柴犬、拾いました。
放課のチャイムが鳴った。
今日は部活がない日だから、買い物をして帰ろう。梓はぼーっとそんなことを考えた。
「梓ー」
鞄にノートを入れていた梓を呼んだのは、友人の桜花だった。
幼稚園からの友人で、小中高と一緒に遊んでおり、今でも仲が良い。
「あ、桜花ちゃん。今日は剣道部?」
「うん。そろそろテスト近いから、部活の時間が終わる前にいっぱい練習しておきたいんだ。梓は?」
「わたしはもう帰るよ。今日は部活、ないから」
「なーんだ。あとでつまみ食いに行こうと思ったのに」
「料理部はそういう部活じゃないから……」
梓の入部した料理部は、週に三日ほどと活動自体が少ない。
その中で挑戦したい料理を決め、数人ずつグループにわかれて料理する。
完成したものは自分で食べても構わないし、持ち帰って夕飯のおかずにしても構わない。梓はほとんど後者だった。
よく食べる桜花にも、たまにおすそ分けをすることもある。
「まあいいや。次は少しでいいから分けてね」
「お昼にたくさん食べたのに……」
「あれじゃ足りないんだもん。じゃあ、また明日ね」
「うん」
桜花は鞄を担いで教室を出て行った。梓も席を立ち、教室を後にした。
「あ、梓ちゃん」
「ん……? あれ、たけるちゃん?」
「今日はもうお帰り?」
柔和な笑みの同級生――たけると廊下でばったり会った。
クラスは別だが、昼休みに図書室で知り合ってから、何かとよく話をするようになった。
「うん。今日は部活のない日なんだ。たけるちゃん、よかったら一緒に帰らない?」
「ごめんね、これから委員会があるから……。またの機会に」
「そっか。じゃあ、またね」
「うん、さようなら」
物腰柔らかで気品があり、どこかお嬢様という雰囲気を持った少女がたけるだ。
お互いにアドレスも知らないし家族のことも話していない。
ただ図書室や廊下でぽつぽつと話をするだけだ。
無鉄砲な桜花とは違った魅力がある。
女子高ではそんなたけるはとても目立つようで、彼女にあこがれる生徒も少なくなかった。
スーパーで特売品だった肉をレジ袋に提げ、梓は夕方の帰路についていた。
(そういえば、あの弓矢さんはまた来るって言ってたけど)
丹塗りの矢を拾い、青い狼につけ回され、弓矢で撃退したあの時のことは、残念なことに夢ではなかった。
あの騒動後、狼はいずれまた会うことを告げながら消えた。弓矢は丹塗りの矢に戻った。
狼の口ぶりからすると、自分はまた追いかけ回される羽目になるのはわかっていた。
それを矢も理解していたらしく、頼もしげな明るい声で、梓に告げた。
「乗りかかった船だ。俺がお嬢さんを守ってやろう!」
そしてその後、思い出したように聞いて来た。
「あっ、名前聞いてなかったな。なんてんだ?」
「あ、梓です。弓削梓……」
「よーし梓、俺は少し準備してまたあんたのとこに戻る! なーに一日ですますから、寂しがんないでもいいぞ」
「いえ、寂しがっているわけでは……。あ、矢さんは、お名前ありますか?」
「ああ、俺? 聞いて驚くなよー? 俺はかも……っ、か、も?」
「鴨?」
かも、の後の言葉が続かない。矢に口があるなら、もがもがと動かしているんだろうか。
「いやいや! かもはかもでも鳥じゃなくて地名の方! カモのあとにもうちょい続くから! かも……! …………何でそのさき言えねーんだ!」
最後は逆恨みに近い悲鳴を上げた。
「なるほど……。心当たりがむっちゃあるわ。あんにゃろう、満足に自分の名前も言えない呪詛まで使いやがったな」
「あの……?」
「ああ梓、何でもないんだ何でも。簡単に言うとだな、俺にかかってる呪詛の一つのようなんだ。その呪詛のせいで、俺は自分の名前を最後まで言えないみたいでな」
「呪詛って、さっきわたしが一本ほどいた白い糸のようなあれですか?」
「そうそれ! その一本はどうやら変化する力を封じるモンだったらしくてな。おかげで弓矢になれたわけだ。ま、何でもかんでも変化できるってわけじゃなさそーだ」
「それで今はお名前が言えない、ってことですね」
「理解が早いね、そういうこった!」
「でも、どうして名前を言えない呪いをかけたんでしょうか」
「俺が神だからさ。迂闊に名前を言うなってことだろうよ。俺はここより南の方じゃ、結構有名なんだぜ~。……あっ、いや違う! きっと呪詛をかけた野郎は俺の人気さに嫉妬したんだな。この地方で名が知れ渡るのが我慢なんねえんだ。へっ、やだねえ嫉妬は」
「そ、そうですね……」
「というわけだ梓、しばらく俺のことは『かも』と呼ぶがいい」
「はい、かもさん」
「くぅいいねえ! 若い娘にかもさんなんて呼ばれたらさ、舞い上がっちゃう!」
「はあ……。そういえば思ったんですけど、今のうちにほどける呪詛はほどいちゃったほうが早いんじゃないですか?」
「ナイスアイディア! なんだけど、またいつあの犬っころが来るかわかんねえからな。安全な場所を確保してからほどいてもらうことにするよ。さっきの呪詛が解けたおかげで変化できるし、身動きとれるみてえだし。すぐに準備して、また戻って来る。じゃあな!」
そう言うと、かもと名乗った矢は白い煙をばら撒いて、カラスに変化した。
梓の手から離れて空を飛び、そのまま去っていく。
(何だか、喋るのに忙しい人だなあ……。あ、人じゃなくて矢だっけ)
矢と狼が去ったその場所は、特に目立った被害はなく。
梓が矢を見つける前とほとんど変わらない状態であった。
はっとしてレジ袋の中身は無事か急いで確認した。幸いなことに、何もつぶれたり割れたりはしていなかった。
「おーい」
聞き覚えのある声が聞こえて、梓は足を止めた。もうすぐ目の前に家がある。
梓は昨日会った矢を探そうと、周囲を見回す。
人らしい人はいない。お向かいさんが、これから散歩に出かけるところだった。
「おぉーい」
声は自分の足下から聞こえて来る。視線を下に向けてもう一度探す。
「ここだよー」
「ここ?」
足下で声を出す正体に、梓はようやく気づいた。
「よう梓、待たせたな!」
かもと名乗った矢が変化していたのは――茶色の小さな柴犬だった。
「わあ、かわいい」
思わず梓はしゃがみ込んで、犬の頭を撫でる。
すると犬は満足そうに目を細めて、ばっさばっさと尻尾を振った。
「おおぅ、いいなこれ。やっぱり犬に変化して正解だった! 年頃の娘っこと近くにいても何ら問題ないし、俺も気持ちがいいし! ……否そうじゃねー。もちろんこれはじっくり味わいたいが、まず優先すべきことがある!」
厳しい口調でしっかり告げたものの、やっぱり撫でられることは悪くないようだ。
お座りして梓の手を堪能している。
「……あっ、アイス買ってたんだった。冷凍庫入れないと溶けちゃう」
切り上げたのは梓の方だった。レジ袋を持ち直して、家に入ろうとする。
「あっ、梓! 俺も入れて!」
「えっと……い、犬が、喋ってる……」
「今更すぎるわ! っつーかあんだけなでなでしといてからの真っ当な発言!? 遅くね!? それよりお前、俺を忘れたわけじゃねーだろな! 姿かたちは変わっても声は変わってないから覚えてるとは思うんだが」
梓は記憶を掘り返す。本来喋るはずのない者が喋っている。これには強烈な覚えがあった。
昨日の弓矢だ。用水路の水草にひっかかっていたのを拾い上げて、白い糸を一本ほどいたのだ。
「……あっ、もしかして、かも、さん……ですか?」
「そうっ! やっぱり覚えはいいようだな。さすが梓だ! 俺が見込んだだけのことはある」
「何を見込まれたんでしょうか……」
「あとでぜーんぶ教えてやる。まずは俺を家に入れてくれ! 長話になるから水も欲しいな」
「うーん、いいとは思うんですけど……。お父さん、なんていうかなあ」
「あん? 親父さん家にいんのか?」
「いえ、今はまだ仕事だと思います。夕方には帰ってきます。それまでわたしひとりです」
「ほうほう。その方が都合はいいな。誰の邪魔も入らないなら、遠慮なく声を出せるってもんだ」
「お話はありがたいんですけど、その前に」
「うん? まだあんのか?」
「まず、綺麗に体を洗うとこからだと思います」
犬に変化したかもの姿は、捨て犬並に汚れていた。