狼さん、また来てしまいました
次の日もかわらず、梓は学校へ行った。
かもは留守番だ。父が用意した古い布団をいたく気に入り、室内で飼うことになった。
かもは見た目こそ柴犬だが、その正体は自称神である。
本来なら畏れ多い存在のはずなのだが、あのよく回る舌や器用に駆使する横文字やひょうきんな性格もあってか、梓にはどうしても神様だという実感がわかなかった。
そしてまた、自分がそういった神に狙われているという実感も、まだ薄かった。
学校にかもは連れて行けない。だから学校では無防備になる。自分を狙う誰かは、きっと今頃を狙ってくるだろう。
だがかもは、そんな梓の心配を簡単に取り去った。
『大丈夫だ梓! このかも様は神だからな。ピンチの時は駆けつける。それくらいは朝飯前さ!』
(大丈夫なのかなあ。まさか犬のまま学校まで走ってくるわけじゃない、よね……?)
弁当を広げつつ、今朝言い放たれた言葉を噛み締めていた。
かもという神の口は軽い。そして舌もよく回るので静かな時は寝ているときくらいである。
(でも、こんなの誰にも相談できないもんね。後ろ向きなことを言われるよりは、とっても助かるし、まあ……いいか)
「梓、交換しよ」
向かいに座る桜花が自分の弁当箱を差し出してきた。
「あ、うん。いいよ。どれがいい?」
はっとして、梓は作り笑いを浮かべる。
「じゃあ、ハンバーグとベーコン巻ね。はい」
「うん。……はい、どうぞ」
ハンバーグを受け取った桜花は、間髪入れずに口に入れる。むぐむぐと咀嚼して飲み込み、表情を緩ませた。
「うー……やっぱり梓のごはんはおいしい。わたしが作るとどうしても辛くなったりしょっぱくなったりするんだよね」
「桜花ちゃん、料理するといつも味が濃くなるよね」
「そうそう。それでいつも家族には、台所に立たなくていいって言われちゃう。わたしだってやればできるのに……」
「まあまあ……。誰でも苦手なものはあるんだし、いいんじゃないかな」
「でもさ、苦手だったらなおさらマシにしたいじゃない。梓はいいよなあ、料理上手でさ。お父さんから教わったの?」
「んー……どっちかというとおばあちゃんからかな。お父さん、料理あんまりうまくないんだ。いつもカレーとか水っぽくなっちゃうの」
「ああ、あるよね。わたしもカレー作ろうとすると墨でも入れたんじゃないかってくらい黒くなるなあ」
「それは単にルーの入れ過ぎだよ……」
そうして他愛ない話をしながら、梓はもくもくと弁当を食べた。
梓の弁当箱が空になるころ、桜花の弁当はまだ半分だった。単純に桜花の食べる量が多いのだ。
桜花に一言告げ、梓は空の箱を洗う。そして図書室へ向かった。借りた本を返さなければ。
「あ、梓ちゃん」
図書室のカウンターでのんびりとバーコードをいじっていたのは、同級生のたけるだった。柔和な笑みを浮かべ、かすかに首をかしげつつ、ひらひらとこちらへ手を振って来る。
「たけるちゃん、今日は当番なんだ?」
「そうそう。担当の子がどうしても外せない用事ができたみたいで、代わったの。……本、返す?」
「あ、ああ、うん。お願いね」
「……。はい、返却しました。ゆっくり見てってね」
「ありがとう」
梓は図書室をぶらぶらと探索する。
いつもは料理関係の資料のもとへまっすぐ歩くが、今回は違った。
先日に拾った丹塗りの矢であるかもがどういった神なのか、本を探せば見つかるのではないかとふんだのだ。
神、八百万の神という言葉をもとに、梓は宗教関係の棚にたどり着いた。
目線のすぐそこの段には、入門者向けの資料が並んでいる。
(かもさん、かも、のあとにも名前が続くって言ってたね。それ以上は口が閉じて言えないみたいだけど)
かもに課せられた呪いの一つに、『自分の名を最後まで言えない』というものがある。
名前が言えないなら人になって紙に名前を書けばいいんだろうが、かもは人の形を取らなかった。
というより、取れないのだ。
取り戻した変化の力も最低限の力しか戻らなかったらしく、せいぜい害のない小動物か装飾品になるのがいっぱいいっぱいだった。
昨夜の夕食後、父が風呂に入っている間にふたりであれこれ試してみた結果だ。
今のところは一番しっくりくるという柴犬の姿に、結果として落ち着いた。
「神様、神様……」
指で背表紙を追いつつ、梓は資料を探る。八百万の神々の事典なるものを見つけ、取り出した。
「かも、かも……。やっぱり鴨?」
索引をめくるが、『かも』から始まる神は載っていなかった。もっと大きな事典なら見つかるだろうか。
「何読んでるの?」
「うひぇ……っ!?」
背後から声をかけたのはたけるだ。梓は思わず大声を出しそうになってこらえる。図書室で大声は厳禁だ。
後ろを振り向くと、優しく微笑むたけるがいる。若干悪戯が成功した子供のようにも思えた。
「たけるちゃん、びっくりさせないでよ……」
「ごめーんね。いつも料理の棚のとこにいるのに、ここにいるのが珍しいなって思って」
「うん。そうなんだけどね……」
「神様調べてるの?」
「そう。まあ、興味本位というか」
「どんな神様が知りたい? わたし、図書委員だから少しは役に立てるかもしれないよ」
「そう? それじゃ……。……あ、ところでさ」
「うん?」
「神様の前に、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
梓は本を棚にしまった。
「なあに?」
「……。狼って、もう絶滅、してるよね……?」
「おかしなこと聞くのね。当たり前じゃない。少なくとも日本でいう『オオカミ』は、もういないのよ。もしかしたらいるかもしれないけどね」
「結局どっちなの?」
「うーん、いないってことでいいんじゃない? 聞きたいことってそれだけ?」
「ああ、うん。ごめんね、変なこと聞いちゃって」
「いいのいいの。資料探してあげるから、こっちおいで」
たけるに手を引かれ、梓は辞書のコーナーに連れていかれた。
大きな本棚には分厚くて古めかしい本がずらっと並んでいる。
資料のひとつひとつは丁寧に手入れがなされており、埃ひとつかぶっていない。
「神様関係の事典はここかな。神社だったらこっち。もしわかんないことがあったら、また聞きに来てね。今日の昼休みと放課後は、図書室にいるから」
「あ、ありがと、たけるちゃん」
「いいのいいの。知りたいこと、見つかるといいね」
たけるはスカートを翻して、図書室のカウンターへ戻って行った。
分厚い辞典の山を眺め、そのうち一冊を手に取った。
索引を開くと、ア行の項目だけで十数ページ埋まっている。
律儀に一枚ずつめくっていたせいで、カ行までたどり着けずに昼休みが終わってしまった。
今日も部活はない。授業が終わった後、梓はまっすぐ家に帰ることにする。
冷蔵庫にはまだ食材が残っていたはずだ。桜花は部活に行ったんだろうか。教室には、すでに彼女の姿はなかった。
荷物をまとめて教室を出る。夕暮れが廊下をオレンジ色に染めていた。
不思議なことに、廊下はしんと静まり返っている。放課後のはずなのに、人っ子一人いなかった。
(部活、休みの日じゃないよね?)
梓の学校では、毎週水曜日は、すべての部活が休みになる。だが今日は木曜日だ。活気にあふれているはずの校内が、恐ろしく無音を奏でていた。
この廊下には、梓を除いて誰もいない。生徒も先生も、外からの業者も、誰もいない。
おかしいな、放課後なのに。
「……え?」
梓は歩を止めた。教室から昇降口までは数分もかからない。
のんびり歩いても、気がつけば下駄箱が見えてくるはずだった。
だが進んでも進んでも、梓は教室棟一階の廊下から抜け出せずにいた。
怖くなって早足で駆ける。突き当たりにいつまでたっても近づかない。
いつの間にか同じ場所に戻されているのだ。
(な、なんで……!?)
泣きそうになるのをこらえた。泣いている場合ではない。
こんな不可思議な現象を起こすのは、自分を狙う誰かのしわざだ。
その誰かが、先日訪れた青い狼の主である神だとすぐに気づく。
学校なら人目がつくから、うかつに手を出してこないという梓の思惑は大きく外れた。
人の目など、人知を超えた力でいくらでもごまかすことができるのだ。
鞄を肩にかけ直して、また走り出す。廊下は走らない、という常識など、今は些細なことだった。
走れども走れども、自分は廊下を出られない。走るだけではだめなのだ。
ならば他の方法をひねり出すしかない。
(でも、どうやって? わたしには何もできない。かもさんがいないと、何も)
「お久しぶりですね」
前方の暗がりから、一頭の青い狼が現れた。
「やっぱり、狼さんの仕業だったんですね」
「さよう。この程度の化かしであれば、力の弱い妖怪でも簡単にできます」
「それで、わたしを連れ去りに来たんですね」
「察しが良くて助かります。その通りです。もっとも、貴方が大人しくついてくるとも思っておりませんが」
「はい、わたしは家に帰らなくちゃなりませんから」
「奇妙な方だ。我々のもとへ下るのを、どうしてそこまで拒むのか」
狼は静かに問う。
その問いに、梓ははっきりと答えることができなかった。自分でもよくわかっていないのだから。
家族がいるから。学校があるから。友達とのお喋りが好きだから。浮かんでくる理由はそんなものだ。
それらの理由は間違いではない。だけれど強みに欠ける。
「……どうして、と言われても、わたしにもわかりません。狼さんの飼い主さんのところへは、行ってはいけない気がしてるんです。その、何というか……女の勘、のような」
「その勘が当たっていないことを祈ります。仕方ありませんね。こちらとて手荒な真似はしたくないのですが」
「わ、私だって! わたしだって……少し長い廊下を歩かされるくらいじゃ、へこたれませんから……!」
「何とも勇ましい。しかしそれだけです。貴方は視える側の人間でありますが、貴方自身には特別な力などないのですよ」
「特別な力がなくても、狼さんの追いかけっこくらいはできますから!」
そういうと梓は踵を返して走りだす。
どうせ廊下は一本道で、ある程度の距離を駆け抜けたら、また同じ場所へ戻されるのだ。
小さい頃――まだ妖怪たちが視えたころ、梓は今と同じような悪戯をされたことがある。
妖怪の創り出した即席の迷路を脱出するというものだ。迷路というより少し複雑な道だったが、子供だった頃の梓にはそれが大迷宮にも思えていた。
その感覚を、今思い出す。人の力を越えた迷路から抜け出すには、抜け道を見つけることだ。
抜け道は簡単には見つからないが、必ずどこかにひとつある。
ひとつを見つけることができれば、ゴールまでの道は切り開かれるのだ。
(あの時は、えーとどんな仕掛けだったっけ……?)
狼から背を向け、鞄をぎゅっと抱えながら走っていく。彼女が駆けるたび、黒髪が舞った。
迷路の抜け道は、注意深く観察しなければ見つけることはできない。
だが、狼が近くにいるのではじっくりと探すことができない。まずは狼と距離を置くことだ。
一旦止まって後ろを振り向く。狼の姿は見つからなかった。
梓は胸をなで下ろしてゆっくりと歩きだす。
「それで引き離せたと?」
「ひっ、ひゃぁぁっ!!」
足下に漂った毛皮のふわふわ感と低い声。梓は思わず飛び上がる。不意をつかれて心臓が今にも飛び出しそうだ。
「おろかな」
「う……!」
梓は気を取り直して、逆方向へと走る。
充分引き離せたと思ったらまた先回りされていた。
ということは先ほど駆けた廊下を走って逃げても、結果は同じなのだ。
それなら必要以上にただでさえ少ない体力を浪費することはない。
梓は前方でお座りしている狼を見据えた。じりじりと後ろへ足を忍ばせ、少しでも距離を置こうとする。
抜け道を安心して見つけられないのなら、狼の存在を注意しながら見つけ出すしかない。
(かもさんが隣にいれば、とても心強いけど……)
梓の望みを裏切るように、かもはここにはいない。
きっと家の中で、父の用意したふかふか布団を堪能していることだろう。
正直、今の状態で頼れる力は自分だけだ。選択肢は逃げるか周囲をじっくり観察するの二択しかないのだけれど。
(いない助けを欲しがってもしょうがないよ。だったらわたしがやらなければ!)
梓は小さいながらの決意をする。本能が、狼のもとへ下ることを拒否しているのだ。
その明確な理由はわからない。かもに聞いたら、何か掴めるだろうか。
そんな梓を嘲笑うように、狼も策を弄した。
「え、えぇ……っ?」
「以前は私ひとりで行ったから失敗した。なれば、数と大きさを使えば成功率も上がる」
梓は狼の背後からぬっと這い出た奇妙な生物を目の当たりにした。
梓の倍ほどもあろう体躯は全身紫に染まっている。
廊下の天井に頭をぶつけないのかとのんきに見上げたら、天上自体が消えていた。
そして周囲を改めて見回すと、もう廊下でさえなくなっていた。薄暗闇がひろがるこの空間は、現実には存在しない。
引き締まった上半身には何も羽織っておらず、下はつぎはぎだらけの袴を履いていた。
海藻を思わせる髪がべったり貼りついて、その隙間から覗ける目は黄金に光っている。
右手には金棒が握られており、やや黒ずんだ何かが擦りつけられている。……血だろうか。
「ご安心を。手足の一本二本が飛び散る程度なら、再生可能です」
「でも痛いじゃないですか!」
「おかしなことを言う。結果として体が無事ならそれでよろしいはずなのに」
「痛い思いすることがよろしくないんです! やっぱりあなたと一緒に行けません!」
梓は怒り口調でそう告げる。狼の手荒な方法は、ちょっとやそっとの程度ではない。
手足をふっとばして(もしかしたら顔もそがれるかもしれない)抵抗をなくした状態で、引き連れていくつもりだったのだ。
最初の時は穏やかに済ませようとしただろう。だが梓が簡単に引き下がらないと悟って、さらに手ひどいやり方に出た。
もしかしたら、今まで遊んでいた妖怪たちは、きわめて穏やかな類の妖怪だったに違いない。
自分があんな巨大な恐ろしい妖怪に出会わなかったのは、よっぽどの幸運が舞い降りていたんだろうと今にして戦慄する。
足がすくんできた。あの巨体であれば一歩ぶんの歩幅も大きいのは明白だ。
こちらが全力で走ってもすぐに追いつかれてしまう。
かといってここに留まり、ひたすら相手の行動から逃れ続けるのでは、いずれ体力も尽きる。
現状維持では助からない。立ち向かっても、何の力も持っていない梓はあの巨人を退けることなどできやしない。
梓は必死に逃げ回る。その姿が巨人にとってはうろつく蝿を思い出させたのだろうか。
巨人が初めて金棒を持ち上げる。力任せに振り下ろして、梓を砕こうとした。
「わあっ!」
梓は頭を庇いながらどうにかかわした。金棒は空を切り、廊下の壁にぶちあたる。
衝撃を受けた壁は、無残にも砕かれていたぱらぱらと破片が落ちる。
その光景を目の当たりにして、梓は心底ぞっとした。まともにくらっていたら痛いではすまない、今度こそ。
金棒には鋭い棘が無数に生えている。かすっただけでも肉をえぐるように造られているのだ。
丈夫な盾でもあるか、自分に人知を超えた素早さでもあれば違ったであろうが、悲しいことに都合よく盾など落ちていないし、梓の体力は人並みだ。
「この巨人は私が命じれば何でも致します。あなたを潰すことだって造作もない」
「ひどい……!」
「こちらへ下られぬあなたが招いたことです」
「それは責任転嫁っていうんじゃねーの?」
目の前に、見覚えのある小さな柴犬が、きちんと正座していた。