八十七話 練習と雨の日
フィシリスの家は、大物釣りの装置から歩いて数分ぐらいの、町外れにあった。
外観は、引き戸の納屋のような、木製の小さいボロ家だ。
周囲には草が伸び放題で、野生動物が住み着いているのか、小さな影が動いているように見える。
そんな廃墟一歩手前の家に、フィシリスは簡単な鍵がついた戸を開けて、中に入った。
「ほら、なに突っ立ってんのさ。入った入った」
「えっと、おじゃまします」
招かれて家に入ると、中は人が三人も入れば窮屈に感じそうなほどの狭さだ。
中心に囲炉裏みたいな煮炊きする場所に鍋と白い灰があるし、漁具が入った篭が片隅に置かれているから、狭さをより感じる。
左右の壁には長椅子が一つずつあり、寝台代わりなのか、その上に毛布が畳まれて置かれていた。
そんな殺風景に過ぎる内装なので、女の子の家というよりも、漁師の作業場って感じを受ける。
あんまりジロジロと見すぎたのか、フィシリスがムッとした顔で俺を長椅子の片方に押しやった。
「大物釣りの装置にかかりっきりだったからねえ。ここには綱を巻き上げた後に寝に戻るぐらいしか使ってなかったんだよ。まあ、お爺ちゃんと住んでいた頃と、大して代わりはないんだけどさ」
弁明するように、気恥ずかしそうな顔で、フィシリスは説明してくれた。
仕事が忙しかったんなら仕方がないかなと思いつつ、女の子っぽい内装じゃなくて安心もしていた。
前世のドラマであったような、ピンク色の内装や、クッションやぬいぐるみだらけだったら、居た堪れなくていられなかっただろうな。
もっとも、この世界にそんな内装が実現できるかは、知らないけど。
「さて。それじゃあ、生活用の魔法を使う練習をしようか」
「おうさ。といっても、もうあたいのココに、魔力の塊があるってのは、ちゃんと実感しているよ。だから次の段階に進んで欲しいねえ」
フィシリスは言いながら、自分の右胸に親指をつける。
慎ましやかな胸元に指の先が沈み込んでいる光景を、俺は無視して次のステップの話に移ることにした。
「それじゃあ、その魔力の塊を、回してみて」
「回すって、これをかい? 体の中にあるものなのに、動かせるのかい?」
「それが、動かせるんだよ。不思議に思うかもしれないけどね」
詳しい説明をするために、俺は囲炉裏に残っていた黒い炭の欠片を手に取り、そして両手で包み込む。
「この炭が魔力の塊だとするでしょ。その周りには、俺の包んでいる手のような、壁になるものがあるんだ。動かせるのは、この炭の部分だけで、手の部分は動かせない」
正確に言うと、俺の魔貯庫の壁は伸び縮みできるのだけど、他の人はそうではない可能性が高いので言わないことにした。
「そのことを注意して、魔力の塊を回転させてみて」
「ふんふん、そういう理屈なのかい。要するに、胃自体じゃなくて、中にある食べた物を回転させるような感じってことだろう。なら出来そうだねえ」
フィシリスなりに理解してくれたようだ。
彼女は目を閉じて腕組みし、うんうんと唸りながら、魔塊を回転させようとし始める。
俺が魔法を教えてもらったとき、外からはこんな感じに見えていたのかなって、ちょっとだけ懐かしい想いを抱く。
十分ほど経過して、フィシリスは腕組みを解いて、肩がこったかの腕を回し出した。
「はー、駄目だ。ピクリとも動かせないよ」
「練習する時間はたっぷりあるんだから、ゆっくりやっていこう。あと回転させる方向は、人によって得意な向きが違うらしいから、色々と試してみるといいと思うよ」
「そうなのかい。なんとも難儀だねえ」
フィシリスは軽く息を吐くと、もう一度魔塊を回転させようと試みる。
この日は夕暮れまで練習をしていたけど、結局は動くことはなかったようだ。
次の日、フィシリスが予報していた通りに、外は雨になった。
朝は小雨だったけど、昼からは雨脚が強まったみたいだ。
幸いなことに、ボロ屋なフィシリスの家だが、雨漏りはしていない。きっと屋根だけは、ちゃんと直したりしていたんだろうな。
そんな雨脚が強まる前の朝のうちに、フィシリスが港の海から海産物をどっさりと獲ってきたため、今日明日の食事には困りそうにない。
俺も朝の内に家の裏に積まれていた薪を多く中に運び込み、鉈で割ってから煮炊きに使うことにした。
もともとは火のついた薪の上に、直に鍋を置いていたらしいけど、それだと不安定だ。
なので、簡単な作りの持ち運びできる小さい竈――要は大きな七輪っぽい物を石で作って、それに置くことにした。
作るのは、ここ最近でおなじみとなったアラ汁。
入れる魚の種類や海草の違いで味が変わってくるので、作り続けているけどなかなか飽きない。
汁を残しておいて、買った沼麦こと長粒米を入れて炊いて食べると、二度美味しい。
そんな食事が終えて、フィシリスの魔法の練習を再開する。
相変わらず、魔塊を回転できそうな気配はないそうだ。
あまり根を詰めすぎても、いい結果が出ないだろうから、ときどき休憩を挟んでいく。
そんな休み時間の間に、俺は雨脚が強まって家の中まで雨音が聞こえてきた、外の事が少し気になった。
「こんな雨の中、あの男の人たちは、大物を釣ろうと奮闘しているんだよね。大物釣りの名人のフィシリスさん、釣れると思いますか?」
インタビューのような感じで聞くと、フィシリスに笑われてしまった。
「ぷくくっ。なんだい、いきなり畏まってさ」
「あ、ごめん。変だった?」
「いいさ。笑わせてもらったし、冗談だって分かっているからね」
フィシリスは笑いを治めてから、思案顔に変わった。
「そうさねえ。あたいはお爺ちゃんから、雨の日は釣りは止めろって言われていたねえ」
「そうなの? それはまたどうして?」
「装置は崖を利用した作りだからね。海や綱の調子を見ようと崖を上っていくときに、濡れた地面に脚を取られて転んだら怪我をする危険があるのさ。あとは海面が雨で荒れると、海の魔物は少し深く海に入ってやり過ごそうとするって、お爺ちゃんが言っていたねえ」
でもそうなると、いま大物を釣ろうと奮闘している人たちは、無駄骨なんじゃないかな?
そんな俺の考えが透けて見えてしまったのか、フィシリスは少し機嫌を損ねた顔をする。
「あたいはね、意地悪でアイツらに装置を貸したわけじゃないんだよ。怪我は注意すれば防げるし、居場所に針と浮きの長さを調整するのは漁師なら当然やることさね。それと時化のときのほうが、獲物がかかるってのは海の常識でもあるんだよ」
「それってつまり、危険を覚悟して、適切な海の深さに仕掛けを置けば、晴れているときよりも大物がかかりやすいってこと?」
「この方法は、あたいが幼いころに考えたものだ。けど、お爺ちゃんは可能性があるって言ってくれたよ。もっとも、無理に雨の日に釣ろうとするよりも、晴れた日に大物を釣れるようになれって、怒られちまったけどねえ」
きっと、フィシリスが危ないことをしないようにって、お爺さんは注意したんだろうな。
種族が違っていても大事にされていたんだろうなって、フィシリスの慕いっぷりからよくわかる。
ちょっとだけ気持ちが温かくなったけど、もうそろそろ休憩は終わりだ。
「さて、じゃあ練習再開といこうか」
「おうさ。今日こそは、魔力の塊を、ぐるっと回してみせるよ!」
なんて意気込んでみせたフィシリスだったけど、この日も回転させることは出来なかったのだった。




