巨人は波紋に触れた途端、衝撃を受けたかのようにのけぞった。
あと少しで後ろへ倒れそうなところであったが、すんでのところでとどまったらしい。
「怯むな。あれはただの脅しだ」
狼の冷静な声が巨人を落ち着かせた。
かもと違って厳しい声は、巨人の受けた衝撃や恐怖を取り去っていく。
「つかまえろ」
その言葉ひとつで、巨人はまた行動を繰り返す。
腕を伸ばして梓を掴もうとしてきた。
梓はひたすらそれを見てかわす。
走って腕の届かないぎりぎりの場所まで駆ける。
「へえへえ。あれで結構すばしっこいのな」
弓を通して、かもののんきな声が聞こえた。
「何となく、わたしも少しやりにくい感じがします。油断してると、すぐにこっちまで近づいてきてますから……」
「うむ。あれは一歩がでかいもんな。しかも狙いも正確ときている。梓は着眼点がいい。あんなでけぇだけの的と見くびっていたが、少し考えを改めなきゃなんねーな」
「どうしますか? めいげん、でしたっけ……? それで測ったところ、巨人さんの強さはどれくらいになりましたか?」
「強い部類に入るな。俺には及ばないけど」
その一言は、梓の励みになった。かもが続ける。
「デカいくせしてすばしっこい。鳴弦ってのは一種の魔除けなんだが、それをくらってもすぐに立ち直る。俺たちはもっと別の力でぶちのめす必要があるんだな」
「その強い力は、どうすれば使えるんですか?」
「簡単だ。梓が俺の呪詛をまた一本ほどけばいいだけよ。あん時は無粋な邪魔が入ったからな。一本しかほどけなかった。……ま、今回も一本ほどけりゃ幸運な方だな」
弓は皮肉めいた口調で吐きだした。梓の目の前には、巨人とそれを操る狼がいる。
はじめの時は、狼だけだった。だが今回は、巨人という厄介な相手がついている。
あれらをかわしつつ、糸をほどかなければ、こちらに勝ち目はないのだ。
「状況は前よりもこっちが不利だ。それでもやるっきゃないさ。なあ?」
「……っ、はい。帰って、ごはんのしたくしなくちゃですから」
「だよな! 梓の飯は美味いからな! そんな極楽タイムを奪うダメダメたちはさっさとご退場願おう!」
高らかに、かもが宣言する。
巨人は相変わらず、梓を執拗に狙ってくる。
伸ばす腕や踏み込む足、視線の先などすべてにおいての行動がすばやい。
避けた! と安心してはいられない。
その油断をついて、巨人がまた手をのばしてくるのだから。
「一本だけだ。何をほどいてもいい。とにかく一本、呪詛を解けばあとは俺が何とかできる。きつい状態だろうが……」
「いえ、やります。ちょっと時間かかっちゃいますけど……」
「いい返事だ梓。いくら時間はかかってもいいぞ! 俺も手助けしてやる。まずはもう一度鳴弦だ!」
「はい!」
梓は言われた通りに弦をはじく。
すると巨人がその音に反応して、一瞬だけのけぞった。鳴弦は効かないわけでもないらしい。ただ、効果が短いだけなのだ。
その隙に、梓は巨人から距離を取る。暗闇の中に紛れて、巨人の視界から離れる。
改めて黒塗りの弓を見つめる。じっと凝らすと、無数の白い糸がぐるぐる巻きになっているのが視えた。
「えーっと……」
「一番ほどきやすい奴でいい。一つほどけばいいんだ。焦らなくていいぞ。もしデカブツと犬っころが来たら俺が威嚇して怯ませる。梓は呪詛をほどくことに集中しててくれ」
「はい! こ、これが、こうで、こっちがこれ……?」
「ありがたいことに、デカい方の目はそれほど鋭くはないみたいだ。いっぺん、俺らが暗闇に溶け込んでおけば、少しはヤツの気をそらせる」
「目?」
「おぉよ。奴の行動をじーっと観察してみたんだけどよ、どうもあいつの動きは大振りなんだよな。俺らのことは認識できてるが、細かいとこまでは気づいてない。あの分じゃ梓が男か女かもわかってないし、この俺様のことは毛むくじゃらのちっこい何か程度にしか見えちゃいねーさ」
厳重に巻き付いている糸と格闘しながら、梓はかもの言葉を聞いていた。
「そんなところまでわかってたんですか……? すごいです、かもさん」
「はっはっは、もっと褒めていいぞ。ま、俺くらいのえらい神なら朝飯前さ」
「そんなことないです、とっても素敵です。わたし、すごく助かってます」
「いやあ梓、そんな褒めても何も出ないぞー。いや出してみっか。家内安全のご利益ならあげよう」
「そ、そんな、悪いです……。あ、でもお父さんそそっかしいから、家内安全はありがたいかも……」
「ああ、こないだなんか俺と散歩してた時、何もない所ですっ転びそうになったもんな。しかもコーヒーをいれようとして茶葉をセットしてた時はさすがの俺も驚いたぞ」
「お父さん、そういう人なんです。……うーん、これかな」
梓はかもと会話しながら、指を休めることなく呪詛の解除に専念していた。
白く光る呪詛はきつく締められており、一分二分でほどける代物ではなかった。
「ごめんなさい、かもさん。もう少し時間がかかっちゃいます」
「いんや充分さ。ゆっくりやってくれ。奴らにバレたらまた逃げりゃいいんだから」
かもがほがらかに言う。その言葉を頼りにして、梓はとにかく呪詛だけに集中した。
しかしそんな梓を放るほど狼も巨人も甘くはなく。
「! 梓、来る!」
かもの鋭い声に反応し、梓は前に視線を向ける。
暗闇を払しょくするかのような、巨人の腕が、視界を奔る。
手が梓の顔すれすれを横に奔る。下手に動いていたら打ち砕かれていた。
「ひぇ……っ」
「じっとして正解だったな。さすがだ梓」
「でも、暗いとこが……!」
梓は弓を構えつつ、立ち上がる。
巨人のひとふりにより、さっきまで頼りにしていた闇がほとんど払われてしまっていた。
「かくれんぼは終わりです」
狼の低い声がこちらへ届いた。傍らには巨人を携えて。
「これで闇に頼ることもできない。さあ、私のもとへ」
「い、行きませんってば!」
「……なぜそこまで拒むのか」
「フラれる理由もわからんからフラれるのさ、やーいばーかばーか」
「耳障りな弓矢だな」
狼が明らかに殺意をむき出してきた。
「か、かもさん、狼さんはお怒りです……」
「おー怖いねえ」
「のんきに言ってる場合ですかー!」
梓は涙声で訴える。それでも指先は呪詛との格闘をやめなかった。
「おおぅ、お前さん律儀だねえ。俺のためにフザけた呪詛を解こうと必死になってくれて嬉しい。家内安全と立身出世もつけてやる」
「ご利益はいいですからほどけてくださーい!」
「呪詛がほどけないのは俺のせいじゃねーよ!?」
「わかってますってばああ……」
恐怖で理性が崩壊しかけている梓はびいびい泣きながら糸をほどいていた。
本来なれば逃げるべきなのは百も承知だが、現状突破のためにはかもの呪詛を解かなければならないのが大前提である。
「……あなたまで耳障りになられても」
さすがの狼も呆れたらしい。だが手加減するつもりは毛頭なさそうだった。
巨人がこちらの威嚇による怯みから我に返った。頭を振り、意識を取り戻す。
半狂乱になりながら弓の糸に集中していたのがまずかった。
梓は、背後まで迫っていた手に気づいていなかったのだ。