丹塗りの矢、拾いました。
木々が緑で生い茂る季節になったその日の放課後、弓削梓は丹塗りの矢を見つけた。
見つけた、というよりは見つけられたと言うべきか。
学校からの帰り道、スーパーに寄ってちょうど特売だった肉と野菜を買って、真っ直ぐ帰路につく途中の用水路でのことだった。
あと五分もしないで家だ、というところで、梓は奇妙な声を聞いた。
「おーい」
はたと足を止め、梓は周囲を見回す。左右に首を振ると、腰まで届く黒髪が揺れた。
「おぉーい」
若い男の声がする。しかし、梓の周りに声の主らしき人は見当たらない。
彼女の家周りは田んぼだらけで道路の整備もままならない。外灯も点滅をしてしまいには消える始末で、民家も数えるほどしかない、田舎じみた地域である。
梓の覚える限りで、ここに住む若い青年というのはいなかった気がする。
「こっちだー。下、下だよしたー」
暢気な男の声が続いた。周囲に梓以外誰もいないから、やっぱりこの声は自分を呼んでいるんだ。
「……した?」
「そうそう下ー。もっと詳しく言うとドブん中だな。……そうそうこっちこっち」
梓は下方へ視線を移動させる。
目をとらえたのは幅五十センチほどの小さな用水路だ。小学校の頃は、ここで父親と一緒にザリガニを釣っていた。
水路の中に漂う草に、紅の棒状の何かが引っかかっている。水路へ落ちないように用心しながら覗き込むと、それは真っ赤な矢だった。
「そう! ここだお嬢さん! 俺だ、俺が呼んだんだ!」
「……えっと」
「いやー奇跡だ! 半日ぐれー声出してんのに道行く人々は誰も気づきやしねー。喉が枯れて声も出なくなる一歩手前だった! おっと積もる話はあとにするから、お嬢さん俺を助けてくれ! 寒くて死にそうだ」
声が枯れそうだと言う割には、その矢はよくしゃべった。
頼むよー、と必死にこいねがう矢を見て、梓は一旦鞄と買い物袋を足下に置いた。
喋る矢なんて、聞いたこともない。空想の世界であれば一本くらいは見つかるのだろうが、この現実に存在するとは思わなかった。
だけれど梓は大した驚きもなく、言われた通り矢に手をのばしてやった。
「うぅーん……! あと、少し」
「がんばれお嬢さん! ただし落っこちるなよ! 春とはいえまだ水ン中飛び込んだら風邪をひいちまう」
「は、はい……っ。よい、しょ……っ!」
一生懸命伸ばした右手が、矢の羽根に触れた。
びしっと指先をさらに伸ばすと、中指と人差し指でわずかに矢を挟むことができた。慎重に引き上げた矢は、水草に絡まっていた。
「ふいー助かったー。恩に着るぜお嬢さん。礼に、そうだな……あんたの家の繁栄を約束してやろう」
「あ、ありがとうございます……」
絡まった水草を丁寧につみとりながら、梓は喋る矢をじっくり観察してみた。
その矢は、棒部分が紅に染まっていた。対して羽根は白色で、互いの色を引き立たせている。
「ふいー優しいお嬢さん、あんたは矢が喋ってても対して驚かないのか。見かけによらず肝が据わってるねえ」
「え、はい。昔はこういうの、よく視えていたので」
「ほお、視えてたっつーと何か? 幽霊とかオバケとかと仲よくしてたのかい?」
「うーん、仲よくはわからないんですけど、確かに視えてました。今はそうでもないんです」
「なるほどねえ」
微動だにしない矢はやけに饒舌だった。
幼少時、梓は人間ではないものを視ることができた。
幽霊であったり妖怪であったり、時には八百万の神々の一柱と会話したこともある。
中には悪戯目的で梓に危害を加える者も少なからずいた。
が、ほとんどは友人として好意的に接してくれていた。
周囲の友達からは「変な子」と言われたこともあったが、両親はそんな自分を気味悪がらず、普通の子として育ててくれた。だから周りからなんと言われても気にしなかった。
その場所には、明らかに誰もあるいは何もない。
なのに『其処』にいる何かと会話をしている娘を見て、父も母も驚くだけで怖がらなかった。
『梓、誰と喋っているの?』
母にそう聞かれたことがある。確か幼稚園の頃の夏だった。
くすんだ着物の男の子が、道端に棒きれで絵を描いていたのに興味をそそられ、混ざったのだ。雷をよく描く子だった。
『知らない子。あのね、絵がとってもうまいんだよ』
『そうなの……? お母さんには視えないなあ』
『視えないの? でもそこにいるよ』
首を傾げてそう言う娘を見下ろしていた母は、今にして思えば何かに気づいたんだろう。
その何かといえば、梓の『視える』力だ。母はずっと察しがよく鋭かった。
『ふうん。……うふふ、いいなあお友達。お母さんにも視えたら混ぜてもらえたのになあ』
『そうだね、お母さんにも、絵を見せてあげたいなあ』
その頃の梓には、異質さに自覚がなかった。
路傍で絵を描く着物の少年だけではない。頭に角を生やした子供や全身緑色で手にひれのついた生き物、白い狐に三本足の鳥などなど、現実世界に存在するはずのない者と言葉を交わすのは、大して不思議なことではないと思っていた。
母と同じように父もまた、梓の視える力を知った。
だが恐ろしいとか気味が悪いとか、そんなことは一度として言わなかった。
『そうか、梓には、そこに白い狐さんが視えるんだね』
『うん! 白くてきれいなんだよ』
『狐かあ……。お父さん狸は見たことあるんだけど、狐はないんだよなあ。今も視えないんだ』
『そっか……』
『どんな狐さん? 白くて、それから尻尾はどうかな? ふさふさ?』
『ふさふさだよ! 梓には特別だ、って触らせてくれるの』
『いいなあ、お父さん狐のしっぽに触るのが夢だったんだ。今視えてたらなあ』
どうして自分の視える力に対して、後ろ向きな言葉を一つとして使わなかったんだろう。
梓の記憶では、両親に避けられたことがない。
それどころか、当たり前のように両親の愛情をもらっていた。
視える力に対して、自分がさほどコンプレックスを抱かずに成長できたのは、そういった両親の姿勢があったからなのだろう。
幼稚園でからかわれることはあった。お化けが視える、というのは、そういった対象になりやすい。
同時に、そんな梓を友達として見てくれる子もまたいてくれた。先生には変な目を向けられていたけれど、同じ年の子供からは向けられなかった。
そういう恵まれた環境もあってか、梓は視えるはずのない者達を視つけると、自分から混ざって共に遊ぶことをやめなかった。みんな梓を歓迎してくれていた。自分の視える力を、誰も否定しなかったから。
ただそれも、小学校に上がる直前までのことだった。小学校の入学式前に、ぱったりとそういった類のものたちが視えなくなった。
その心当たりはある。母が突然事故死したからだ。小学校に上がる直前のことだった。
十年以上経った現在でも、視える力は失ったものだと思っていた。
だからなのか、喋る矢と会話している自分に、力が戻っているんだろうかと考えている。
「うーむ。不思議な子だな。視えなくなっちまったのはもったいないこった。……でだ」
矢が話を切り出す。
「俺を助けてくれたお礼に、お嬢さんの家を一生繁栄させてやりたいとこだが……問題があってな。今の俺にはそれができんのだ」
「いえ、お礼なんていいですよ」
「何て謙虚な! 俺をこんな目に遭わせた野郎も見習ってほしいもんだ!」
「あの、そんなことないです……」
「そう自分を卑下しなさんな。誇っていい性格だ。ま、驕りすぎにはご用心だけどな」
「はあ……。えっと、それで、矢さんをこれからどうすればいいですか? 持って帰っていいんですか? それとも交番に届けた方がいいんでしょうか」
「ああ、交番はなしで頼む。いや俺が前科もちってワケじゃないかんな? 行っても意味ないんだ。たぶん、この辺で俺を視れるのはお嬢さんしかいない」
「わたし?」
「そ。何を隠そう、この俺は由緒正しい神だからな。残念ながら普通の人間には視えない。むろんご近所の交番づとめのおっちゃんにも視えやしないさ。というわけでだ、お嬢さんの家に泊めてもらえるととても助かる。いやなに、やましいことはしないさ」
矢は明るくまくしたてる。
頼むよー、という若干舐めた猫なで声で梓にすり寄ったり、平気平気、と朗らかに語ってみせたり、とにかく梓に連れて行ってもらいたがる。
喋る矢は梓にしか視えない。おそらく父には視えないんだろう。
だとしたら、自分の部屋に持って行って、棚にきちんとお祀りすればいい。いや神棚にだろうか。
そもそも、この矢は男なのか女なのか、それとも性別自体持っているんだろうか。声は若い男のものに聞こえる。
「……あれ?」
矢をつまんで悩んでいると、梓はふと、矢に絡みついている白い糸に気づいた。
矢の全身をぐるぐると、無数の糸が絡みついている。
昔、近所のおばさんが複雑に絡まった毛糸をほどこうと頭を抱えていたのを思い出す。
「これは、何ですか?」
「これって、どれ?」
「あの、白い糸……? みたいなものがぐるぐる巻きになってるんですけど、これも矢さんの一部ですか?」
「糸だと? お前さん、糸も視えてるのか?」
「白い糸ですよね。視えますよ」
「本当か!? ならこれをできるかぎり全部解いてくれ!」
「えぇ? 解いちゃって、大丈夫なんですか?」
「大丈夫大丈夫! 全力でお願いします! お嬢さん、あんたは俺が見込んだ以上の才能がある! やっぱ一族繁栄じゃ足りねえ、この辺一体の厄という厄をとっ祓ってやろう。いやそれでも足んねーな……」
「いえ、その、繁栄はいいですから……。あっ、一本取れました」
「何と! さすがだお嬢さん!」
矢は興奮気味に声を荒げていた。
梓が指先で器用に解いたそれは、毛糸ほどの細さを持った糸であった。
純白のそれは光にかざすと透き通り、きらきらと輝いている。
長さは十センチほどと短く、矢に絡みついた糸は、どうやらその十センチほどの糸がいくつも絡んでいるようだった。
指先から、びりびりとした感覚が伝わる。静電気ではない。
自分が無造作につまんでいるのはおこがましいほどに、神々しさを秘めている。
「これは」
「そいつは俺が矢にならざるを得なかった元凶だ」
突如、矢の声が低くなる。
もしも矢に目があったのなら、さぞや憎げに糸を睨んでいただろう。
「元凶? 矢さんは、もともとは矢じゃなかったんですか?」
「そう。聞いてくれよお嬢さん! 俺は由緒正しい神なんだぜー? 人間たちを正しさや勝利に導く、強い神なんだぜー? なのに高木……あ、俺をこんな目に遭わせた野郎な、調子乗りすぎっつって俺にこんな呪縛かけやがったんだよ」
「はあ、えっと、大変でしたね……」
「本当だよ! ったく、呪縛が全部解けたら、いっぺん奴はウチの川にぶち込んでやんねえとな」
己の境遇を大げさに矢は語る。梓はただ疑問も挟めず、相槌を打っていた。
この矢が言うには、自分は神だという。そして性格の問題があってか、高木という誰かの手によって、矢の姿に変えられた。
およそ、人間の世界には常識的にありえない存在なのが、このしゃべる矢である。
だが梓は、そういった常識外の存在を遠い昔に観ていたから、自分でも驚くほどあっさりと受け入れることができた。
とはいえ、矢の話をいったいどこまで信じればいいのか、はかりかねていた。
矢は自分を神と言っている。日本の神はたくさんいるから、どの神なのかはわからない。
そもそも本当に神なのかも信じがたい。矢なのだから。
「あっ、さてはお嬢さん、俺を疑ってるな? 俺は嘘ついてねーぞ。まあ大げさにコトを話すけど」
「それって嘘とどう違うんでしょうか……?」
「嘘は事実無根、大ゲサはおおよそ合ってるってとこだろな」
「うーん、わたしには違いがよくわかりません……」
「細かいことはいいっこなしだ! 詳しい話はちゃんとするから……」
矢がそこでふっと言葉を切る。さっきまでの饒舌が嘘のように静まり返る。
「あの、どうかしたんですか……?」
「お嬢さん、すまねえな。ちょいと野暮な連中が来ちまったみたいだ」
暢気で飄々としたさっきまでの表情(矢にそんなものがあるとすれば)ががらっと変わる。
声が低くくぐもり、梓が気づかぬ来訪者を威嚇しているようにも思えた。
梓はふっと目の前を伺う。
そこには毛並美しき、大型の犬とおぼしき者がすいっと立っていた。
整えられた青い毛に、鋭さを帯びた黒い目、地にしっかりと四本足を立て、静かにこちらを見据えている。梓と目が合った。
「こりゃ参った」
「あの子は……」
「気をつけろ。あれは犬じゃねえ。いやイヌだけど」
「どっちなんですか」
「ありゃオオカミだよ。しかも眷属ってやつだな」
「ペット?」
「そう。人間が飼う犬猫とは違う。あれは俺ら八百万の神々の使いでな。神の傍につかえてるぶん、それなりに力もある。ま、俺らには及ばねーけどな」
ふんっ、と矢が鼻で嗤う。どうやら、矢は自分を神だと称して揺るがないようだった。
梓は恐る恐る狼の様子をうかがう。静かにこちらを見守っている狼には、少なくとも害意はなさそうだった。
ふわっ、と一瞬だけ尻尾が揺れた。
「へんっ、どうやら奴はお嬢さんに用があるみてぇだな」
「わ、私ですか? 私、あんな大きな狼さんは知らないです。……いえそれより、オオカミって確か絶滅したはずじゃ……」
「ここではな。だけど神々の世界じゃ普通に生息してんぞ。特にこの地方にはまだまだ相当数いる」
矢をぎゅっと握りしめながら、梓は青い狼から目をそらさない。
獲物だと思われないよう、しっかりと気をはる。
すると、狼が静かにこちらへ近づいてきた。その足取りはゆっくりとしており厳かだった。
座り込んでいる梓は急に立ち上がることもできない。
噛みつかれる? いや引っ掻かれる? と不安になりながら、せめてもの抵抗で睨んだ。
心臓が跳ね上がる。手が少し震えて足がすくんでいた。
青い狼は、恭しく頭を下げる。敵意はないにしても、変わらず油断は禁物だ。
「お迎えに上がりました」
狼は、そんなことを告げた。