二百九十話 兄の許嫁と魔法の先生
俺が粗方有力な魔物を屠り続けたかいもあり、次の森の主が選定されるまで長引きそうで、荘園にまで魔物が進出してくる様子はなくなった。
ブロン兄さんが計画している開拓規模に必要十分な木材は森から切り出したし、鍛冶奴隷の二人の世話も終わった。
これ以上、俺がお節介する必要はないだろう。
明日にでも荘園を出ようという計画を、テッドリィさんとイアナとテントの中で喋っていると、こちらに走って近づいてくる人の気配がした。
大変に慌てている様子だったので、素早く周囲の気配を探るが、森から魔物や動物が来たような雰囲気はしてこない。
どうしたことかと三人で首を傾げていると、テントの出入り口に垂れる幕の向こうから、奴隷の人らしき声がやってきた。
「バルティニー坊ちゃんに伝言があってきたのですが」
なんだろうと外に出てみると、マカク兄さん派――開拓済みの畑で働いている奴隷の人だった。
「どうかしたんですか?」
「マカクさんの許嫁さんが、ヒューヴィレの町に到着したっていう先触れがきたと、坊ちゃんに伝ろと言われまして」
「なんでそんなことを俺に?」
「坊ちゃんが旅立とうとしていると奴隷仲間で噂になってまして。それがマカクさんの耳に入ったようで。俺の許嫁に合うまで、旅立つのは延期しろと釘刺しする気だそうで」
「なるほどね。でも俺の顔なんて見せたって、兄さんの許嫁が喜ぶとは思えないんだけどなぁ……」
「それが、坊ちゃんのあだ名――二つ名というんでしたか。それを許嫁さんが知っていたようでして。そして、この荘園に出たゾンビの竜を坊ちゃんが倒したんだと、ヒューヴィレの町で噂になっているのを聞いたそうで」
「二つ名持ちで、次のオークションの目玉になるゾンビ竜を出品した俺に、一度会ってみたいってことか」
事情を理解したので、俺は奴隷の人に戻っていいと伝えてから、テントの中に戻った。
俺たちの話は聞こえていたようで、テッドリィさんとイアナは苦笑いしている。
「次から次へと予定がきて、出立が伸びちまっているねえ」
「顔合わせするだけですし、すぐに用事を終わらせて旅立てばいいんですよ。バルティニーさんだって、ここに長々といる気はないですから、それでいですよね?」
「それで構わないけど――」
了承しようとして、マカク兄さんの許嫁に、ソースペラが同行していることを思い出した。
そして彼女が、魔導連盟の中心部へ返り咲きを狙っていることも。
「――なんだか嫌な展開になる気がするなぁ」
マカク兄さんの許嫁が来るのが、なんだか億劫に感じてしまう俺だった。
先触れから三日後。
マカク兄さんの許嫁がいるらしき数台の馬車が、ゆっくりと荘園にやってきた。
馬車の上には嫁入り道具っぽいものが積まれていて、盗賊を警戒しているようで通常より多めの人数の護衛がいる。
彼女と彼らを出迎えるのは、一張羅に着飾ったマカク兄さんと、清潔感がある真新しい服装に身を包む父さんと母さんだ。
その姿を、俺とテッドリィさん、イアナ、チャッコが、旅立つ準備を終えた格好で、少し遠間で眺めている。
ちなみに、ブロン兄さんは「使用人になった俺が出迎えるのは変だ」と参加を拒否して、土地の開拓に精をだしている。
さて、荘園の中へ入ってきた馬車の一台の扉が開き、人が降りてきた。
それは、地味目の服装をきた三十代の女性。
彼女がマカク兄さんの許嫁かと一瞬思ったが、その顔立ちに見覚えがあった。
「ソースペラか。ということは」
彼女が差し出した手を握り、もう一人の女性が馬車から降りてくる。
少し巻き気味の明るい茶色の髪を首元でまとめている、年齢は二十歳に届くか届かないかの、美人ともブスとも言えない普通の顔立ちをしていた。
その女性は、着飾ったマカク兄さんを見ると、少し不安そうだった表情が一変して、花開いたような笑みを浮かべる。
顔立ちが普通だったせいか、その満面の笑みはより魅力的に映る。
少し気障な言い表し方をするなら、力強く咲いた名も知らぬ野花ような笑顔美人といったところだろうか。
その笑顔の美しさは、俺の隣でみているテッドリィさんも驚いたようだった。
「こりゃあ、男が好きそうな女だねえ」
思わずという感じに呟いたような言葉に、俺は首を傾げる。
「そんなに美人だって顔じゃないと思うけど?」
「バルティニーもまだまだだねえ。ああいったありふれた顔が放つ笑顔は、美女の微笑みに厄介なのさ」
「そうなの?」
「地味な村娘が放つ無垢な笑顔にやられて、冒険者を止めてまでその娘と結婚したっていうヤツはごまんといる。その笑顔を自分だけに向けてくれるなら、竜すら倒してみせるって、求婚した馬鹿も知っているよ」
マカク兄さんの許嫁の笑顔が魅力的かは、実のところ、俺にはよく分からない。
けど、愛しい人の笑顔を見たいという気持ちだけはわかる。
「テッドリィさんも笑顔がとても魅力的だから、見惚れるって気持ちはわかるかな」
「ちょっと、急になに言ってくれてんのさ」
機嫌を悪くしたように逸らしているけど、テッドリィさんの顔が赤いのは隠しきれていない。
恋人の初心な反応に気を良くしていると、イアナが変顔をしている姿が目に入った。
「……なにしているんだ」
「へ? いえ、あの人と同じような笑顔を練習してみようかなと思いまして」
「誰か狙っている相手でもいるのか?」
「いませんけど、笑顔一つで恋人が作れるなら、練習する他ないじゃないですか」
「悪いことは言わないから、あの笑顔を真似するのは止めておけ」
「むっ、どうしてです?」
「イアナの笑顔からは、純真さを感じられないからだ」
「ひどい!」
打ちひしがれた様子になるイアナだが、どこか自分でも純真ではないことを悟っているのか、気落ちしているという感じはしてこない。
けれど、言葉がきつすぎたかなと、俺は反省した。
「イアナの魅力は、純真さじゃないだろ」
「……じゃあ、どこです?」
「良し悪しを歯に衣着せない、素直なところだろ。あと、憎まれ口を叩きながらも、なんだかんだ頑張り屋なところだな」
「むぅ。それっていいところなんですか~?」
イアナがむくれてしまい、フォローに失敗したようだ。
ヒューヴィレの町に戻ったら、美味しいものでもおごるかなと計画していると、こちらに向かってくる視線を感じた。
発生源に目を向けると、マカク兄さんに寄り添う許嫁の女性から来ていた。
もう一つ、ソースペラからも。
俺が二人に目を向けているのを見取ったのか、マカク兄さんが手招きしてくる。
「それじゃあ、ちょっと行ってくる。二人とチャッコは、ここでちょっと待っていて」
一人で歩いて向かい、二メートルほど間隔を空けて、マカク兄さんの許嫁に向き合った。
俺が旅支度のままで武装しているからか、彼女に付き従う護衛が密やかに切っ先をこちらに向けている姿が目に入る。
ざっと位置と人数を確認し、そして彼らの強さを推し量って、無視することに決めた。
「初めまして、義姉さん。バルティニーです」
俺が姉と呼んだことが以外だったのか、彼女は少し目を見開いて驚くと、堪えきれなかった様子の笑顔を浮かべた。
「初めまして、マライディです。でも、あははっ。まだ許嫁の身ですから、姉と呼んでもらうには少し早いですよ。『鉈斬り』――いえ『腐敗竜殺し』のバルティニーさま」
俺のことを知っているという話は本当らしく、マライディさんは興味心がありありと分かる瞳をしていた。
「……その二つ名は初めて聞きましたね」
「それはそうでしょうとも。次のオークションの目玉を宣伝する人たちが、バルティニーさまにつけた二つ名ですから」
「あと、なんで俺に「さま」付けなんですか。しがない冒険者ですよ、こっちは」
「あら。有名な冒険者さまにしては、ずいぶんと謙虚なお人柄なのですね」
マライディさんは、意外そうとも不思議そうともとれる表情だ。
「私が生まれ育った荘園は魔物が森からよく現れるもので、水際で被害を防いでくださる冒険者さんに敬意を抱いているのです。それこそ、二つ名持ちのお方がくれば、ささやかにでも歓迎会をするほどですよ」
俺を警戒する護衛たちが、話に頷いている。
どうやら、マライディさんの荘園では冒険者への待遇はいいようだ。
そしてそんな土地で生まれ育ったから、彼女は二つ名を持つ冒険者に詳しくなったのだろうと理解した。
それならと話を続けようとして、マカク兄さんが間に入ってきた。
「バルティニー。マライディは長旅で疲れているだろうから、早めに家の中に案内したいんだが」
口ぶりと不機嫌そうな態度から、俺と許嫁が和やかに話していることに嫉妬心を抱いたようだと当たりをつけた。
「構わないよ。今日、荘園から旅立つ予定だから、そのまえに挨拶したかっただけだし」
「えっ、出ていってしまわれるのですか?!」
マライディさんの残念そうな様子に、マカク兄さんは複雑そうな顔をする。
許嫁を落胆させたくはないが、弟の俺に興味を抱かれるのは面白くないといった表情だ。
そうしてマカク兄さんが判断を保留している間に、横からソースペラが会話に割って入ってきた。
「お久しぶりですね、バルティニー」
「久しぶり、ソースペラ。なにか用?」
「ええ、用があります。あなたが、どうやってゾンビ化した竜を倒したか、教えていただきたいのです」
ソースペラのどこか挑むような目つきが気になっていると、マライディさんが急に笑顔になった。
「私もバルティニーさまの冒険譚を聞きたいです。どうやってゾンビ竜と戦ったのです?」
興味津々といった瞳は、マライディさんだけでなく、彼女の護衛の人たちからも向けられている。
話す分にはさほど手間じゃないので、掻い摘んだ状況を語っていく。
一通り語り終わると、護衛たちは茫然としていて、マライディさんは英雄譚を聞かされた男の子のように顔を輝かせていた。
「すごいです! ノームを一掃するために特性を利用してゾンビ竜に嗾けさせ、出張ってきたノームの総大将とゾンビ竜が戦い終わった後に、漁夫の利を得たなんて!」
鼻息を放ちながら興奮している様子に、俺は反応に困ってしまう。
その助け舟は、ソースペラという意外な方向からやってきた。
「ゾンビ竜の頭を半ば近く吹っ飛ばしたそうですが、それは魔法ですね?」
「ああー、そういえば。バルティニーさまは魔法をお使いになっているという噂がありましたね。本当なのですか?」
二人の言葉に、俺は信じてもらえないだろうと思いつつ、口を開く。
「使えますよ。ソースペラのような魔導師が使うものと違うらしいですけどね」
マライディさんは驚いてから、疑問顔になった。
「彼女がバルティニーさまの魔法の先生なのですよね。なのに、違う魔法なのですか?」
「大半が独学によるものですから。それに、ゾンビ竜を倒した魔法は、エルフから教えてもらったものですし」
「まあ、エルフ! 伝説上の生き物かと思っていたのですが、実在しているのですね」
「何十日も森林行をする必要があって、常人ではたどり着けない、森の奥深くに住んでいますよ」
「どんな場所なのですか?! お話のように、巨大な樹木の中を切り抜いたお家にすんでいるのですか?!」
見てきたままを伝えると、マライディさんは夢見心地のような顔になる。
嬉しそうな様子に安堵していると、ソースペラが口を挟んできた。
「エルフの名を持ち出すなんて、冗談にしても行き過ぎですよ。どうせ、ノームの親玉とやらがゾンビ竜と相打ちになったところに、都合よくあなたが出くわしただけでしょう」
俺のいうことをまるで信じていない様子だが、どちらかといえばマライディさんの反応の方が稀有で、ソースペラの考えの方が常識的と言わざるをえない。
「信じてもらえなくたっていいさ。冒険者の語ることの大半は、虚飾に満ちているってのが常識だし」
「……なんですか、その物言いは。魔法を使えるということが嘘だというのなら、魔導師の矜持を守るために見過ごせませんよ」
俺があっさりと引き下がったことが、逆にソースペラの怒りに触れたらしい。
昔と同じで、俺の言う事を信じようとしてない面倒くさい反応に、言葉で魔法を実際に見せてやることにした。
「魔法は使えますって。それも、生活用のものじゃなくて、攻撃用のものが」
言いながら、火、水、土、風の属性だと生活用のものと誤認される恐れがあるため、複合属性の魔法を選択する。
俺は腕を上に掲げると、魔塊から解した魔力を腕に通し、水と風の属性を与えてから混ぜ合わせた。
その途端に、テスラコイルのように、俺の手から出た稲光が周囲に飛んでいく。
この手の魔法を始めて見るのか、護衛たちは仰け反って驚き、ソースペラは頬を引きつらせ、俺の家族は腰を抜かしている。
しかしマライディさんは流石で、興味津々な目で詰め寄ってきた。
「それは、どれほどの威力があるものなのですか? どのぐらいのところまで届くのでしょう?!」
「えーっと、それじゃあ――」
俺は魔塊の魔力を足から地面に通して魔法を発動し、少し離れたところに、高さ二メートル厚さ十センチほどの一枚岩を地面から出現させた。
「――あれを打ち抜いてみますね。危ないから、少し離れてください」
「はい、お願いいたします!」
マライディさんが下がったことを確認してから、俺は魔力を少し多めに融通して、稲光の強さを上げていく。
そして岩を砕くのに十分だと判断したところで、雷の魔法を手から打ち出した。
至近で巨大な落雷が起きたような音が起き、目の前が真っ白になる。
少し電圧を上げ過ぎたかもと反省しながら、光にくらんだ目が見えるようになる。
標的にした岩は、上半分が破砕されていて、下半分の断面は黒く焼けてガラス状の光沢が生まれていた。
まあまあの威力に満足しながら周囲を見回すと、夢見心地そうなマライディさん以外の全員が、地面の上にひっくり返って、こちらに怯えた表情を浮かべていた。
意外なことに、ソースペラも同じだ。
「魔導師なんですから、このぐらいの魔法は、見たことがあるんじゃないの?」
「あ、ああ、ありませんよ! そんな非常識な魔法! なんですか雷って! なんですか、一つ魔法を使いながら、もう一つ魔法を使うなんて!」
「……複合属性とその応用だけど、できないの?」
「できたら、こんな場所に派遣されてません! というより、雷の魔法が使える人はいません!」
「エルフの人たちは平気でやってたから、魔導師の人も出来るものだと思っていたけど……」
魔導師が複合属性を使えるかどうかは、重要なことじゃないと割り切った。
「マライディさん、俺の魔法はどうでした?」
「それはもう、物語の中のような魔法に、胸がときめいてしまいました」
「喜んでもらえて幸いです。こんな場面で言うのも変ですけど、マカク兄さんのこと、よろしくお願いします」
マライディさんはハッとした表情をして、一張羅で地面に腰をつけているマカク兄さんを見てから、こちらに満面の笑顔を向けてきた。
「はい、任せてください」
元気のいい返事に、俺は逆に心配になり小声で尋ねる。
「……あんな情けない姿を見せている兄ですけど、いいんですか?」
「絵姿でみたときから、ちょっと自信がなさそうで可愛らしい人だなって思ってたので、想像通りで安心しました。逆に、バルティニーさんみたいに英雄譚に出てきそうな肝が太そうな人って、たまに会うぶんには楽しいですけど、一緒に住みたいと感じる好みからはずれているんです」
軽く舌を出して茶目っ気を見せるマライディさんに、蓼食う虫も好き好きという言葉が浮かんだ。
それにマライディさんは、雷の魔法を見ても腰を抜かさない豪胆さと、人の話を吟味して信じる聡明さを持っているんだ。
少し抜けているように感じるマカク兄さんを尻に引いて、上手く付き合ってくれるだろう。
なんの問題もないな。
「それじゃあ、俺は仲間と一緒に荘園からでて、旅暮らしに戻ります」
「わかりました。きっとひとところに長居できなくなっているでしょうけど、道中お気をつけて」
マライディさんの意味深な言葉に首を傾げながら、俺はテッドリィさんたちを手招きしてから、荘園の出入り口へと向かう。
腰を抜かしている人たちを追い抜いて少しして、まずチャッコが、続いてテッドリィさん、イアナの順で俺と並んだ。
そのとき、イアナが俺に耳打ちしてきた。
「バルティニーさんに突っかかってきた女性が、なにか言ってますよ?」
耳をそばだてると、ソースペラが「雷の魔法を教えなさい」とか「魔導連盟に加入しなさい」とか言っている声が聞こえたが、無視することにした。
俺は、願いを聞き届けていいと思うほど彼女と仲が良かった覚えはないし、利益を考えてやるほど魔導師という人達に好感情を抱いていない。
無視した結果、ソースペラが魔導連盟とやらに俺のことを伝えて、面倒事がやってくるかもしれないが、そうなったらそうなったときに対処すればいいのだから。
if――巨大荘園の主 (ある人物の性格を改変しています)
雷の魔法によって、腰を抜かした面々の中で、一人だけ立っている人――マライディさんがこちらに詰め寄ってきた。
「私が待っていたのは、あなたのような冒険者です。私と結婚してくださいませんか!」
いきなりな求婚に俺は目を白黒させた。
「いや、俺には恋人がいるから、マライディさんと結婚は――」
「では、二号さんでも構いません。むしろ、強い冒険者でしたら、愛人や妾の二人や三人、居る方が自然ですから!」
訳の分からない建前に対する答えに窮していると、マライディさんが話を進めてしまう。
「どうせですから、この荘園もあなたのものにしてしまいましょう。あの程度の魔法で腰を抜かすような人は、魔物との戦いが待つ、魔の森近くの荘園の主に相応しくありませんから!」
マライディさんが手を振ると、彼女の護衛の人たちはハッと我に返った顔をする。
きっとあの人たちが止めてくれるだろうと思っていると、その予想に反し、次の瞬間には護衛の人たちは腰を抜かしたままのマカク兄さんと俺の両親を捕獲していた。
俺が驚愕で制止をするのが遅れている間に、マライディさんはにこやかな笑顔で、腰を抜かして動けないマカク兄さんの股間を踏んづける。
「ねえ、私の『元』許嫁さま。あなたの弟さまに、この荘園を譲ってはくれないかしら?」
「なっ、そんなこ――おへ! おぉぅ~~……」
マライディさんの足がぐっと踏み込まれて、マカク兄さんは顔を青くしながら、言葉にならないうめき声を上げている。
「私の欲しい答えではありませんでしたね。もう一度同じ質問をしますよ。譲ってくださいますよね?」
「だ、だれが――おへおおぉぉぉぉぅぅぅ……」
気丈に言い返そうとした途中で、マカク兄さんは股間の痛みにあえいでしまう。
「また同じ質問をしますけれど、次が最後の猶予です。欲しい答えじゃなかったら、つ・ぶ・し・ま・す」
マライディさんが本気だと分かったのか、マカク兄さんは青ざめた顔で首を縦に振る。
「わかった。言う通りにする。だから、足をどけてくれ」
「そういってくださると、思っておりました。では、契約書に署名をお願いいたします」
にっこりと笑うマライディさんの手に、護衛の一人がすっと紙を差し出す。
それには簡略な契約書式ながら、この荘園の経営を俺に任せること、マカク兄さんは使用人として働くことが明記されていた。
マカク兄さんは一瞬だけ反攻する様子を見せるが、マライディさんの足に力が入ると、その意気が霧散してしまった。
「わかった。署名する」
そうして俺が止める間もなく、あれよあれよというまに、この荘園の主は俺ということになってしまったのだった。
あの衝撃の日からしばらくしても、俺は荘園の主となったとしても、冒険者を止める気はなかった。
そのことを告げると、テッドリィさんに続いて二番目の妻となったマライディは、笑顔で了承してくれた。
「私に子供を授けてくださって、森の開拓をある程度して下さった後でしたら、ご自由にして下さって結構ですよ」
「いいのか?」
「むしろ、その望みをいつ言ってくださるのだろうと、待ちに待っていたんです。ああ、冒険者として活躍する夫の留守を守る。なんと妻冥利に尽きる状況でしょうか」
俺に恋したといより、冒険譚の主人公と結婚したマライディの様子を見て、彼女に荘園の経営を任せることにした。
俺は求めに応じて、マライディが荘園の内部の統制を一年で掴み切るまでのあいだ、彼女との子作りに励み、子をなした。
マライディの攻勢に危機感を感じたのか、テッドリィさんもその期間に求めてくるようになり、マライディの前に懐妊したことは予想外の出来事だったな。
結局、赤ん坊の世話で三年ほど、俺は荘園に住み続け、森を切り開く毎日を送ることになる。
開拓資金については、ゾンビ竜を売り払った代金があるため苦労はせず、ちゃくちゃくと荘園の規模は広がっていった。
この期間、チャッコとイアナは近くの森へと出向き続け、かなり実力を伸ばしていた。
チャッコとの実力差が埋まって負けそうになった俺は、強敵を求めて、魔の森の奥へ出向くようになる。
別の領域の森の主を倒しては、また次を求める。
そうして主不在となった森を、マライディは大量にに買い込んだ奴隷を使って開拓し、さらに農地を広げていった。
あっという間に俺が荘園の主となって五年が経った。
このとき、荘園の農地は元の三倍となり、働く奴隷の数は五倍となっていた。
俺の知らない間に、増えた土地の管理者として、俺の二人の兄が任せられることに驚くと、マライディに笑われた。
「ブローマインさんは聡明かつ堅実な方で、こちらに味方する旨味を分かっています。マセカルクさんは、私の息のかかった女性と結婚させたので、動向は把握しています。なにも心配ないです」
そうなのかと疑問に思っていると、俺の子供二人が執務室に入ってきた。
片方はマライディとの子で男の子――バラディ。
もう一方は、テッドリィさんとの子で女の子――ティリア。
親である俺たちが振り回されるほど、二人とも活発だ。
「おとーさん、おとーさん、森につれてってよ!」
「チャッコと遊ぶの、家のなかだとせまいよ!」
俺にねだる二人の後ろに、少し疲れた表情のチャッコが現れる。
俺の子供たちは、物心ついた時からなぜかチャッコがお気に入りで、四六時中べったりとくっついている。
チャッコが逃げようとすると、走って追いかけるほどだ。
そのせいか、子供たちは幼子とは思えない体力と俊敏さがついてしまっている。
そして、子供たちがチャッコに懐いていることが、新たな問題を生み出していた。
マライディとの約束は果たしたので、俺はイアナとチャッコ、それにテッドリィさんが望めば彼女と共に、冒険の旅に戻ろうと思っていたのだ。
しかし、チャッコと離れたとたんに鳴き出す子供たちの存在が、その予定にブレーキをかけていた。
どうするかと考えていると、この状況を変えたのは、またしてもマライディだった。
「お父さんたちは、偉大な冒険者なのよ。こんな小さな荘園に閉じ込めていい人じゃないの。分かるわよね?」
マライディの腕力と関係のない恐ろしさを子供ながら理解しているのか、俺の予想に反してバラディとティリアはあっさりとチャッコとの別れを聞き入れてくれた。
「それじゃあしかたがない。でも、ぼくも大きくなったら冒険者になって、チャッコと冒険する!」
「ずるーい! わたしもわたしもー!」
「はいはい。わかっていますからね――うふふふっ。親子二代で偉大な冒険者になってしまったら、それこそ英雄譚の一幕みたい」
マライディの趣味に人生を捧げている様子に、俺は子供のことが不憫だが、冒険に戻ろうとしている俺にそう考える資格はないとも思った。
こうして、荘園の経営をマライディに任せて、俺は仲間と共に新たな冒険の旅にでた。
ありし日に、俺が冒険者になってあることを果たすと願った情熱を、いまから取り戻そうとするかのように。
――女傑の尻に引かれたバルティニー bad end