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ただいま帰りました。

「梓!」


 かもの声がして、梓ははっと我に返る。周りはやっぱり火の海だった。

 乾いた土の上に横たわって、眠気からようやく覚めた。目の前の柴犬は、梓の肩をぺしぺし叩く。


「梓……!」

「かもさん……?」

「怪我は!? 痛くねえか!? 大丈夫か!? 斬られたのに……怪我、してない……」

「怪我……? あ、さっき、わたし、ミツミネさんを、」


 庇おうとしてそのままたけるに斬られたはずだった。だが体のどこを探っても、切り傷など負っていない。


「あっ、そうだ、たける君とミツミネさんは!?」


 梓はがばっと跳ね起きた。


「あそこだ」


 かもが視線でもって答える。茫然としたたけるが、地面にへたり込んでいた。

 刀はかろうじて握られていたが、戦意が消えている。ミツミネはそんな飼い主の傍らに坐していた。


「たける君……」


 名を呼ぶが答えない。こちらの声も聞こえていないのだろう。

 たけるの戦意を失わせることには、ひとまず成功したようだ。


 だがこれで終わりではない。梓にはまだやるべきことが残っている。

 左手に握られた髪飾りが、それを覚えてくれていた。


「かもさん、今のうちに呪詛をほどきます。じっとしててください」

「お? おぉ、頼むわ。にしてもビビったぞ。あの狼を庇って斬られるしそんままぶっ倒れて息してなかったし、狼は狼で申し訳なさそうに呼びかけてたけど、梓を斬った坊主はぶつぶつ独り言言うだけのヘタレだし」

「わたし息してなかったんですか!?」

「ありゃ止まってたな完全に。……しかし、何で斬られたのに無傷なんだ……?」

「わたしもわかりません。たぶん、タチバナさんが、わたしを守ってくれたんだと思うんです」

「タチバナ……なるほどね」


 かもは納得したようだった。梓は柴犬に絡みつく呪詛が、楽々とほどけていくのを感じる。糸の殆どが切れかけているのだ。一本をぷっつり断ち切ると、それに絡みついていた呪詛も連鎖してほどける。一番厄介だった呪詛は、手先の器用さで乗り切った。きつく結ばれていた箇所が、緩んでいたのだ。


(もしかして)


 梓は心当たりに気づいた。弓に変化してたけるに攻撃された際の衝撃で糸が擦り切れたのだ。だとしたら、これは幸運だった。


 最後の一本だ。緩んでいても一番厄介なのに変わりはない。梓は集中して目の前の糸と格闘する。


「……目が覚めたんだ」


 かもが来るぞ、と梓に告知する間もなく、たけるが戦意を取り戻していた。まだへたり込んではいたが、その目にまた闘志が宿った。


「梓」

「はい。たける君、立っちゃいましたね」

「だが安心しろ、焦る必要はない。俺の天才的話術で引っ掻き回して時間をいくらでも稼いでやっかんな」

「大丈夫です。すぐにとけます」


 たけるがこちらへちかづいてくる。ごうごうと燃える炎の中で、ゆーらゆーらと幽霊のように彷徨い歩く。足取りがさっきまでと違ってふらふらしていた。


「髪飾り、タチバナの、御霊……」


 たけるが亡霊のようにつぶやく。目的は髪飾りと梓自身だ。タチバナを梓におろすためには、彼女の御霊が宿るとしている髪飾りが、たけるの手になければいけない。だがそれは、梓が持っている。


 梓は糸から目を離し、柴犬を抱えながら、たけるを見上げた。弱気は捨てた。真っ向から抗う意志が込められている。


「かえして、それがなければ、タチバナは」

「ごめんなさい。これは返せません」


 柴犬を抱えたまま立ち上がる。一歩下がって、たけると距離を取る。


「これがあるからたける君は前に進めないんです。

 タチバナさんも安心して、海の底で暮らせないんです。お別れしなきゃいけないんです」


「やめろ、タチバナは、タチバナは暗い海の中に一人でずっと彷徨って……苦しくても寒くてもひとりでいなきゃならなかった。

 僕は彼女を助けなければ……」

「いいえ、タチバナさんはもう海の底の国で幸せに暮らしています。たける君が引っ張り出す必要はないんです」

「でたらめを言うな!! 嵐の海に放られたこともない君が、瓜二つでしかない君に、何がわかるっていうんだ!」

「何だってわかりますよ……!」


 梓の指先が、最後の呪詛を解いた。


 するっとほどけた白い糸が、火の粉に巻き込まれて燃えた。絡み合っていた糸はつられて同じように火中へ消えて行く。


「かもさん、弓へ変化してください。それから矢もお願いします! 三本くらい」

「お安い御用!」


 犬は快活に応えてみせた。白い光に一瞬包まれて、光が止む頃には、梓の手に黒塗りの弓が握られている。右手に掛、胸に簡易の胸当て。梓にとっては見慣れたものだ。


 梓は髪飾りを右手に持ち直して、空へ高く放り投げる。ゆっくりと軌道を描いて、空へ飛んでいく。


「かもさん! あの髪飾りを、射ちおとせますか」

「朝飯前さ」


 かものたった一言の答え。梓はそれで充分だった。


「な、何して!」


 たけるが止めるのも聞かず、梓は空に向けて矢をつがえる。軌道の修正やもろもろの細かい作業はかもに任せた。梓は射ればいい。


 人差し指の示す先は小さな髪飾り。タチバナの言葉をたけるにつたえる前に、やらなければならないことがある。まずはそれからだ。


「今だ!」


 かもの掛け声と共に、梓は射る。


 矢はまっすぐに空へと飛んでいく。狙いに狂いはなく、ふわふわと漂っている目標を、一撃で貫いた。

 そのまま矢は空へ吸い込まれ、しまいには視界から消える。


「あ、あぁ」


 見上げていたたけるが、刀を落とす。乾いた音が立った。梓はそれを拾い上げて、たけるの武器を奪う。


 刀を片手に持ってたけるからさっと距離を取る。改めてその刀身を観察することができたが、驚いたことにそれは本物の刃ではなかった。銀色に鈍く光るそれは模造刀のものだ。試しに、地面に生えていた雑草をそれで薙いだが草に傷はつかなかった。


「なるほどな。本物じゃなかったから梓は怪我しなかったってわけか……?」

「……いえ、最初はきっと本物だったんだと思います。きっと、タチバナさんが守ってくれたんじゃないかなって」

「ほう。いい女だ、タチバナって娘は」


 そうですね、と梓は頷いた。使い物にならない模造刀は地面に置く。刀を振り回すことができない自分が持っていても意味はない。

 立ち上がって、梓はたけるに再び対峙する。

 たけるの目に憎しみ、怒り、驚愕、悲壮、あらゆる負の感情が混じり混ざっている。眼光の強さに怯みそうになったが、梓も負けじと睨み返す。


「どうして……」

「……」

「どうして!! どうしてくれるんだ! あれがなければタチバナは戻って来れない……! 一生タチバナは閉じ込められたまま……」

「違いますっ! タチバナさんはここへ戻ることを望んではいませんでした。生き返りたいと思ってないって! 海の底で暮らしていくから、あなたは今いる場所で同じように生きて欲しいって」

「嘘だ!」

「嘘じゃありません! タチバナさん本人から聞いた言葉です。いい加減、認めてください、どんなに願ったって、もう一緒の時間を過ごすことはできない……」

「うるさいっ!! 目障りな柴犬が言うならまだしも、どうしてよりにもよって君がいうんだ!」


 たけるは半狂乱になって喉が裂けるほどに叫んでいる。


「君だって、君だって! 僕と同じく大切な人を失ってるのに……きっと同じ気持ちを味わってくれると思ってたのに……」


 梓も母を失った。幼いころに、事故で死んだ。かつて夢の中で、たけるも同じように人を失ったことを告げた。似た者同士であるが、梓とたけるは確実に違う。梓はそれをきちんと理解している。


「そりゃわたしだって悲しかったですよ。大好きなお母さんとはもう会えないって気づいたときは、わけもわかんないくらい大泣きしましたよ。人生のほとんどの涙を流したんじゃないかってくらい泣きました」


 梓は息を吸う。


「それでも!! いつかは折り合いつけて前に進んでいかなきゃならないんです! 生きてるわたしを支えてくれてる人のために! 死んでしまったお母さんに、胸を張って元気ですって言うために!」


 そうして母親の死を受け入れることができた。梓のきっかけというのは些細なことに過ぎない。母親の抜けた穴を埋めようと、家事がまるでできないのに一生懸命動く父親の背中を見たことが転機だったのだ。父が危なっかしいから、泣いている暇なんてなかったのもあっただろう。幼いながらに、父親に家事を任せっきりにしては冗談抜きで自分の命に関わると察した梓は賢かったのだ。


「……君は、どうしてそう思える」


 たけるの声が静かになった。


「お父さんがいたからです。お父さんにお料理させると、本気で命がけですから。せっかく守ってもらった命、落としたくないですもん」

「……っ、どうして、どうすれば、どうやったら、」


 たけるが膝をつく。頭を抱えて、子供のようにぼろぼろ涙を流しながら、意味もない言葉を繰り返す。


「どうしたら、僕は、これから、どうすれば、わからない、わからない、何もわからない」

 虚空を見上げるたけるの目には生気が宿っていなかった。


(……え?)

 梓は目の錯覚かと思って瞬きした。たけるの涙がじんわりと黒く染まり、果ては漆黒に変わり果てた。


「危ない!」

 ミツミネが鋭く叫んだ。


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