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タチバナさん、はじめまして

 額に、水が一滴落ちた。梓は目を覚ます。


 視界が開ける先は、どこまでも澄み切った空が広がっていた。

 背中には冷たい水の感触。それらは波打つ音を奏でていた。

 背部は水につかっているというのに、なぜか濡れているという感覚がない。


「……あれ?」


 さっきの乾いた土も留まるところをしらない火の海も、嘘のように消えていた。

 怒り狂ったたけるも、主人に反逆したミツミネも、余裕のない声を張り上げていたかもも、ここにはいない。

 梓はゆっくりと上体を起こす。左手には、まだ髪飾りが握られていた。


「ここ……どこ? かもさん?」


 頼もしき小さな相棒の名を呼んでも、答えは返ってこなかった。

 立ち上がって、今までとはうってかわった世界を眺めてみる。穏やかな世界だった。吹く風がは柔らかく、足に浸る水は冷たい。もう一度伺うとここが海だと気づいた。梓以外は誰もいない。鳥も飛ばず、蟹も歩かず。

 だが、ただ一人先客がいたのだ。その先客は、梓の後ろに立っていたようだ。


「目を覚ました?」


 美しい声に、梓が後ろを振り向く。声の主は、梓と同じ年程の少女だった。

 それもただの少女ではない。顔かたち、仕草、笑い方、それらすべてが梓と瓜二つだったのだ。

 違うといえば、梓がセーラー服なのに対し、その少女は白いワンピースを着ているくらいだ。


「わ……わたし?」

「まあ、本当にそっくりなのね」


 少女はのんびりと驚いている。


「あの、わたしを知ってるんですか?」

「ええ、つい最近に知ったばかりなのだけどね」

「やっぱり……これが私を呼び寄せたんでしょうね」

「……? あなたは、タチバナ、さん?」

「そうよ。よく知ってるわね。名前を呼んでもらえて、うれしいわ」


 無邪気に微笑む姿が、何となくたけるに似ている。


「タチバナさんがここにいるってことは……ここは、天国ですか?」

「天国? あははっ! 貴女、楽しいことを言うのね」


 きゃらきゃらと、タチバナは腹を抱えて笑う。そんなに変なことを言っただろうか。たけるが言うには、タチバナは水死したと聞いている。


「ここはね、夢の中よ。貴女は眠っていて、私がその夢の中にお邪魔したの。

 もう死んでるのに? そうよね、私は海の底の天国で暮らしているんだけど、いつの間にか貴女に引き寄せられたの。どうして、かしらねえ……」


 首をかしげる少女はああ、と梓の左手のそれを見つけた。

 梓の左手をそっと持ち上げ、手中の髪飾りを懐かしそうに眺める。


「これは、あの人が持っていたのかしら」

「あの人……えっと、たける君が、大事にしていました。あ、今はその、いろいろあって、わたしが預かってる感じなんですけど……」

「そう……。ひょっとして、あの人……じゃなくて、たけるが何か、あなたに迷惑をかけたでしょう?」

「え、あ、えっと、その……」


 正解を突かれて梓は戸惑う。彼女は自分をタチバナと名乗った。タチバナといえば、たけるの婚約者だった少女だ。そんな人に、たけるがしようとしていることを告げるのは、彼女を苦しませることになってしまう。だがそんな心配も意味がなかったらしい。


「もう、あの人ったら……。ねえ、正直に教えて。私にそっくりな貴女は、一体どんな目に遭っているの?」


 タチバナは梓の手を握り、真剣な表情でたずねて来る。誤魔化しや嘘が苦手な梓は、隠していようと決意していたがそれもすぐに壊れた。隠していても、このタチバナが相手ではすぐに気づかれてしまう。何より、彼女にとって、隠されることは良いことではないのだ。


「……とっても、ショックな話だと思うんですけど」


 梓はつたないながら、自分の言葉でたけるのしてきたことを話した。

 タチバナの死後、たけるはせめて遺体を陸に上げてやらねばと走り回っていたこと、それも結局叶わなかったこと、見つけることができたのは髪飾りだけだったこと。


 その後タチバナとそっくりな少女――弓削梓を見つけたこと、彼女を『器』にしてタチバナを取り戻そうとしたこと、そのために眷属である狼ミツミネや梓を支援する自称神であるかもをも傷つけたこと。


「あの人ったら……」


 タチバナは悲しそうに、だけれど静かに梓の話を聞いていた。梓も本当はこんな話は黙っていたかった。タチバナを思うと、口を閉ざしたくもなった。


「ごめんなさい。お伝えすべきじゃなかったことです」

「いえ、いいの。私が死んでから、あの人のことがずっと心配だったから」

「……タチバナさん、海の底に住んでるって言ってましたよね。そこは、どんなとこですか? いい場所ですか?」

「もちろんよ。海の底の主はとてもよくしてくださるし、ご飯も美味しいし、魚も貝もみんな楽しい方々よ。死ぬのは怖かったし、未練もあったけれど、今はあそこが私の故郷ね」

「また、生きて人生を歩みたいと思ったことはありますか?」

「うーん、たまにそう感じたことがあったわ。でもね、今はもういいかな、って」


 タチバナは微笑んで答えた。

「だからね、そっくりさん。目が覚めたら、あの人に伝えてちょうだい。私は生き返ることを望まない。海の底で暮らしていく。だからあなたも、今いる場所で私と同じように生きて欲しいと。私を思ってくれて感謝していると」


 タチバナに握り締められた手が、ほんのり暖かくなる。

「本当は自分で伝えたいのだけどね。それもきっとできないから、貴女に託すわ。……あの人に重ねて、面倒をかけてごめんなさいね」

「いいえ、ちゃんと伝えます。だから、いつまでも楽しく、海の底で暮らしていて下さい」

「ありがとう、梓!」

「わあっ!」


 タチバナが子供のように、梓に抱き着いた。胸の感触が柔らかい。細い腕が暖かい。


「あの人を……たけるを、お願いね」


 母親のような優しいさとす声が、梓の耳に届いた。梓はふっと瞼を閉じ、タチバナを抱き締め返す。


 するとタチバナが光の粒になって空へと消えて行く。あっ、と声を出すももう遅い。


 タチバナどころか、この夢の中すべて光の粒に変わる。

 夢が消えるんだ。ということは、自分はもうすぐ目が覚めるんだ。

 目が覚めた先は、きっと戦場だ。炎に包まれた、乾いた地。飛んでくる火の粉を払いのおけながら、弓に変化したかもを手にたけるの目的を打ち砕かなければならない。

 それは梓のためだけではない。たけるの愛した少女タチバナの願いでもあるのだから。


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