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そのひと、知り合いです。

 かもを呼び出せないのは大変困ることだった。

 もし狼の飼い主と戦闘ということになったら、自分の体力ととっさの知恵が命綱になる。緊張する胸を押さえて、梓は前をとことこ歩く狼に着いて行った。どうしてかもを呼び出せないんだろう。狼の創り出した空間に迷い込んだことが一度あるが、その時はかもを呼ぶことができたのに。


 狼の後をついて行くと、景色がだんだん薄墨から黄金色に変わっていった。

 夕焼けを思わせるそれらは、現実であれば美しい景色であっただろうが、今のこの状態では純粋にきれいだと眺めることはできない。上方いちめんは黄金色に染まっており、地面に行くにつれて灰色へと色が変わっていく。空には雲一つないし、地面だってコンクリートでも土でもない。ガラスに近いそれは、うっすらと梓を映す。


 目印になるものは何もない。ただ殺風景で、果てもわからない。どれくらい歩いたのだろう。時間を確認する術を持たない梓は、自分の体感だけが頼りだった。


「もう少しです」

「あ、はい……」


 狼が静かに言う。いかつい獣がてってってっ、と歩いていく姿は、かわいらしかった。


「あの、狼さんの飼い主さんは、どんな方ですか?」


 沈黙に耐えられず、梓がたずねる。狼は少し考えて、「美しい方です」と答えた。


「美しい……」

「私の説明が至らぬのもありましょうが、あの方は一言では表しにくい。

 ただ、身も心も美しい方ということだけは、断言できます」

「きれいな人なんですね。そんな人が、どうしてわたしを必要としたんでしょう」

「あなたがタチバナの乙女だからだと、主は仰せでした。あなたに心当たりはないようですね」

「うーん……タチバナという家系や知り合いがいるわけじゃないですし、母の旧姓は『神矢(かむや)』でしたし。

 本当にわたし、全然わからないです」

「……実を言うと、私もタチバナが何を意味するかはわかりません」

「え? ご存じなかったんですか? 知らないのにいつも危ないことふっかけてきたんですか?」

「それについては深くお詫びします。私は、あの主の眷属となってから日が浅いのです。ようやく百年を過ぎたところだ」

「ひゃくねん……。それって眷属さんにとっては短い方なんですか……?」

「もちろん。神々にとっての時間というのは短いものです」


 そうですか、と梓は弱く答えた。自分にとっての短いと、目の前の狼の短いには大きな隔たりがあると知った。


 狼が足を止める。その十歩先には華奢な人影が立っていた。身長は梓と変わらないほど。艶やかな髪が静かに揺れている。


「あの方が、私の主です」

「飼い主さん……。やっと、お目見えなんですね」


 梓はぐっと拳を握りしめる。梓を欲する飼い主。名前も顔も正体もわからない、謎の人物である。

 青い狼に命じて、梓を手中にしようとする、梓にとっては敵と認識してもおかしくない相手だ。


 青い狼を従えているその者は、きっと強い。狼が自らを眷属と言っていたから、その飼い主である人物は間違いなく神かそれに準ずる種族である。要するにかもと同じだ。


 狼の飼い主は動かない。狼がそっと近づいて、傍らにお座りした。


「連れて来ました」

「ああ、そう? よくできました、ミツミネ」


 人物は梓に背を向けたまま、ミツミネと呼んだ狼を撫でる。狼――ミツミネのしっぽが嬉しそうにふるわれた。


(この声、どこかで聞いたような……?)


 梓は声の主の正体を探りながら、慎重に一歩ずつ詰め寄っていく。


 ミツミネを存分に撫でているその主は、ようやく手を止めた。


「あ、そうだったね。連れて来たんだったよね」


 飼い主はすっと立ち上がる。こちらを振り向きながら、髪を揺らしながら。

 梓はその人物の顔をようやく拝めた。自分を狙っていた黒幕。狼ミツミネの飼い主。

 かもと同じく神に属するであろう、敵。


「そんな」


 梓はとっさに何も言えなかった。意味のない言葉をぶつぎりに紡ぐしかできない。

 心臓の鼓動が早くなる。これは夢? それとも現実?

 そういえば、体調を崩して寝込んでいた時の夢にも、同じように出てきていたと、今更思い出した。いや記憶が改ざんしているだけか? 目の錯覚ならよかったのにと、梓は思わずにいられない。


「こっちで会うのは二度目だね」


 その人物は、驚愕に何も言えない梓をしり目に、言葉を投げかけて来る。梓は受け止めるので精いっぱいだった。



「……たけるちゃん」



 梓はたけるという同級生のことは、名前以外何も知らない。

 どこに住んでいるかも知らないし、出身中学がどこかも聞いたことがない。ただ週に何日か図書室の当番をしており、たびたび図書室に通う梓がたまたま顔を合わせるだけのことなのだ。連絡先だって交換したこともなかった。

 だけれど梓は、そんな形でもよいと思っていた。深くは知らずとも、図書室に行き、かつ運がよければ出会える友人という関係も心地がよい。クラスメートで小さい頃からの付き合いがある桜花とは異なる形の奇妙な友人――それがたけるだった。


 そんなたけるが、自分を狙っていただなんて。


「こんにちは」


 たけるは穏やかに笑んでそう言う。


「……こんにちは」

「うん、挨拶はいいことだねー」


 能天気そうにたけるがこぼす。


 美しい黒髪はそのまま風に遊ばせている。身なりは男性風というか男物をそのまま着ていた。

 学校で見かけていた、優雅にセーラー服をなびかす少女ではない。


 梓にはたけるが、髪が長いだけの、端整な少年に視えた。


「やっと会えたね。あ、学校で会ってたからきみには実感ないかも? まあいっかー。こちらでちゃんと顔を合わせられて嬉しい」

「たけるちゃんが、狼さんの飼い主だったの……」

「そ。ミツミネっていうんだ。この地に来た時に拾ったんだけど、なかなかかわいくて優秀で、頭が下がるよ」

「たけるちゃんは、わたしをタチバナの姫として欲しがってたんだね?」

「うん。ここに来て間もなくのころにきみを見つけたんだ」


 たけるが颯爽と近づいてくる。息をのんで梓は身構える。

 繰り返すように言い聞かすが、ここにかもはいないし呼び出せないのだ。


「そんな固くならなくってもいいよ。私はまだあなたに危害をくわえないから」

「……『まだ』?」

「言い方が悪かったね。えっとねー、ざっくり言うとさ、きみにはタチバナの器になってもらおうってことだからさ、きみ自身が消えるわけだ。これもある意味危害だね? まあ、痛くはしないから大丈夫大丈夫」

「ぜ、全然大丈夫じゃありません!」


 笑顔で恐ろしいことを告げて来る友人に、さすがの梓もやっと声を出せた。


(器? タチバナ? それは一体何なの? どうしてわたしなの?)


 たけるの言った耳慣れぬ言葉を梓は頭の中で繰り返す。

 自分が消えるという一大事である。一人で立ち向かわなければならない以上、体力だけでなく知恵も働かせなければ負けてしまう。

 いかにしてこの状態を乗り切ればいいんだろう。梓は必死で頭を働かせる。

 そんな中で、導かれた結論が、知恵が生まれるまでとにかく時間を稼ぐというものだった。


「聞きたいことがあります……。いいですか?」

「いいよ、何でも聞いて」


 たけるは乗じてくれていた。


「器とか……タチバナとか、それは何なんですか? わたし、狼さんと最初に出会ったときから、タチバナという名前を聞かされてたんですけど、それは一体……」

「あれっ、ミツミネがちゃんと話してなかったんだね。こらミツミネ、キミの説明は言葉が足りないから気をつけろっていつも言ってるじゃないか」

「申し訳ありません」


 困ったように唇をとがらすたけるは、狼をぺすぺす叩く。そして梓に向き直って、梓の疑問には誠実に答えてくれた。少なくとも、たけるは常識から逸脱している類の者ではなかったらしい。


「えっとね、タチバナっていうのは私のお嫁さんだった子」

「……お嫁?」

「あっ、その辺からしっかり説明したほうが良さそう? 良さそだね」


 たけるは長い髪を一房手で梳いた。


「うすうす気づいてると思うけど、『僕』は男だもん」


 柔和な微笑は、学校の図書室で見かけた時と変わらない。

 何だか男物の服を着ているなあとここで会ったときから思っていたが、それは本物の男の服だったようだ。


 学校でのたけるは確かにセーラー服を着ていた。美しい髪をなびかせ、優雅なたたずまいと柔らかい仕草で生徒から人気を集めていた女生徒である。梓の記憶のなかでのたけるは、おおむねそんな印象だった。

「あっはは、もう『僕』でいいや。昔からね、僕は女の子に化けるのが上手いから。といっても、体まで女の子にはできないけどね。形だけ、形だけ」

「じゃあ、たける…………君?」

「だね! でも今まで通り、たけるちゃんでも構わないよ。僕、キミに名前を呼んでもらえるなら、君づけでもちゃんづけでもどっちでも嬉しいもん!」


 無邪気に答えるたけるに、梓はどう反応すべきかわからない。

 たけるは梓と同じ年か、あるいは一つか二つほどしか年が違わないはずだ。それなのに目の前の少女(ではなく少年というべきなんだろうか)は、梓よりもずっと幼く見える。


「僕にはね、小さいころに決められたお嫁さんがいたんだ。それがタチバナ」

「いいなずけというものですか」

「そうそう! この辺は前に一度話したかな」


 たけるの言う『前』とは、梓が体調を崩した際に観た夢のことだろう。

 そう言われると、梓はとたんに夢をぼんやりと思い出してきた。見知った顔なのに、どうしてか思い出せないその正体は、目の前のたけるだったのだ。


「だけどその子は水難で死んでしまった。海を必死で探したけど、見つかったのは僕がプレゼントしたこのアクセサリーだけ」


 そう言うとたけるは手のひらに乗せた髪飾りを梓に見せた。ところどころ塗装がはがれ、金属部分がさびているそれは、海にうちつけられたときの傷跡なんだろう。


「海をいくら探しても、タチバナ自身は見つからなかった。もうあきらめかけたとき、僕はひとつの方法を導き出すことができた」


 たけるは髪飾りをぐっと握り締める。

 くるっと回り、つたないステップを踏んで、梓に近寄る。梓の手を取り誘うその表情は、まるで子供のようだった。



「それはね、タチバナの御霊を僕が捕まえて、きみにその器になってもらえばいいってことだよ!」


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