柴犬さん、待ってました。
まっすぐに、だがふらふらと周囲を観察しながら空間の中を歩く。
最初は何もない状態が続いていたが、だんだんと物体が現れ始めた。
といってもそれらも現実に存在するようなものではなく。遠目で眺めてみれば岩に見えるそれらは、中が透き通っていて表面はなだらかな物体だった。地に突き刺さる棒状の何かは錆びた道路標識かと思ったが、それも黒く透けた物体であった。
(……こんなものが、どうして)
おそるおそるそれらに触れてみるが、感触というものがまるでない。
透き通った物体だから身を隠すのには向いていない。
「あれ?」
触れるとそれらはあっさりと霧散した。きらきらと光る粒になって消えて行く。
そしてところどころに存在していたいくつもの物体は、状態を変える。
透けていたものがすべて中身を持ち、質感が変化していった。中身の視える岩はごつごつとした岩に、棒状の何かは木製の柱に。
地面は乾いた土を広げていき、ひび割れた個所からは雑草が小さく生えていた。
「何……?」
手触りを確かめてみると、それは梓の予想通りのものだった。土は土の、岩は岩の、木は木の感触をそのまま再現している。
空は青く晴れ、太陽が強く光っている。この変化は何なのだろうか?
見慣れない空間に、梓は戸惑っている。
「それはね、僕がかつて赴いた地だよ」
「ひえっ!」
背後から容赦なく聞こえた声に、梓は思わず飛び退いた。
「ひどーい。驚かすつもりはなかったんだけど」
たけるは唇を尖らせる。
「昔ね、僕は父の命で色んな場所を旅していたんだ。優しい人たちにたくさん助けてもらったこともあったけど、同じくらいに僕をよく思わない人もいてね。あの時、あの人たちは僕を殺そうとこの野に誘い出して、火をつけた。まあ、切り抜けて仕返ししたんだけど」
「……」
「キミを見てたら、色々と昔のこと思い出したんだろうねー。タチバナもその時一緒に旅してたしさ」
「あの、聞きそびれていたんですが、あなたはやっぱり神様なんですか……?」
「今更? そうだよ神だよ。今は人の姿に扮している状態でね」
たけるは肩をすくめる。
「といっても、神の姿も今とさほど変わらないけど。んふふ、怖い?」
「……そりゃ怖いですよ。ただびっくりもしてます。わたしがお会いしてお話した神様は、わたしにとっても良くしてくれましたから」
「そりゃ幸運だったね。中には誰彼かまわず祟りを起こす神だっている。でも僕は誰にでもあだなすわけじゃない。キミだからこそ欲しいんだ。キミはタチバナの器にぴったりだ」
「だ、だからそれは丁重にお断りしますと!」
「何で断るの?」
「逆に聞きますけど、どうしてわたしが簡単に従うと思ったんですか!!」
「え? だってタチバナの礎になれるんだよ? 女の子にとっては名誉なことじゃない?」
「どこの次元の女の子のことを言ってるんですか!」
「全世界の人間の女の子のことだよ」
(だめだ、やっぱりだめだ! この人と話をしてたら、確実に心が折れる!)
再び踵を返して、彼から逃げようとして、梓は足を止める。
目の前には、ごうごうと炎の海が広がっていた。
火の粉がこちらまで飛んでくる。ぱちぱちと爆ぜる音が耳に伝わってきた。
これが幻覚であれば良かったのだが、頬には炎の熱がじんわり伝わってきていた。
「言ったでしょ。火をつけられた場所だって」
「……」
「ごめんね、あんまり乱暴なことはしたくないんだけど。こうでもしないと君は逃げるでしょ?」
(もちろんですとも!)
穏やかに笑うたけるが、今は憎らしくて恐ろしい。
自分にもこれほどの力があれば、かもが居ずとも爪を立てるくらいはできたであろうに。
ぎっと歯ぎしりして、梓は炎に背を向ける。火中に飛び込むより、正面に対峙する敵から目を離さず監視している方が、まだ安全だ。
たけると梓を囲い込むように、周囲が炎に包まれている。狭まることはないが、広がっていくこともない。一定の量を保って激しく燃えている。
昔に、コンロの使い方を間違えて小さいやけどをしたことがあった。
その時から炎は梓にとってやや苦手なものになった。トラウマほどではないにしても、使い道を誤ると命の危険にまで発展する炎に、自ら好んで飛び込む蛮勇はない。逃げ道は断たれた。こうなったらたけるの手から逃れ続けるしかない。戦って倒す勇気も術も梓にはなかった。かもがいたら変わったかもしれない。だけれどその頼れる柴犬は、ここにはいない。
詰んでしまった。恐怖と諦めで、涙が出そうだった。
「いやだよ、かもさん……」
目の前のたけるが、梓の涙を拭こうと手をのばした。
「よう梓、待たせたな」
その手を阻んだのは、小さな生物だった。
見慣れた茶色い豆柴犬。ふんふんと鼻を鳴らして梓の前で姿勢よくお座りをしている。
「か、かもさんっ!!」
「すまん遅れた。声は聞こえてたんだが、入口が見つからなくてな。三回くらい探し回ってめんどくさくなって抉じ開けたけど」
「かもさああぁぁあん!!」
「おぅっ!?」
梓は構わず柴犬に抱き着いた。ふさふさの毛並に頬ずりして、ほのかに暖かみを持った子犬の体が今は愛おしい。
「あ、梓……お前が犬派になってくれたのはこの上なく嬉しいが、ここまで抱きつくとは思わなんだ」
「こっ、怖かったんですよ! いきなり夢みたいな場所に入っちゃってたりたけるちゃんは男の子だったり、わたしは命が危ないし周りは火の海だしいぃぃぃっ!」
「わ、わかったわかった。俺が来たからにはもう大丈夫だぞー。心配しなくていいぞー。このかも様がお前さんの力を最大限に引っ張り出して、犬の散歩に連れてってやるからなー」
かもは前脚で梓の鼻をぺしぺしと叩く。
「……なに、この犬」
さっきまで余裕で笑っていたたけるも、さすがにこの小さな乱入には表情を崩すしかなかった。
弾んでいた声も低くなり、狂気に満ちた目は冷めている。
「おーおー、お前か。うちの梓に手出ししようって不届き者は。お父さん許さん」
「誰がお父さん? ここに来てることを見るに、きみも僕かミツミネのどちらかと同じ部類のようだね」
「はん、お前らと同じだ? いや違うね、俺はお前ら以上に強い神だよ」
「その割には随分可愛らしい見てくれだね。ミツミネの弟にでもしてあげようか?」
「あいにく家族は間に合ってるんでね。美人でコワい嫁さんと可愛い娘と跳ねっかえりの孫がいるからな」
「そう、それは残念」
梓はかもを抱きかかえたまま、一歩後ろへ下がる。
ちらっとかもの犬の体をうかがうと、やっぱりまだ白い糸の形をした呪詛が残っていた。これまでにほどいた呪詛は役に立つものと、戦闘において活用できるか不安なものと、おおよそ半々だった。
だがこういった緊急時にほどいた呪詛は、いずれも突破口となりえる力を取り戻すことができていた。
三度目の正直となるか、二度あることは三度あるか、どちらに転ぶかはわからない。
同時に、それ以外に状況を好転させる手がないのもまた事実である。
梓はたけるの動向に注意しながら、そっと呪詛の一本をつまむ。玉結びの形にされているようで、片手だけではうまくほどけにくい。別の呪詛に手をかけると、これも複雑に絡み合っていた。
その呪詛には他の呪詛がいくつもまとめてほどかれているのに梓はきづく。
複雑で容易には解けないが、うまく解いたらそれだけ多くの呪詛も一気に解けるのだ。
どれだけ有用な力を取り戻すことができるかは定かでない。だが数撃てば当たると信じて、梓は糸を探る。
「うーん、気を取り直して……。犬くんはいいからさ、僕はそこの女の子に用があるんだ。賢い犬なら聞き分けてくれるよね」
穏やかな微笑を取り戻したたけるは、華奢な右手を梓に差し伸べる。梓に抱きかかえられた柴犬は、ぐるぐると唸り声を上げて牙をむいた。
「あれ、しつけがなってないのかな?」
「いやいや、俺ぁしつけの行き届いた素敵な番犬ですよ」
「そう? 他所の人にそうして威嚇するのは、狂犬な気がするよ。……さあ、その子から離れて僕によこして」
「させるかバーカ!」
かもはむき出しの牙をしまうことなく、たけるに威嚇する。
「梓は俺の娘も同然だ、こんなひょろいガキに任せてたまるかっての」
「うわー出た頑固親父の典型だ」
「何とでも言え」
かもがたけると言い合っている間、梓への注意はそれる。それを利用して糸をほどこうとしていたが、やっぱり一筋縄ではいかない。複雑に絡んだ糸は、きつく結び合っているままだった。
「かもさん、もうちょっと時間がかかりそうです……!」
梓はかもに耳打ちする。
「よしわかった。梓、俺を一旦放してくれ。呪詛をほどくのは変化してる状態でもできっからな」
「はい!」
梓は言われた通り、かもをそっと地面におろした。すると白い光がかもを包んだ。光が消えてなくなるころには、梓の手元に黒塗りの弓がふわふわと浮かんでいた。掛と胸当てもしっかりと装備され、矢が梓の周りを守る様に漂っている。黒塗りの弓を手に取ると、自然と力が沸いて来た。
「ひどいなあ、僕に矢を向けるの?」
「あなたがわたしの命を狙ってるなら、それも仕方ないことです。なるべくなら矢を射るつもりはなかったですけど……必要になるなら……」
梓の声が弱くなっていく。今まで二度怪物を相手に弓を引いたが、今回は違う。
相手はたけるだ。かもと同じ神とはいえ、人間の形をしているのだ。怪物ではないから、同じ人の見た目をしているから傷つけることに躊躇するというのも身勝手だとは梓もわかっている。だが心はうまく整理がつかないものだった。
「梓、無理をする必要はない。矢で射殺さなくても撤退させる方法はいくらでもある。このかも様に任せておけ」
「かもさん……」
「嫁入り前の娘を人殺しにはさせんさ」
「でもわたし……必要なことだったとはいえ、怪物さんを一体殺してます……。矢を向けてるんです……」
「なに、あれは死なねえよ。あんなでけぇ腹だ。たんまり脂肪ためてたんだろうよ。梓の射た矢よりも、矢に加わってる神力があいつの力を無効化させてバラバラにしただけのこと。悩む必要はない」
「えっと……それって、どういう……?」
「矢で奴は死ぬようなやせっぽちじゃなかったってことさ! 気を取り直していくぞ! 呪詛が解けるまで、何とか踏ん張ろうや」
「は、はい!」
「梓、まずは鳴弦。もう一歩下がろう」
「はい」
梓は言われたとおりに後ろへ下がる。丸腰の相手に弓を引くのは気乗りしないが、この際わがままを言っていられる余裕はない。
人殺しを避けつつ、この場を乗り切るしかない。
目の前のたけるはいつもどおりの微笑を浮かべている。武器を持つ動きも見られない。
そもそもこちらを傷つける意思があるかもわからない。いずれにせよ、これは好機である。
梓は弦に手をかける。引いて弦を手放すと、腹に響く音が生まれた。
弓を中心に、波紋が広がる。梓の髪とスカートをひらめかせ、たけるに一瞬強い風を当てる。
「ふむ。相手は相当だな」
弓はそう判断した。自信家のかもがここまで言うとなると、やはりたけるに勝つのは難しいのだ。
「わたしたち、勝てますか?」
「勝てるさ。奴は強い。だけど俺はそれ以上に強い」
「頼もしいです」
矢はつがえられていないとはいえ、戦意を向けられているというのに、たけるにはまるで抗う意思がない。なんだか一方的に弱い者いじめをしている気がするが、この際無視だ。
「それで撃てるの? 僕を?」
「う、撃ちます! あなたがかもさんと同じ神様なら、わたしの放った矢くらい、なんてことないはずです!」
「そういうこと。じゃあ、試してみれば?」
たけるは一歩下がって両腕を広げる。自ら的になる意味はあるんだろうか? これは罠か?
弓から滴り落ちるように生まれた一本の矢が、穏やかに梓の右手に収まる。
ひとりでに右手が動いて、矢をつがえたかのようだった。
足が自然と踏ん張る。左手の指はたけるをまっすぐ指す。
相変わらず右腕全体にかかる負担は重い。かもの力である程度軽減はされているのがせめてもの救いだ。最大限まで引き絞る。
「大的! そのまま一気に射て!」
かもの声を合図に、梓は矢を放つ。右肩の解放感と一緒に、矢はまっすぐたけるへとはしっていた。
射た余韻を味わいながら、梓は唇を引き結んで的を伺う。手ごたえがわからないゆえに慎重でいる必要がある。
矢はたけるを貫いたか? それさえしっかり見えなかった。矢がたけるに当たったと同時に、周囲が煙に包まれたから。白いそれらは突風となってたけるを覆い、梓の視界から遮った。
それだけでなく、梓の視覚を奪う。
「け、煙……っ?」
「……なんだぁ? 大的はこんなどでかい演出なんてできねえはずだぞ?」
弓になったかももまた、この派手な後処理に戸惑っていた。大的を使うと衝撃こそ生まれ、的とした獲物が隠されることは決してない。かもはひとりごとのようにそんなことをぶつぶつ言っていた。
「やーな予感……」
「かもさん、もう一本、矢を射ますか?」
「おおよ、念のためつがえてくれ。煙が晴れる前に、もういっちょ射るぞ」
「は、はい……!」
「怖がらなくていい。感触としては、あいつを覆う殻にヒビが入った程度だった。あいつ自身は傷一つついちゃいない」
「殻……?」
「結界、バリア、防護壁。呼び方はいくらでもあるな」
再び生み出された矢は同じようにして、梓の手に収まる。自然と矢をつがえて、もう一度引き絞る。この動作には、梓もだんだん慣れてきた。
「次だ。射てぇ!!」
ぐっと身を引き締めて、梓は次の矢を射る。
矢はまっすぐ走り、一本目の矢からやや左にそれて其処に命中した。
梓の目にもそれが映る。二本の矢を中心に、其処からひびがびきびきと広がっていく。
ばりんっ! とガラスの割れた音がした。光を帯びて輝き、ガラスと思しき殻は綺麗に割れて行った。
「あれが、殻……?」
梓は目を見開く。かもが殻と呼ぶものだから、てっきり大きな貝殻を想像していた。
「そ。野郎がまとってたモンだ。二発で壊せたのは幸運だった。このまま何もさせずにぶちのめす」
「そんなこと、させると思ってるのかな!?」
朗らかな声が、梓の目の前に迫ってきた。
ふりしきるガラスもものともせず、いまだ晴れぬ白煙すら振り切って、たけるが一直線にこちらへ奔って来る。
賑やかな笑みは狂気が滲み、かっと開かれた瞳は梓を射抜いている。一瞬、梓はその眼光に足をすくませた。
「逃がさないよ!」
一気に踏み込んだたけるが、右手を横に薙ぐ。梓はとっさに弓を前に出して防ぐ。鋭い衝撃が弓に伝わって来る。足を踏ん張らせたが、たけるの力には叶わなかった。たけるは何を振り回した?
「っくぅ」
梓は後ろへ転げ込む。地面に肩と背中が擦れてひりひりした。背後が焼けるように熱い。そこでようやく、自分が炎に囲まれていると思い出した。
「大丈夫? 顔は狙わないよ。タチバナを君におろしたとき、顔に傷が残っちゃどっちもかわいそうだもんね」
ざくざくと乾いた土を踏みしめ、たけるが近づいてくる。たけるの細い足首が、梓の目に映った。
「少しの傷くらいなら僕でも治せる。そう、腕一本足一本なくなったとしても、僕ならすぐにぴったりくっつけられる」
たけるの手に握られていたのは、鈍く光る日本刀だった。模造刀じゃない、あれほ本物だ。かすっただけでも致命傷になりかねない。そう梓は直感した。
立ち上がろうとして右足に痛みが走るのを覚えた。伺うと足首から血が流れている。
(さっき攻撃をふせいだ時、斬られちゃったのか……?)
もう片方の足で立ち上がろうと地面でもたつく。梓の苦難を、たけるは微笑ましげに眺めていた。
「大丈夫。この傷はまだ浅い方。ちなみに深い方は足がすぱっと断ち切れてるけどね」
刀を軽く振り回している。彼の左手はしっかりと握り締められ、その中にはタチバナという少女の髪飾りがあるんだろう。
(そうだ、弓)
左手が空っぽの感覚を今更覚えて、梓は地面を這いずって弓を探す。
うろうろと四方八方視線を泳がせた。たけるの後方に、無残にも弦が切れた状態で地面に転がっていた。砂にまみれて自慢の黒塗りもくすんでいる。なんて痛々しいんだろう、取りに行かなければ。さっき自分がとっさにガードで使ってしまった仇になってしまったんだ。自業自得だ。かもさんは痛くないだろうか。
「かもさん……」
かすれた声で相棒を呼ぶと、「おー……」と陽気だが弱い声が返ってきた。とりあえず返事が聞こえてよかった、と梓はほっとする。
「待ってろ、すぐ駆けつけてやっからな……」
弓がずるずるとこちらへ近づいてくる。その距離およそ一メートル。梓のもとへはまだ届かない。
「まっ、君があの弓を盾にするのはある程度見当ついてた。予想が当たってよかった」
「……く」
「弦が切れた弓は武器としての価値を失う。矢が残ってれば巻き返すこともできるだろうけど、君にはできないことだ」
刀の切っ先を梓に突き付けてきた。たけるの言葉は当たっている。矢はかもの力で生み出されたものだ。弓本体がやられてしまったら矢も作れない。要するに元を断たれたのだ。
「さて、邪魔者は消えたし、ちゃっちゃと始めよう…………」
真っ直ぐに梓まで伸びていた切っ先が、不意にゆれた。
「……?」
たけるの言葉がふつと切れた。
「……と言いたいところだけど、もう一匹邪魔者ができちゃったみたいだね」




