百七十一話 黒蛇族の里
狼の魔物たちがいた花畑を離れて、俺は森の中を進んでいく。
先を進むオゥアマトの横には、オゥアマトに負けた狼の魔物が付き従っている。
その姿を見ると、額についている肉球の痕をつい気にしてしまう。
そんな俺の様子に、オゥアマトが忍び笑いを漏らした。
「ぷくくっ。それは名誉の負傷だ。あまり気にする必要はないぞ」
「名誉って、これが?」
「そうとも。その印は、あの若い狼にとって、僕の友は好敵手と認識されたことを表しているわけだ。その印が消えるころに、また遊ぼうとな」
「遊ぼうって。狼の魔物にとったら、あれは遊びだったと?」
遊びにしては危なかったよなと、オゥアマトの横にいる狼を見ながら聞く。
俺の問いかけに、オゥアマトは当然という顔をする。
「遊びでなければ、こちらと同程度の実力の狼を出すはずがないだろうに。それに、本気で殺しにくる断てぬ毛皮を持つ狼は、もっと手強いぞ」
「そうなんだ?」
「そうとも。体毛と発達した筋力による防御力に加え、体当たりなどはほぼしてこなくなるうえ、爪による引っ掻きや噛みつきを多用してくるようになるのだ」
思い返してみると、確かに体当たりをしてくる頻度が高かった。
あれはあれで結構な衝撃があったけど、噛みつきや引っ掻きに比べたら、優しい攻撃だっただろうな。
「……って俺の場合は、かなり噛みつかれそうになっていたけど?」
顔や足を噛まれそうになったことを言うと、オゥアマトが笑みを浮かべた。
「あれは友が避けると分かっていて、脅しで使っていたのだ。実際に、避けられない攻撃ではなかっただろう? 仮に噛まれていても、軽く痕が残るぐらいの甘噛みで済んだと思うぞ」
オゥアマトの説明に、本当に遊ばれていたんだなって、今更ながらに痛感した。
「それにしても、遊びで負けたのに、オゥアマトについてくるんだね、この狼」
ここまでの話を聞くと、狼の魔物がオゥアマトに付き従う理由がない気がする。
先ほどのは遊びなんだから、わざわざ群れから離れて、ついてこなくてもいいと思った。
けどそれは、俺の考え違いらしい。
「遊びでも負けは負け、それも同程度の実力だと分かっている相手に負けたわけだ。その不甲斐なさを恥じて、僕より実力が上になったと実感するまで、こいつは付き従ってくれるのだ」
「ふーん、そんな特徴があるんだ。でもあれ? 黒蛇族の里へのお土産に、狼の魔物を持っていくんじゃなかったの?」
話を聞くと、目の前の狼はオゥアマトにのみ従っているので、里の黒蛇族に上げるなんて真似ができそうには思えなかった。
そんな湧いた疑問に、オゥアマトは狼の背を撫でながら答え始める。
「こいつのような事情で、黒蛇族の里の中に住む断てぬ毛皮を持つ狼もいる。そして里の中で生まれ、里に根付いた狼もいるわけだ。その根付いた狼に、こいつが種をやり、新しい血を入れることが土産となるわけだな」
いまいちピンとこない話だけど、理屈はわかった。
「里の狼を、繁殖させようとしているわけだ」
「繁殖……。ううむ、違う気もするが、そう言ってもいいとも思えるな……」
どうやら俺の理解の仕方と、オゥアマトの考えとは差異があったみたいだ。
話し合って差を詰めようとする直前、オゥアマトに従う狼の魔物が体で俺を押して、退けようとしてくる。
この場の三者で、実力的に一番下な俺が、一番上のオゥアマトと仲良くすることが許せない様子だった。
その嫉妬にも似た行動に、オゥアマトが笑いながら狼の背を再び撫でる。
「すまないな、友よ。習性であって、悪気があるわけではないのだ」
「それはわかっているよ。狼って上下関係が厳しいって、聞いたことあるし」
「戦って勝って順位付けを行えば、態度も改まるのだが……」
その先は言わなくてもわかる。
若い狼に負けた俺が、体格で勝るこの狼に勝てる道理がないと言いたいんだろうな。
というか、この狼は頭がよさそうだから、もし俺が実力で勝っていたら、こんな行動をとることはないだろうし。
つまり、この狼に下に見られても仕方がないということだ。
俺がいま弱いのはその通りなので、近い将来に見返してやろう。
そう心の中で決意するのと同時に、額の痣に手を触れる。
これをつけた意味は、実力をつけて再挑戦にこいという、あの若い狼の意思表示だったんだろうなと、思うことにしたのだった。
狼のいた花畑から丸一日、黒蛇族の里を目指して歩いた。
すると、木々の向こうに建物らしき影が見えてきた。
目を凝らすと、木の枝や蔦を使って作られた、原始的な家であることがわかる。
意外なことに、柵や堀などはどこにも存在していない。
そんな家に、オゥアマトは迷いない歩みで進んでいく。
俺と狼は、その後ろについていった。
オゥアマトはあと数メートルという位置まで接近すると、森中に響かせるような大声を上げた。
「旅人の使命を帯びてこの地をさった、戦士のオゥアマトだ! 帰郷に際して、長老との面会を頼みたい!」
至近距離でその声を聞いてしまい、除夜の鐘を耳元で鳴らされたときのように、耳の奥がくわんくわんいっている。
俺が耳を抑えていると、建物の中から人が現れた。
褐色かつ鱗のある肌を見るに、オゥアマトと同じ、黒蛇族の人のようだ。
俺たちよりいくらか年かさがありそうなその人は、オゥアマトを見ると破顔した。
「よく帰ってきた、戦士オゥアマト。して、首尾はいかほどか?」
「こうして証拠は得ている。断てぬ毛皮を持つ狼も従えてきた」
「ふむふむ、なるほどなるほど。旅人を終えて、偉大な戦士となる資格はあるように見える」
オゥアマトに返答しながら頷き、次にこちらに顔を向けてきた。
「して、その人間は何だ? 人の世で買った奴隷か?」
奴隷制のことを知っているということは、この人も元は旅人の黒蛇族だったのかもしれない。
そして黒蛇族の里にいるということは、旅を終えて偉大な戦士となった人に違いない。
そう思っている間に、オゥアマトが俺を紹介し始めていた。
「こいつはバルティニー。危急のときに助けてもらった、僕の友だ」
「ほうほぅ、人を友にか。随分と面白い旅路だったようだな」
「うむ。なかなかに刺激的な日々だった――」
二人とも楽しそうにしているので、邪魔したら悪いなと、気配を控えめにする。
オゥアマトと黒蛇族の戦士は、それから少し雑談を交えた。
会話の流れで、オゥアマトが狼の魔物と戦った話に移る。
「――という結果になり、こうしてこいつを従えることになったのだ」
オゥアマトが撫でると、狼は嬉し気に一つ吠えた。
「ゥオン!」
「ほうほぅ、なかなかに良い面構えをしたやつだ。して、おぬしが戦ったということは、そちらの人間も戦ったのであろうな?」
「むろん、戦わせたとも。惜しいことに、勝てはしなかったが」
オゥアマトが仕草で、俺の前髪を上げろと伝える。
肉球痕を見せるのは恥ずかしいけど、必要なことなんだろうと、額を見せた。
一日経ってよりくっきりとした痣になっているからだろう、黒蛇族の戦士は驚いた顔になり、そして噴き出した。
「ぷふっ。い、いや、失礼。そのような足判を押されたということを、ついぞ見たことや聞いたことがなかったのでな。珍しさから笑ってしまった、許して欲しい」
「……いえ、負けた俺が悪いので」
複雑な心境はあるので、気にしないでくれとは、どうしても続けられなかった。
そんな俺の心を見取ったのか、黒蛇族の戦士は咳払いをする。
「ごほほん。その判を見れば、断てぬ毛皮を持つ狼に挑む勇気があることを、誰でも理解することだろう。オゥアマトの処遇が決まるまでの間、君を客人として里に迎え入れることを、長老は許可してくれるはずだ」
この痕にそんな効果があるのかと撫でつつ、聞き逃せない言葉があったことに気が付いた。
俺はオゥアマトに顔を向ける。
「挑む勇気って、どういうこと?」
「それは挑戦者の奮闘ぶりによって、つけられる痕が変わるのだ。あまりに不甲斐ない戦いであると、障害が残るほどの噛み痕をつけられることすらある」
「……聞いてなかったんだけど?」
「うむ。友の腕前なら、問題はなかろうと踏んでいたので、伝えなかったのだ」
からからと笑うオゥアマトの頭を、その隣にいる黒蛇族戦士が拳で殴った。
「ははっ――おはったぁ! な、なにをするのか!?」
「我らと人間では、生き方というものが違う。彼を友とするなら、言葉を尽くさねばならん。足りない言葉は不破に繋がり、友情が破たんする切っ掛けとなるぞ」
「うぐっ。そ、そういうものなのか?」
「そうなのだ。覚えておくといい」
俺はオゥアマトから教わってばっかりだったので、オゥアマトが他の人に教わる光景を初めて見た。
その姿を目の当たりにすると、オゥアマトもまだ成長途中の若者なんだなって実感する。
オゥアマトは殴られた頭をさすると、俺に体ごと振り向いた。
「どうやら、知らずに失礼を働いていたらしい。申し訳なかった」
折り目正しい仕草で、こちらに謝罪してきた。
けど、額の痣以外の怪我があるわけじゃないし、謝れられるほどのことじゃないと思った。
「いいよ。友達だから、多少のことは大目にみるさ」
「そうか。うむ、安心した」
オゥアマトが満面の笑みを浮かべると、黒蛇族戦士が手を一つ打ち鳴らした。
「さて、里の外苑で話していても始まらない。中心部へ向かうとしよう」
黒蛇族戦士は家の中に声をかけると、俺たちを先導して案内を始めた。
会話の流れから、オゥアマトが旅人を終えて偉大な戦士としてこの里に戻れるかを、判断する人がそちらにいるんだろう。
どういう結果が待っているのか、自分のことじゃないのに緊張しながら、案内されるがままに森の中を進んでいくのだった。