空母蝦夷。北の大地を守りし者
1944年10月
やはりこの世界線でも帝国はレイテ海戦で敗北し、連合艦隊は甚大な被害を蒙り、事実上壊滅したのである。そうそれは武蔵、山城、扶桑、そして日本への帰路で金剛の4戦艦、それに瑞鶴ら4空母などを喪失した事が大きい。
無論、史実通り帝国海軍は最後の賭けとして雲龍型空母3隻、鈴谷型重巡の船体を改修した事実上の軽空母伊吹に、戦闘艦では阿賀野型の最終艦である酒匂や秋月級駆逐艦6隻と松型駆逐艦多数を何とか就役に漕ぎ着けたのである。
とは言え、1月に入ると突如、酒匂から15.2㎝砲及び8㎝砲の撤去が命じられ、12.7㎝高角砲6基の搭載改修を施す様に命じられたのである。理由は簡単である。そう後述のとある艦艇の護衛のためであった…………
1944年11月21日 岡山県倉敷市
「蝦夷よ、帝国の未来を頼んだぞ……………」
造船大佐の俺、茂原宗一がそう呟くと、大和型の船体を空母に流用した新鋭空母は煙突からもうもうと煙を上げ、航行を開始した。
この船につけられた蝦夷と言う名は蝦夷地、つまりは北海道の事である。閑話休題。蝦夷はソ連の対日参戦に備えて4月7日に出港し沿岸海域を何とか東海哨戒機や戦闘機隊の決死の護衛の元、何とか横須賀まで辿り着き、大湊まで奇跡的に辿り着いたのである。時を同じくして紀伊を旗艦とし、大和、日向の2戦艦もそれぞれ東北の港に到着し、決戦に備えていた。無論、それはソ連の北海道上陸に備えたものである。
翌年2月12日、鳩川健三議員が旭川に日本ソビエト政府を設立。
翌13日、ソ連モスクワ政府、鳩川政権を正式な日本政府として承認、大日本帝国へ宣戦布告。
3月17日、沖縄陥落、本土(特に九州)への空襲が激化するなか、進水を終え、海に出た直後の雲龍型空母瑞鷹が呉軍港にて被爆、転覆。254名が戦死。
4月1日、ソ連軍、樺太南部へ侵攻開始。更に択捉島を初めとした4島へも侵攻開始するも、ソ連上陸部隊を待ち構えていた池田戦車隊長ら多くの帝国陸海軍隊員が決死の奮闘の末、大打撃を与えるもこちらは全員が戦死。
同月11日、戦艦を2隻ずつ入れた合計3つの艦隊がそれぞれの方面へ展開。
5月14日、札幌から飛び立った陸軍百式偵察機による偵察によりソ連軍が釧路より侵攻してくる事を察知した千歳の陸海軍混成航空隊は4式重爆”飛龍”及びその海軍仕様”靖国”や海軍独自の”銀河”ではなく、100式重爆や1式陸攻、それに旧式化が進んでいたが、未だ一線にある96式陸攻や97式艦攻などが多数飛び立ち、ソ連陸軍機甲師団に立ち向かい、陸上に設置された戦艦榛名、伊勢、日向、それにかつて日本の誇りと呼ばれた長門などから取っ払った15㎝、14㎝副砲を固定式の野戦砲として設置したものが火を噴いた。
同日、日本政府は米国との交渉を開始。やや反ソ的なトルーマンはこれに応ずる事にするも交渉は難航する事となったが、8月15日に日本とソ連以外の連合国は何とか停戦に漕ぎ着けた。
8月16日…………
空母蝦夷を旗艦とし、急いで修理を終えた空母隼鷹、龍鳳を主力とした第1航空戦隊は攻撃担当で零戦52型丙を装備する721航空隊、紫電改を主力とする防空担当の343航空隊の一部、そして厚木、横須賀などの航空隊に所属し、先月にやっと24機配備する事が出来た烈風戦闘機と同数の流星多目的攻撃機らを搭載し、戦艦大和、航空戦艦日向、重巡青葉、軽巡矢矧、駆逐艦初霜、時雨、冬月、涼月、松型5隻からなる護衛部隊に護衛され大湊を出発し、最後の戦いに向かった。
燃料は北号作戦で持ち帰ってきた燃料だ。つまり帝国海軍が使えるであろう7割の艦船用燃料をすべて投入した乾坤一擲の作戦である。
そして大和、日向はソ連海軍がイタリアから接収したリットリオ級戦艦モスクワと交戦、死闘数時間、モスクワは大和の46㎝砲弾が第2砲塔と左舷副砲の間に着弾し、巨大な爆発を起こし轟沈したが、こちらも青葉が強烈な38㎝砲弾により一瞬で大火災によって戦闘不能になり、松型駆逐艦がソ連海軍の駆逐艦との砲戦で血祭りに上げられ、涼月が船首喪失で冬月に伴われ戦線離脱するなどの被害を受けたが、初霜、時雨の魚雷で巡洋艦2隻、駆逐艦3隻を撃破し、その内駆逐艦1隻を2隻の砲撃で撃沈しているが、初霜と時雨は奇跡的に被弾せずに済んだ。
その頃、蝦夷の甲板では……
「各機、発艦開始せよ!!」主任甲板作業員がそう言うと舷側スポンソンに降りた作業員たちが帽子を振り、攻撃隊を見送っていた。無論、皆涙ぐんでいた。理由は簡単だ。もしかするとこれが最後の別れになるからかもしれないからだ。
この作戦は特攻作戦ではないものの、強力なソ連艦隊を撃破するにはこれらの戦力を磨り潰さないといけないかもしれないからだ。
1時間後、留萌沖上空
蝦夷を飛び立った航空隊は開戦時程では無いとは言え密集した編隊を組んで飛行していた。
「各機、攻撃準備急げ!!敵さんは待ってくれないぞ!!」
飛行隊長で大尉の池原相一がそう言うと次々に最新鋭流星艦上攻撃機が雷撃高度に突入し、爆弾を装備した機は上昇していく。
開戦時、赤城一若い士官で九七艦攻を操るも一つのミスで戦艦ペンシルバニアへ雷撃を外してしまい、後で大恥をかいた当時の若造もミッドウェー、南太平洋、マリアナ、そしてフィリピン航空線と言う死地を低速な攻撃機で生き残った男は大きく成長し、飛行隊長となっていた。
(これが俺の最後の戦いだ、恐らくここで俺も散るだろう。だがな、俺はこの祖国を易々と売り渡すなんて事はしない!!)
池原はそう心中で思うと機体の高度を降下させ、魚雷発射用のトリガーに指をかける。リットリオ級戦艦ワリヤーグを中心に各艦艇から放たれるイタリア製の9㎝高角砲やそれをコピーした高角砲から放たれる強烈な対空砲火は攻撃隊にとって大きな脅威となり、多くの機体が弾幕に絡め取られ墜落、もしくは操縦を誤って海面に激突した。
だが、幾度も死地を抜けた池原と、池原と長年付き沿ってきた航法士の東海林健中尉は違った。池原は決して対空砲火に怯える事無く、目標であるワリヤーグに照準を合わし、東海林はカメラを用意する。
「よぉーし、いっけぇええええええ!!!!!」
池原がそう言うと彼の流星の胴体にぶら下げてあった800㎏航空魚雷が海面に落下し、目標へと向かっていく。そして池原は機体を斜め右上空に向けて旋回させ回避行動に移り、しばらくすると水柱がワリヤーグの舷側に上がる。
水柱が上がるとどう言う訳か最大の対空火力を持っているであろうワリヤーグからの対空砲火だけが止み、護衛の駆逐艦だけが対空砲火を上げ続ける。
やがて水柱が収まるとワリヤーグは左舷に傾き、停止していた。効果はあった様だ。とは言え、素直には喜べない。何故ならもう既に多くの戦いは終わった中の戦いだからだ。ともかくソ連軍は日本軍に比べ強大な戦力を持っていたが、この時の帝国陸海軍の必死の応戦で留萌地域を占領していたソ連陸海軍は壊滅され独ソ戦を生き抜いた強者らはここで多くが屍と変わったのである。
北海道決戦はこの日で終わりとなった。
帝国海軍は勝利したのだ。最後の栄光、いやこれが戦後日本がソ連を大きく怯えさせ続けた要因となったのだ。
8月24日、米国はソ連に対し、北海道から撤収すればB-29とその図面を提供すると提案。しぶしぶソ連はそれを飲み、撤退したのである。だが、これがのちに対ソ戦略最大の誤りになるとは知らずに…………
確かに結果としてこの戦争に日本は敗北したが、ソ連が実力で北海道をかすめ取ろうとした事を脅威に思った米大統領は日本をすぐさま反共の防波堤として機能させる事を決意させる事件が起きた。そう、先に渡したB-29と英国が売却したランカスター爆撃機がアラスカ上空に侵入し何も入っていないとは言え、突如として爆弾倉を開放し閉めるとカムチャスカへと向かったという。
閑話休題。日本は米国の感情を考慮し、賠償として大和の防御力を拡大し、50口径46㎝3連装砲を搭載していた事実上の世界最大最強の戦艦である紀伊を引き渡さざるを得なくなったのである。
(米国はこの船にモンタナと名付け、1969年にベトナム戦争、82年のレバノン紛争ではニュージャージーと共に大きく活躍した)
なお大和と蝦夷は対ソ戦の一時的勝利の象徴として使えると踏んだ米国の提案もあり幸い引き渡さなくて済んだが、戦艦長門と日向がなんとか交渉の末に解体を免れて江田島に一時的に係留されたが1950年に朝鮮半島情勢が悪化すると現役に復帰しソ連海軍を牽制、その後は練習艦として士官の教育に尽くし、1964年に伊勢が東京五輪の、そして1970年に長門が大阪万博の洋上警備本部として最後の花道を飾るとそれぞれ翌年に退役。因みに日向の現役期間42年、長門はそれを上回る46年で、現在もこの2隻は江田島の帝国海軍士官学校で係留されている。
そして蝦夷は新生日本海軍の主力として日本最初のスーパーキャリアとなる翔鶴型航空母艦(キティーホーク級に匹敵)が就役する1971年まで主力空母であり続け、練習空母に1972年になると1981年まで現役であり続けた。
その後、東海林健は海軍で順調に出世を続け、1981年に中将で海軍を退いた。