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母親の面影、見つけました。

 その声は聞き覚えがある。一時間前に聞いた声だ。だけれど現実にはもう十年以上聞いていない。

 後ろを振り向くのがこわかった。かもの名を呼ぼうと助けを求めたくなってきた。

 このあとの衝動は、青い狼に不意打ちされる以上のダメージが予想される。

 梓は意を決して後ろを振り向く。強張った体を叱咤し、思い切り振り返る。


「梓」


 最後に顔を合わせた時と変わらない。

「……どうして、お母さん」


 六、梓とかもxxxxx


 レモン色のエプロンまでいつもと一緒だった。最後に見た日もつけていた、母のお気に入りだった。肩まで伸びた髪をゆらし、柔和に微笑む女性は、梓の母その人だった。

 梓は再会を喜べない。ここが現実とは違う空間なのを知っているし、母はすでに死んでいるのだから。


「大きくなったね、梓」

「お母さんは、変わらないね」


 歓迎なんてできない。相手は死んでいるんだから。


「また会えて嬉しいな、お母さんは」

「そう……」


 母は梓の心情も知らず、ゆっくりと近づいてくる。梓を優しく抱きしめた。


 母親の香りが梓に漂う。匂いなんて覚えていないけれど、これが母の匂いだったんだと梓は改めて思い知った。


「お父さんと一緒に、がんばってるんだね」

「がんばってるよ。お父さん、料理が全然ダメだから、わたしがやってあげないといけないもん」

「よくがんばったね。でも、もうこれ以上がんばらなくていいんだよ」

「どういうこと?」

「お母さんが、一緒にいてあげるから」


 母親の懐かしさとやさしに甘んじながら、同時に梓は恐怖を覚えた。

母の優しい声が、自分を脅かす何かに思えて仕方がない。


(これは夢だ。これは夢だ……)


 母の優しさに甘えたい気持ちは確かにある。だけれどそれでは先に進めないことを梓は知っている。


 そして何より、これが罠であるとわかっている。こんな現実離れした仕業をしでかすのは、梓の知る限りではかもか青い狼くらいのものだ。



「お母さんが、ずっと一緒にいてあげる」


 梓は一瞬だけ迷った。母の優しい抱擁に泣きたくなるのをこらえる。

 覚悟を決めて、梓は母を突き放す。母は悲しさよりも、驚愕にとらわれていた。


「ごめんね、お母さん。一緒にはいられない」

「どうして? すぐに死んだお母さんを、嫌いになっちゃった?」

「違う、逆だよ。今でもお母さん大好き。でも一緒にいることはできないんだ」

「梓……」

「ごめん。もう決めたことなんだ。わたしのこと、大切に思ってくれてるって、たとえこれが夢でも、それがわかってとっても嬉しい。

だから、お母さんはゆっくり休んで。わたしにはお父さんや桜花ちゃんがいる。たけるちゃんもいるし、かもさん……えっと、つい最近飼いはじめた柴犬ね」

「…………そう」


 梓は母と距離を取り、笑顔でそう言う。母の死を受け入れ、今まで生きてきた彼女は、もう母親の面影にぐらつかない。


「梓は、大きくなったんだね。心も、成長してたんだね」

「そうだよ。お母さんが心配すること、何もないから」

「お母さんは嬉しいなあ。子供の成長がわかって嬉しい。でも同時に、寂しくもあるかな」

「ごめんね。でも決めたんだ。お母さんが死んでも、ちゃんと生きて行こうって。ほら、お父さん、料理がまるでダメだから」

「そうね。悲しんでいられない、重要な問題ね、それは。お父さん、少しは料理の腕も上がったと思ったのに」

「インスタントラーメンだってろくに作れないよ。そういうとこもあって、わたしは帰らなくちゃならないんだ」

「そうだったね。……お母さんじゃ、梓を呼び寄せるのは、できないんだ」


 耳慣れぬ言葉が漏れている。梓は落ち着いて、この事態の原因を探る。


 これは幻だ。そう意思を強く持って瞼を一度閉じる。呼吸してもう一度視界を開く。


 母の姿は消えていた。母の立っていた場所には、オレンジ色の煙が揺らめいている。それらは漂って薄墨の空間に消えて行った。



「どうして」


 男の低い声が、前方から聞こえた。

その先には青い狼がお座りをしてこちらを見つめているのがわかる。やっぱり、と梓は肩の力を抜いた。


今の狼に戦意はない。殺気も感じられなかった。だが油断してはならないと、梓は気を引き締める。かもを呼べない現状、間違った判断をすれば命取りになる。


「母上の面影は、あなたにとっては衝撃的ではなかったのですか」

「いえ、そりゃびっくりしましたけど……。その、わたしはもう母を追わないとずっと前に決めてたんです」

「どうして、そのように死んだ者の影を追わないのですか」

「んー……。お葬式が終わった後だったかな。わたしの父、家事がまるで下手っぴな人で、特に料理が絶望的なんですよね。

そんな父が、もう頼れない母の代わりに、包丁で指切ったり跳ねた油で火傷したり、野菜焦がしたりお米のとぎ汁と一緒にお米まで流しちゃったり、散々なことになりながらも一生懸命わたしのごはん作ろうとしてくれたのを見てから、いつまでもお母さんにすがってるわけにはいかないなって思っちゃったんです」

「……」

「それに、わたしがここまで成長できたのも、父や周りの人たちあってのことだと思うんです。そんな人たちに、受けた恩を少しずつたくさん返していきたいから、母を振り返る余裕なんて、ないんです」


 狼は黙って聞いていた。不意打ちもしない。巨人も出さない。それどころか戦意さえ失っている。尻尾が一度揺れた。


「あなたなら……主を救えるやもしれませんな」

「ぬし……って、飼い主さんですか?」

「さよう。私はこれまで、主の命によりあなたを連れ帰るよう言われてきましたが……その命に従う意思が揺らいでおります」

「ど、どうして」

「貴方の姿を見たから」


 それは口説きなんだろうか。梓は狼の言動の変化に戸惑っている。たとえ手足をもいででも連れて行こうとした狼と同じ個体なのかさえ疑わしく思えてきた。


「わたし……?」

「主と貴方は、同じ境遇でも考えがまるで反対です。……主の命を果たすためにしても主を救うためにしても、主の命に反逆するにしても、私のすることは変わらない。貴方には、主に会ってもらわなければならない」

「狼さん……?」

「どうか」


 狼が頭を下げた。その行動に曇りも下心もない。殺意も敵意もなく、梓を傷つけるつもりがまるで感じられなかった。


「……」


 かもを呼べない以上、軽率な行動は控えた方がいい。梓は思考を巡らす。


(どうしよう)


 だが自分を狙う黒幕と会える絶好のチャンスでもある。黒幕が梓を連れて来るよう狼に命じたことが、梓の平穏を脅かす元凶となっている。

うまく立ち回れば、根源を取り除くことに成功するかもしれない。


 かもがいない以上、戦力に期待はできない。梓自身にできることといえば、妖怪や神々をおびき寄せることだけだ。純粋な戦う力は持っていない。


(でも)


 狼から戦意は感じられない。飼い主がどういう人物かは不明であるが、飼い主と梓が対峙したとき、狼はせめて中立の立場に転じてくれるかもしれない。

浅い考え方である。無謀すぎる見通しであると、梓は自覚している。


それでも梓は、ここで立ち止まっていても事態が好転しないのはわかっていた。さっきの幻覚だって、梓が前に進む選択をしたからこそ打破できた。そしてここにとどまってもかもを呼び寄せることができるかさえ怪しいのだ。


 とりあえず今の目標は、かもをこちら側へ呼び寄せるために動くことだ。そう結論を導き出し、梓は決意した。


「わかりました。連れてってください」

「感謝いたします」


 狼は深く頭を下げ、梓を導いた。

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