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なつかしい場所、でした。

「……また?」


 梓は口を開いた。

 といっても現状は、夢の中で行動しているだけだ。現実の梓はまだ眠っている。


 体の調子を壊して寝た時と同じように、梓は夢の中で動いていた。


 その時の夢がどんなものだったかほとんど覚えていないのに、今いる空間はとても懐かしく感じられた。


 四方八方暗闇に覆われ、ところどころから白い光が漏れている。

 その光以外には何もなく、目印となりそうなものも見当たらない。


 目を覚ませばここから出られるのだろう。

 しかし梓は、どうもこの空間に恐怖を覚えた。自分の存在を脅かす何かがある。そんな直感がよぎる。


(夢の中でも怖いものは怖い!)


 何もない。お化けも幽霊も殺人鬼も刃物もない。

 むしろ誰もいないし何もないから安全ではあるのだ。

 だが何もないからこそ、何も視えないからこそ覚える恐怖もある。


(とにかく、ここから抜け出さなくちゃ。……夢の中の場所とか世界って、抜け出せるものかは知らないけど)


 梓は恐怖心をそっと拭って前に進む。ときどき足下を照らす光を目印にするしかない。

 慎重に歩き、周囲に何が出ても驚かないよう、心を落ち着ける。


(でもわたし、何を怖がってるんだろ?)


 夢というのはその者の心をあらわすという。

 自分の心には、何かに怯える者がいるんだろうか。

 今のところの恐怖といえば、あの青い狼だ。飼い主の命により、梓をつけ狙う奇妙な喋る生き物。


 ということは、この夢にはあの狼がいるのか。と梓は納得する。

 今いる空間に狼はいない。出口直前で待ち構えて、「さあ行きましょう」と飼い主のもとへ連れ去って行ったりするんだろうか。


「ぉ、おーい……」


 試しに声を出してみたが、反響せず暗闇に吸い込まれていくだけだ。


「かっ、かもさーん……」


 自信なさげに、頼みの綱である柴犬を呼ぶ。「よう、来たぜ!」と朗らかな声を上げて駆けつけてくれるという梓の願望はことごとく叶わない。



「梓」



 梓の身が固まった。ここには自分以外の人間もいる。その望みだけは叶えられた。


 しかし手放しで喜ぶことはできなかった。ある意味で、最悪の事態に陥った。



「梓」



 その声には覚えがある。おぼろげな記憶の中で確かに残っていた、触れられてはならない記憶である。


 梓の心臓が早鐘を打つ。

 現実ならばありえない、夢だからこそありえるもしもの事態に戸惑っているのか。


(いや……そんなはずは……)


 意を決して梓は声のした方を向く。

 唇を引き結んで、髪を揺らし、後ろを振り向く。

 たったこれだけの動作なのに、梓の体はこわばっている。



「大きくなったね、梓」



 どうして? と言わずにいられない。

 だけど言葉が出てこない。足が縫いつけられたかのように動かない。


 梓の目は良い方だ。だから目の錯覚や幻覚でもなければこんなありえない事態を目に移すことは絶対にない。

 『その』人は夢の中でなければ絶対に現れないのだ。


 喉がひりついている。口を開け閉めして、何とか何か言おうと努力する。

 そしてそれはことごとく空回る。


 これは夢だ。そんなことは最初からわかっている。


 これは現実じゃない。当たり前のことを自分に言い聞かせる。


 目の前の『彼女』は優しく微笑んで、両手を差し伸べる。当たり前のように。


 だが梓はそれを受け取れない。受け取ってはいけないことを知っているから。


 これが夢なら覚めなければならない。同時に、一生この夢にいたいという幼稚な望みまで湧き出てくる。



「……お母さん」




 朧な記憶の彼方に隠れているはずの、母がそこに立っている。



「は……っ!」


 梓の目が覚めた。チャイムの音で体が覚醒したらしい。軽快なチャイムが耳に響く。


 頭のもやがすっきりと覚めた。眠気は吹っ飛び、体が軽い。

 慣れない薬品の匂いと清潔なシーツ。固い枕とベッド。

 背中がやけに熱く、汗の感覚が伝っている。


(やっぱり、夢……?)


 梓は身を起こし、横に置いてある鞄から携帯を取り出した。ベッドにたおれこんでから、一時間経っていた。


(糸をほどいたからじゃない……よね?)


 思い当たるふしといえば、かもの呪詛をほどいたことによる後遺症だ。

 しかし先日うかがったオモイカネによると、かもの呪詛をほどいたところで受ける影響は大したものではないということだった。


 学校に来る前にほどいた呪詛はほんの二、三本。それらの呪詛は残念ながら、かもの力を大きく取り戻すには至らないものだった。変化の術の効果を狭める呪詛(解いたことで、今まで動物や小物にしか変化できなかったものが、車や電車にパソコンと言った大型の機械に変化する力が戻った)、新たな弓の術にかかっていた呪詛(これは梓の負担を減らすために必要な術だった)、ほかにも動物の声を聞きとる耳を封じる呪詛(これをほどいたことで、数日前迷い込んだ黒い柴犬の声がわかるようになったという)……。その中に、梓の身を守る術があったかというと、一本のみで他はほとんどハズレといってもよかった。かもは呪詛の内容をひとつひとつ丁寧に調べていた。


「なんだよ! ほとんどアホな呪詛ばっかじゃねーか!」

 そう吠えても仕方のないことだった。


 青い狼や巨人たちを相手にしながらほどかなければならなかったときは、運良く戦局を好転させるに足るための力を取り戻すことができた。だがその脅威がなくなった安全な場所では、役に立つのか立たないのか判断しかねる呪詛ばかりがほどけた。


「あー、なるほどな……。あの野郎、どこまでも仕組んで嫌がったクソが」


 汚い言葉を零すかもの声は、梓でなければ柴犬が唸っているようにしか聞こえない。

 かもの推測によると、あえてわけのわからぬ呪詛をいくつも巻きつけることで、かもの本名を封じる呪詛から、ほどこうとする指を遠ざけているのだという。ただ、梓が危ない目に遭った際の幸運は、呪詛をしかけた者の意図か梓の単なる悪運なのかはわからない。


 かもにも調べてもらったし、呪詛をほどいてからの梓の体調に変化は見受けられなかった。

 オモイカネの言葉やかもの言うことを信じるなれば、呪詛をほどいたことはまったく関係がないといえる。


(かといって、夜更かしなんてしてないし、だとしたら……)


 考えられる可能性としては、あの青い狼の策略だろう。


(でも、どうして眠らせることにしたの? わたし、もう目が覚めちゃったし、寝てる間に連れ去ろうとしてたのかな)


 鞄を抱え上げ、梓は立ち上がる。

 がらっ! と保健室のドアを開け、一歩廊下へ踏み出そうとした時――



 奇妙な空間が、そこに広がっていた。



「やっぱり!?」


 梓は投げやりに叫ぶ。暗闇でないのは幸いだった。

 薄墨色の空間に、自分の影が落とされる。まずは周囲の確認。


 今のところ、梓のほかにはだれもいない。だがこの空間が出たとなると、そのうち狼が現れるだろう。だとするならば、今のうちにかもを呼ばなければならない。


「か、かもさーん……!」


 遠慮がちに、震える声を絞り出す。梓のかよわい声は空間の彼方に吸い込まれて消える。

 恥ずかしがっている場合ではないと言い聞かせ、梓はもう一度相棒の名を呼ぶ。


「かっ、かもさーん!」


 勇気を振り絞った大声も、虚空に吸い込まれてしまう。


 困った時は必ず呼べと、かもに言われた。

 その通りに実行しているが、かもにその声が届く兆しはない。


 何かあったらかもを呼ぶという約束をした矢先にこれだった。

 約束を破ってしまいかねない恐怖と、声が届かない恐怖が梓を襲う。

 既視感を覚えるこの空間にいることで芽生える不安は増大する。

 狼はいずれ現れるだろうし、今回は運悪く狼の飼い主がやってくるかも知れない。あるいはたくさんの魔物や妖怪がかかってくる可能性だって否定できない。


 恐怖にすくみあがる足を叱咤し、頬を手でぱんぱん叩いてみる。


(よ、よし!)


 まだ怖くもあるが、立ち止まっていても何も始まらない。梓はここから出る方法を考える。


 ポケットの携帯電話は電源が切れている。

 入れ直そうとしても入らない。懐中電灯の代わりにもできなかった。


 幸いなことに、この空間はそれほど暗くはない。

 足元に気をつけながら前方と思しき方向へ歩を進める。足音は反響せず、ただ落ちていくだけ。


 十歩ほど進むと景色が変わった。

 殺風景な薄墨の空間に、わずかな光がさしていく。


 上を見上げると、澄み渡る青空とふわふわした雲が広がっていた。


「わあ」


 夏を思わせる空に、梓は感嘆の声を漏らした。

 この空間の気温というものが機能し始め、初夏の暑さが肌に伝わって来る。


 空から視界を戻すと、地面の変化も見受けられた。


 音を響かせない、何でできているのかわからない床が、整備の行き届かない道路に変わる。

 でこぼこに盛り上がった地面が、梓の足によくなじむ。


 何もなかった周囲には錆びた道路標識が立つ。

 地面から雑草が生えてくる。見慣れた用水路も現れ、ご丁寧に水まで流れているようだった。


 見覚えどころか、常に見慣れた景色に、空間が豹変した。

 この変化に梓は戸惑う。肌と目は、ここが現実ではないと教えてくれる。幻の一種だろうか。


(かもさんの隠れたパワーで、家の近くまで飛べてるとか……違うよね?)


 一瞬だけ楽観視してみたが、ありえなさすぎてその考えを断ち切る。今までほどいた呪詛の中に、第三者を特定の場所へ瞬間移動させるような術はなかった。


(とにかく……進むしかない、かあ)


 梓は再び歩き出す。現れた場所は、梓の家近くの道路である。

 てっきり自宅もあるかと思ったが、梓の家どころか民家という民家は幻覚にさえならなかった。


 二十歩進んだところで、梓はまた歩を止める。この空間の景色は見慣れているはずだが、同時に懐かしさが強く残る。


(何だか、昔に戻ったみたいだ)


 梓は空を仰ぐ。日差しが優しく照らしている。

 眩しさに目を覆いながら、物思いにふかっていたくなる。そんなのんびりした考えをすぐに掻き消し、また歩き出す。


 出口はどこなんだろうか。そもそもここでの出口はどこになるんだろうか。

 見慣れすぎた景色のせいで、ゴールがわからない。家がゴールであればいいのだが、その家はここにはない。

 用水路に沿って歩いていくと、分かれ道にたどり着いた。家から出かける時は、いつも必ず左側の道を進んでいった。


 ならば今回は右側を行ってみよう。梓は方向を変える。


(夏ごろは、お母さんと一緒にいたなあ。ここに、お母さん、いるのかな)


 無意識にそんなことを考え、すぐに断ち切る。


(違う違う! お母さんはもういないんだから! ……おかしいな、わたし、まだお母さんが恋しいのかな……?)


 母は昔に死んだ。そしてすぐに折り目をつけたはずなのに。


(恋しいなんて思わない。もう決着がついたことなんだから)


 急に襲う懐かしさを必死で振り切る。母を振り返ったら、今までの全てが台無しになる。死んだ母を思い続けていても意味はないことを梓は知っている。


 だがそれを嘲笑うかのような空間が、ここにはできていた。


「梓」


 後ろで声がした。

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