二百七十四話 荘園の変化
故郷の荘園までの旅路は、平原ゴブリンが五匹でてきた以外に、取り立てて大したことのないものだった。
そのゴブリンにしても、俺が先制攻撃でもって矢で三匹、チャッコが牙で一匹倒し、最後の一匹は良い訓練になると、新米たちに戦わせてやったほどだ。
いまさら銅貨何枚かにしかならないゴブリンの討伐照明は必要ないので、新米たちにあげたところ、大変に喜ばれて居心地悪い気分を味わったりもした。
何はともあれ、平和な道のりで、俺たちは荘園にやってきた。
その姿を見て、イアナが感心したような声を上げる。
「ほへー、これが荘園ですか。アリアル領にあった農耕の村とは違って、麦だけじゃなくて果樹もある見たいですね。それに、周囲を石壁で囲っているのは変わってますね」
「大した敵が出ないアリアル領と違って、ここは魔の森がすぐ近くにあるからな。魔物が滅多に森から出てこない場所とはいえ、用心のために囲いが必要なんだ」
そう言いながらも、俺は内心で、荘園にある石壁がこんなに低かったっけと首を傾げていた。
幼い頃は見上げるばかりだった石壁の頂点が、いまでは俺の視線の下にきていることに、俺は背の成長を実感する。
そんな感傷を抱きつつ荘園の門から中に入れば、そこには昔と変わらない風景が広がっていた。
成長が早くて味が少し悪い種類と、普通に成長して味よく実る麦とが、区画ごとに分かれて広がる麦畑。その向こうには、ワイン用のブドウが実る低木たち。
作物の間で畑仕事をする、薄着の奴隷たち。その傍らには、取水用の樽が置かれている。
数年ぶりの懐かしい光景に見入っていると、次に懐かしい声が聞こえてきた。
「お待ちしておりましたよ。あなたが新しい取引相手の、行商人ですね」
朗らかに聞こえる声に顔を向ければ、そこにいたのは荘園の跡取りになったという、マセカルクことマカク兄さんだ。
昔の記憶と比べて、やや体格が大きくなり、太ったと言えない程度に恰幅が少し増えたように見える。
マカク兄さんに出迎えられ、行商人は御者台から降りて頭を下げた。
「これはこれは、高いところに座っていて失礼しました。今日の取り引きを皮切りに、末永いお付き合いが寝返ればと思っております」
「それはこちらとて同じことです。この荘園の作物を、より高く買っていただけるのであるならばね」
軽い冗談の口調でマカク兄さんが告げると、行商人は苦笑いを浮かべた。
「あははっ。こちらも所属商会から、よしなにと頼まれていますのでやぶさかではありません。でも、作物の出来を見てみないことには、価格の設定をしようがないことは、お分かりくださればと」
「心配なさらないでください。もともと詳しい査定は作物を見て決めるという、契約でしたからね。おっと、立ち話もなんですから、事務所の方へ案内いたしますよ」
マカク兄さんは、すっかり荘園の主のような振る舞いが板についていた。
行商人も、マカク兄さんが取引相手として不足がないように感じているのだろう。愛想笑いを浮かべて、住居に併設された事務所へと向かって行った。
こうして取り残された俺を始めとする護衛や御者はどうしようかと顔を巡らすと、女性の奴隷数人が水の入った杯を持って近寄ってくる。
「旅路で喉が渇いているでしょうから、お水をどうぞ」
差し出された水を受け取る。
新米冒険者たちは「ありがとう!」と一気に飲み干すが、俺やテッドリィさんはまず味を確かめるように舌で触れ、少し唇を湿らせるだけに済ませる。
毒の兆候はないと判断して、イアナに飲んでも平気だと合図を送ってから、ゆっくりと三人で飲み干していく。
ちなみにチャッコは、奴隷の人が地面に置いた杯に、口どころか鼻すら近づけようとしていない。
きっと、自分より弱い存在から施されることが嫌なんだろうな。
飲み終えた杯を奴隷に返すと、静々と彼女たちは去って行く。
その後ろ姿を見ながら、俺は何とも言えない気持ちを味わっていた。
表情に出ていたのか、テッドリィさんが首に腕を回してくる。
「どうしたのさ。しみったれたような顔になって」
「見知った奴隷がいたんだけど、俺だって気付かなかったなって」
心情を吐露すると、テッドリィさんに笑われた。
「あははっ、そりゃそうさ。あんなチビガキが、こんなデカブツになるなんて、予想なんて出来るわけないじゃないか」
「……そういうもんか」
納得して気持ちを落ち着かせ、改めて周囲の様子を見ていく。
その際に、ある物が目についた。
それは農地のあぜ道に横に置かれた、スコップだ。
「あれで農具のつもりか……」
話に聞いた、鍛冶魔法が使える奴隷が作ったと思われるその農具は、あり大抵に行ってしまえば酷い出来だった。
形が歪んでいて農作業がしにくそうに見えるし、光を照り返す鉄肌の色がまちまちなことから材質が均一ではないことも分かる。
スミプト師匠があのスコップを見たら、作り直せと怒声を飛ばすぐらい、あり得ない品質だ。
あの様子じゃ、刈り入れ用の鎌がちゃんと切れるのか、怪しいと思わずにはいられない。
いっそのこと、鉄よりも鍛冶魔法で工作がしやすい、石で道具を作ったほうがいいんじゃないかと、要らぬお節介心が浮かんでしまいそうになる。
どうしたものかなと後ろ頭を搔いていると、遠くの農地から一組の男女が歩いてくる姿が見えた。
目を細めて詳細を窺うと、男性の方に見覚えがあった。
我が家の長男で、奴隷の女性と恋に落ちて荘園の跡継ぎを退いた、ブローマインことブロン兄さんだ。
隣の女性と仲睦まじい様子なことから、あの人がブロン兄さんの奥さんなんだろう。
二人は歩いてこちらに近づいてきて、俺たちを見回してから、なぜか俺に声をかけてきた。
「すみませんが、行商人の方は事務所に向かわれましたのでしょうか?」
他人行儀な物言いに、ブロン兄さんも俺だとは気づいていないようだ。
荘園の後継者争いでごたついている状況だと聞いていることもあり、俺は身分を明かさずに、護衛の一人として受け答えをしていくことにした。
「その通りですよ。なにかご用がおありなのですか?」
ブロン兄さんがチラチラと馬車を見ているので問いかけると、恥じ入るような顔が返ってきた。
「はい。頼んでいたものを、ちゃんと持ってきているか確かめたくて」
「行商人がいないときに、馬車の中身を他人には見せられないのですが」
護衛として当たり前のことを告げると、ブロン兄さんは声を潜めてくる。
「それは知っているのですけど。だからこうして、護衛の取りまとめ役であろうあなたに、話を持ち掛けているわけでして」
俺に近寄ってきたのは、そういう理由からか。
別に俺は、護衛のまとめ役ではないのだけれど、親族の情から譲歩できるぶぶんまでは譲歩してあげることにした。
「馬車の中を見せるわけにはいきませんが、なにを欲しかったのかあなたから聞いて、あるかどうかを俺が見てくることはできますよ」
ブロン兄さんが嬉しそうな顔をして、頼んでいたという物の列挙を始めた。
「水を貯める樽と井戸作りの資材と、根起こしの道具。あと、武器になり得る刃物と、この付近にはない作物の種です」
予想外の品々に、俺は疑問を抱いた。
「馬車の中を検める前に、どうしてそんなものが必要なのかお聞きしても?」
「私たちは、荘園の外縁部で新たに農地を開拓しているのです。それでどうせならと、新しい作物を作ってみようと。でも、現在ある井戸までが遠くて不便ですし、大昔に切った大樹の根が放置されていまして、開拓に難儀しているんです。それと、魔の森に近いため、防衛用の武器を欲しているんですよ」
土地を開拓しているのなら、ブロン兄さんが上げた品々は、確かに欲しいものだろうな。
「事情は分かりました。馬車の中を少し調べて見ますが……」
作物の種はともかく、井戸の材料を始めとする品々は普通とは違うものなので、馬車にあるのを見かければ気に留めるはずだった。
現に馬車の中を調べてみても、ブロン兄さんが語った品々の、影も形も見えなかった。
「申し訳ありませんが、仰られた物はこの馬車には積んでいないようですね」
「やはりそうですか。まったく、マカクのやつは。行商人をいきなり変えたかと思えば……」
ブロン兄さんは独り言を呟きながら、妻の女性と共に事務所へと向かって行った。
その姿を俺が黙って見送っていると、イアナが喋りかけてくる。
「いいんですか。あのままじゃ、喧嘩になるんじゃないですか?」
「意見を戦わせることは発展につながることだ。放っておいていい」
俺が言い放ってすぐに、事務所の方から騒がしい声が聞こえてきた。
それとほぼ同時に、住居から俺の両親ことマノデメセン父さんとリンボニー母さんが出てきて、慌てた様子で事務所へと入っていく。
二人が行ったのだから、すぐに済むだろうと思いつつ、ブロン兄さんが語っていたことが少し気になっていた。
この荘園の近くにある魔の森は、先祖代々魔物が荘園に入ってこない大人しい森――つまり森の主が『領域安堵型』の土地だった。
しかしブロン兄さんが武器を欲しているということは、森の主が『領域奪還型』に変わり、魔物が外へと出始めたことを指している。
嫌な変化もあったものだと思っていると、チャッコが耳を立てて、遠くへと目を向けた。
視線の先にあるのは、ブロン兄さんが歩いてきた方向にある、魔の森。
場所とチャッコの様子を鑑みるに、どうやら間が悪いことに、魔の森から魔物がやってきたようだった。