二百六十八話 チャッコとの模擬戦・前編
マインラ領から、アリアル領とは反対側の領地に抜けるように、俺たちは街道を歩いていく。
別の道を歩いているからか、食料を持って鉱山町に向かっているという行商には、出くわさなかった。
そうして、あと少しでマインラ領を抜けるというところで、先頭を歩いていたチャッコが脚を止めた。
チャッコは周囲の平らな野原に視線を巡らした後で、じっと俺の顔を見つめてくる。
どうやら、腕試しをこれ以上先延ばしにすることは無理のようだ。
「イアナ、テッドリィさん。チャッコと野暮用を済ませるから、休憩して待ってて」
俺は荷物と武器、そして毛皮の外套を二人に預ける。
離れ際に、イアナは心配そうな顔を、俺だけでなくチャッコにも向けてきた。
「あの、バルティニーさん。チャッコちゃんと、殺し合うわけじゃないんですよね?」
「単なる腕試しだって、道中でも言ってあっただろ」
「でも、けっこう危険なんですよね。それと、バルティニーさんが負けたら」
「チャッコが離れていくことは、本当のことだ。そういう習性があるんだ」
イアナは考える素振りの後で、こちらに真剣な顔つきを向けてくる。
「チャッコちゃんって、結構横暴な面がありますけど、面倒見のいい子なんです。ここで離ればなれは嫌ですからね」
「負けるつもりはないさ」
行った行ったと手振りでイアナを追い払う。
テッドリィさんは無言で頑張れと身振りしてから、イアナとともに少し離れた地面に腰を下ろした。
俺は周囲の地形を見回してから、チャッコと対峙する。
チャッコはすっかりやる気になっているようで、鼻ではなく口の端から吐き出す息が、冬の冷気で白くなって見えた。
外套を脱いでいる俺は、寒さに軽く身を震わせながら、腕試しを開始する合図代わりに喋りかける。
「チャッコ。戦うとりきめは、武器なし魔法なしでいいんだよな?」
「……ゥワウ!」
少し間があったものの、それでいいといった鳴き声がきた。
「それじゃあ、やろうか」
「ゥワ、ウ!」
返答もそこそこに、チャッコは四つ足を使って、こちらに飛び出してくる。
一層速さに磨きがかかっているが、あの森で戦ったときと同じく、こちらの顔面を狙って噛みついてくるようだった。
それならと、避けざまにチャッコの首を掴んでやろうと、俺は体と手を動かし始める。
「ゥワグ!」
俺の顔の横で、チャッコの顎が閉じ、歯が鳴り合う大きな音が耳に入った。
こちらが避けなかったら、致命傷になりそうな一撃だ。
けれどこの攻撃からは、俺なら避けてくるという、チャッコが抱いていた確信が伝わってきてもいた。
上々の評価のされ方に、俺は人知れず口に笑みが浮かびつつ、チャッコを抑え込もうと手を伸ばす。
しかし掴む直前に、チャッコは後ろ足でこちらの胸を蹴り、素早く手の届く範囲から離脱してのけた。
五メートルほどの距離を離して、俺たちは再び顔を向けあう。
「どうやら今の攻撃は、前と同じじゃないって、俺に教えてくれるためのものだったようだな」
「ゥワウ」
尻尾を軽く振りながらのチャッコの返答は、いまのは小手調べだと言いたげだった。
これは予想よりも大変な戦いになりそうだなと、俺は気持ちをさらに引き締めにかかる。
俺の意識が少し変わったことを見取ったのか、チャッコはすかさず走り寄ってきた。
今度は一直線にではなく、左右へじぐざぐに飛び跳ねながら、こちらを惑わせにくる。
「ゥワウ!」
行くぞとばかりに鳴き、チャッコはこちらに襲い掛からずに、俺の左の視界の外へ跳び入った。
体と共に顔を振り向かせば、こちらの脛にチャッコが噛みつこうとする直前だった。
「っ、この!」
足を引き上げて避けながら、踏みつけで攻撃しようとする。
だが避けている間に、チャッコは横に跳び退き、またもや俺の視界の外へ。
ここまでくれば、チャッコがどんな戦法を取る気か分かってくる。
「狩りでやる不意打ちを、俺の視界の外にでることで、再現しているってわけ、かッ!」
言いながら、居場所を予想して、俺は後ろ蹴りを放つ。
しかし、踵の先にチャッコの毛の先が触れた感触だけに、成果が終わった。
蹴りが空ぶった直後に嫌な予感がして、俺は足を引き戻すのではなく、前に飛び転がって場所を移動する。
すると、軸足があった場所から、チャッコの歯が噛み合わさる音が聞こえてきた。
悠長に蹴り足を戻していたら、軸足を咥え込まれていたところだった。
緊張感に背中に冷や汗が浮かぶが、気にせずに、起き上がりながら振り向く。
チャッコが追いすがってきているのを見て、振りむく勢いを利用して、回し蹴りを放つ。
「でやっ!」
「ゥワウ!」
チャッコは俺の蹴りを跳んで避けながら、俺の右手に噛みついて来ようとする。
慌てて手を上げて退避させる。
だが、それで体勢が崩れてしまい、回し蹴りの勢いに体が流れてしまう。
どうにか素早く復帰はしたものの、その頃には、チャッコが次の動きを見せていた。
「ゥワウウウ!」
行くぞと鳴いたチャッコは、横に跳ぶ振りをしてから、こちらに跳びかかってきた。
まさかフェイントを仕掛けてくるなんてと驚きながらも、オゥアマトと鍛えた対策力を発揮して、カウンターで殴りかかる。
俺がすぐに対応してくると思ってなかったのか、チャッコは空中で体を捻って、こちらの拳をどうにか避けた。
この一発で肝を冷やしでもしたのか、チャッコは跳び退いて距離を空け、じっとこちらを観察する。
「……ゥワウ」
口惜しそうに鳴いてくるが、尻尾が大きく振られていることから、とても面白がっているようにも見える。
一方で俺は、チャッコに先手先手を取られている状況に、頭を悩ませていた。
これが実戦だったのなら、魚鱗の防具の防刃性頼りに、片腕をわざと噛ませて主導権を取り戻す場面だろう。
しかし、これは腕試し。
チャッコが腕に噛みついてきた時点で、俺の負けが確定してもおかしくない。
それに、チャッコは異様なほどに首の力が強い。
もしわざと噛ませでもしたら、俺の目論見とは違って、振り回されて反撃できない可能性もある。
そこまで考えて、使えない手だからと、思考から追い出した。
さてどうしようかなと、チャッコと俺の実力の差を考慮に入れて、作戦を立てていく。
チャッコの方も、俺の防御を突破する方法を考えているのか、動きを止めてじっとこっちを見たままだ。
一分ほど静止してから、俺とチャッコはどちらともなく動きだす。
「ううぉおらあ!」
「ゥワウ!」
俺は激しく動き回って、チャッコの体勢を崩して隙を突こうとする。
チャッコは激しく動くことを止めて、俺の動きに合わせて反撃してくる。
奇しくも、お互いに先ほどとは立場を入れ替えたような攻防になった。
チャッコはどういう目論見でこの戦法を選んだかは知らないが、俺はちゃんと勝つ手段としてこの戦い方を選んだ。
「たぁ、そりゃ!」
「ゥ、ワウゥ?!」
俺は移動しながら両手両足で攻撃して責め立てると、チャッコはうろたえるような声を漏らした。
こうした連続攻撃の中に、さらにオゥアマトと鍛えたフェイントを混ぜる。
殴ると見せかけて爪先で蹴ろうとすると、チャッコは対応に一瞬困ってから、慌てて跳び退いた。
やっぱり目と耳が言い分、チャッコはフェイントにも敏感に反応してしまうようだ。
突破口を見つけた気で攻め続けようとすると、チャッコは戦法を変えてきた。
「ゥゥ、ゥワウウ!」
大きく人鳴きしてから、高速移動からの噛みつきに、戦い方を戻してきた。
どうやら反撃重視の戦い方は、チャッコの性に合わなかったらしい。
しかしこうなると、お互いに攻防が大変になる。
共に移動しながら攻撃するため、相手の存在が視界の外に消えがちになってくる。
とはいえ、この場で動きを鈍らせれば、それは相手につけ入る隙を見せることにつながる。
「うおおおりゃああ!」
「ゥワウウウウウウ!」
そのため俺とチャッコは、お互いに全力で攻防をしないといけないことになった。
素早さで勝るチャッコと、フェイントなどの技術で勝る俺の攻防は、紙一重のところでお互いに有効打を与えられないまま時間だけが過ぎていく。
次第に呼吸が苦しくなり、四肢に疲労がたまってくる。
しかしここまでくれば、お互いに意地の張り合いだ。
先に根は上げられないと、大きく荒く呼吸を繰り返し、萎えかける足に鞭打って、攻撃と回避を繰り返す。
しかしこの根競べは、長々と続けていられない。
遅かれ早かれ、どちらかが先に体力が尽きる。
おそらく、チャッコより攻撃の種類が多くて体力の消費が激しい俺の方が、先に尽きるだろう。
そう悟った俺は、賭けに打ってでることにした。
息苦しさを我慢して吸おうとする息を止め、逆に肺にある空気を吐きつくしながら、足に噛みつこうとしているチャッコの鼻づらを掴みにいく。
「ぜっ――やああぁぁぁ!」
足にチャッコの牙が到達する方が先か、俺が上から押さえ込む方が早いかの勝負。
この攻防を時間になおしたら、一秒未満の出来事だろう。
しかし不思議なことに、俺は自分が勝つことを確信するほど、状況を見取る時間があったように感じた。
それはチャッコも同じだったようで、驚愕の瞳でこちらの手を横目に見ている。
このままいけばと俺は思ったが、チャッコはそう甘くなかった。
噛みつく口を途中で止めると、あえて俺の手の中に首を突きだしてくる。
口が首に変わったところでやることは変わらないと、俺は首筋を掴みあげようとした。
俺の手指はチャッコの毛を掻き分け、首の皮膚に触れる。
そのとき急に、チャッコがその場で横に一回転した。
俺は急いで力を入れて掴むが、回転移動する毛で手が滑って、掴み損ねてしまう。
再度掴もうとするが、そのときすでにチャッコは、俺の手に届く範囲から逃れ出てしまっていた。
「チッ、もうちょっとだったのに……」
追いかけようとするが、呼吸を無理に止めたせいでか、喉がひりつくように痛んだ。
唾を飲み込むことで紛らわせながら、ここは呼吸を整えることを重視するこのにする。
チャッコも、いまの危うく勝負が決まる一手に思うところがあるのか、冷気で息遣いが白くハッキリみえるほど呼吸を繰り返して動かないでいる。
そうしてしばし、お互いに体力の回復に努めた後で、俺がもう一度同じことをやろうとする。
しかしその前に、チャッコが吠えて静止してきた。
「ゥワウウウー」
それは負けを認めるようながら、なにか手を企てているような鳴き声だった。
チャッコの性格上、偽装で降参してから不意打ちをすることはないはずだ。
鳴き声の意味が察せられずに首を傾げると、さらに吠えてくる。
「ゥワウ、ウワワウ!」
違う方法で争いたいと言いたげだなとは分かったが、それ以上のことは分からない。
「なんだチャッコ。腕試しはお終いにして、遊びで決着をつけたいっていうのか?」
「ゥワウ! ゥワゥワウ!」
鳴き方から、腕試しは続けるが、方法を変えたいといった感じだと察する。
しかし、なにをどう変えるかは、伝わってこなかった。
「まさか、武器ありで戦いとかか? そうしたら、チャッコが一方的に不利だと思うんだけど?」
「ゥワウ。ゥゥウワウオオオオオオオ!」
違うと否定してから、チャッコは大きな遠吠えを上げる。
その瞬間、チャッコの方から突風がこちらに吹き寄せてた。
砂埃が目に入らないよう腕で防ぎつつ、まさかという思いを抱きながら、俺は問いかける。
「チャッコ。お前、魔法が使えるようになったのか?」
「ゥワウ」
「もしかして、魔法も使っての腕試しで、決着をつけようと言いたいわけか?」
「ゥワウウ」
その通りと鳴いたチャッコは、四つ足に力を込めるような体勢になった。
嫌な予感に、俺は攻撃用の魔法を使う準備をする。
「ゥウワウウウウ!」
遠吠えの後で、チャッコの姿が消えた。
次の瞬間には俺の眼前に、チャッコの牙が生えそろった大口が大写しになっていたのだった。