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一章 登山

大昔に書いた作品ですが、自分で読み直してみたら意外に面白いので掲載させていただきます。

今時の女の子がたくさん出てきて振りまわされる主人公という話ではなく、どちらかというと主人公(男)の生き方が中心です。

何しろ、この一章に女の子がまったく出てきません!

たぶん、今時の作品としては前代未聞でしょう(笑)。

……が、もちろん次の章では、女の子も出てきます。

楽しんでいただければ幸いです。

 彼は、死にたかった。

 彼にとって、死は救いになるはずだった。

 しかし。

「くっ!」

 彼は、腰を落として避けた。

 黒い体毛で包まれた獣の腕が、風を巻きこんで頭上を通りすぎる。

 短髪でそれを感じながら、彼は後ろに転がって距離をとった。

 地面の小石が、背中をひっかく。

 が、それどころではない。

「はあ、はあ……」

 乱れる呼吸をなんとかととのえ、気力をふりしぼって、一の腕を地と水平にするよう構える。

 体を薙ぎはらおうとした今の腕。太さだけなら、自分の腕の数倍はある。

 それを避けなければ、彼は彼の望みどおりに、死ぬことができたかもしれない。

 だが、彼は避けた。

 死ぬことが、怖くなったわけではない。

 今、死ぬわけには、いかなくなったのだ。

 彼は、背後を一瞬だけ見やる。

 そこには、一見して異国の者だとわかる者が立っていた。

 象徴的な黒い帽子は、鍔が広く頭の周りを囲むように、ひらひらとしている。帽子の中心は尖っており、【青蓮国せいれんこく】で一般的な鍔なしの丸い帽子とは、まったく形が違っていた。

 また、漆黒を思わす、体を包む外套も、明らかに彼の周りでは見たことのないものだった。

「頑張ってくださ~い」

「頑張ってじゃない!」

 呑気に声援をとばす異国の男に、彼は怒鳴りかえす。

 もし、自分が死ねば、この危機感のない男は、まちがいなく命を落としてしまうだろう。

「早く逃げろ!」

 彼は、何度目かの怒鳴り声をあげた。

 それでも異国の者は、逃げようとしない。

 まったく、なにを考えているのかわからない。

(私が、本当にこいつを倒せるとでも思っているのか……)

 彼は向きなおり、敵の血目を睨んで威嚇する。

 黒雲を思わす魔物の影が、夕焼けに伸びて、彼に覆い被さろうとしている。

 それは、死を望む彼にさえ大きな恐怖として、のしかかろうとしていた。

「うおおおっ!」

 恐怖を打ちはらうために、彼は気合いをいれた。

(何故、このようなことに……)

 彼は、少し前までの自分のことを思いだしていた。

 死ぬために、山を登り続けていたということを……。


   ◆


 彼は、自らを許せなかった。

 だが、いくら自らを恨もうとも、自ら死ぬことはできない。

 二〇に満たない若い彼に、許される死があるとすれば、それは戦いの中だけである。

 いや。もう一つある。

 それは、命じられた死だ。

 しかし、彼に命じることができる者など、何人いようか。

 だから彼は、山を登り続けた。

 青蓮国で、もっとも高い山である【泰山たいざん】。

 この山に登れば、死ぬことができるはずだった。

 だが、すでに三日目の陽射しも傾きはじめているのに、まだ死ぬことができない。

 この二日半、彼は儀式として食べ物を口にしていない。

 唯一、口にできたのは、岩肌から流れるせせらぎの水のみだった。

 当然、体力が落ちて朦朧とする。

 足がなにかにつまずき、転んだ。

 それだけで、気が遠のいた。

 深い、深い闇の中に沈む感覚。

 夢さえも遠くにある深淵に、ただ安息を求めて彼の意識は落ちていった。

「…………」

 それから、いったいどのぐらい意識を失っていたのかわからない。

 意識をとりもどしたのは、なにかの雄叫びに身を震わしたからだった。

 恐怖は、心の深淵にまで届く。

 そんな言葉を思いだしながら、彼の意識は覚醒し始めた。

 湿気た土の臭いが鼻につく。

 目を開けると、地面がすぐ左にあり、横になって広がっている。

 彼は、土に左頬を押しつけるようにして倒れていた。

 その土を両手で押し離すようにして、巨躯の上半身をゆっくり起こしはじめる。

 四肢のすべてが重い。

 そして、大きな砂袋でも背負っているように、体が重い。

 なんとか上半身だけ起きあがると、彼は近くの木によりかかった。

 頬の土を払いながら、自分の体を見まわす。

 頭からかぶせるように着る長袍ちょうほうという服は、酷い有様だった。

 膝下まで伸びた黄色地には、あちこちに土がこすりつけられ、薄汚れている。金糸を織りまぜた黒糸で刺繍された、胸に抱かれる龍は、輝きを失っていた。裾は切れ、腰の辺りに枝を引っかけたのか、ほつれが点々としていた。

 それでも幸い、どこも大きな怪我をした様子はなかった。

 長袍の足下にある、切れ目から見える黒い下履きも、汚れてはいるが無事なようだった。

 せいぜい、履きなれない山登り用の革靴の下で、マメがいくつかつぶれたぐらいだろう。

(罰だというのに……)

 生まれついて丈夫な自分の体が、こんな時は呪わしい。

 とにかく、まだ動ける。

 それを確認して、彼は辺りを見まわした。

 途端、先ほど夢現で聞いた雄叫びがあがる。

 その野太さと激しさから、大型の獣が敵を威嚇しているのだろう。

 距離は、そう……少し離れている。

 彼がそう考えていると、三度目の雄叫びが響く。

 ほぼ同時に、カーンと響くような金属の音も。

(まさか……)

 彼はそれに気がついて、一瞬だけ体を硬直させていた。

 獣が金属音を鳴らせるわけがない。

 木をつかむようにして、彼は体を勢いよく立たせた。

 しばらく寝ていたおかげか、少しだけ体力が回復している。

 彼は二歩半弱(約二メートル)ある大柄な体を音のした方へ歩ませはじめた。

 すでに太陽はかなり傾き、そろそろ木々の深い部分では、足下が見えにくくなっていた。

 またつまずかないように気をつけながらも、だんだんに足を速めて、器用に木々の間を動いていく。

 急がなければならない。

 金属音がするならば、こんな危険な場所にもかかわらず、「人がいる」と言うことだった。

 幸い足場はなだらかで、邪魔な草もない。

 しばらくすると、木々の壁がとぎれる場所にでた。

 狭い丘のようで、足下には短い草が敷きつめられている。

 その先の方を見ると、ぷっつりと風景が切れている。

 眼前に広がるのは、沈みかけている朱に染まった太陽。

「崖……」

 つぶやいた瞬間に、足下から先の金属音が聞こえてきた。

(ここか……)

 彼は崖の端手前まで進み、そこに伏せて崖の下をのぞき見た。

 はたして、そこには大きな獣がいた。

 いや。それはただの獣ではなった。

 全身が毛で覆われた体は、まちがいなく黒熊である。

 だが、四つ足を地に着いている状態でありながら、上半身を起こして(・・・・・・・・)目の前の敵を威嚇しているのだ。

(ま、魔物……)

 その魔物は、二匹の熊がつながったような生き物だった。四つばいになった熊の肩のあたりで、もう一匹の立っている熊の腰につながっているように見える。

 彼よりも遙かに高い巨体。今まで光斗が見た魔物の中でも、その迫力は群を抜いている。

 そして、その魔物の背中越しに、一人の姿を見つけた。

 一見して異国の者だとわかった。

 顔を隠している黒い帽子。

 漆黒の外套。

 彼の周りでは見たことのないものだった。

 その手には、長い棒を持っている。

 先の金属音は、あの棒なのであろう。

(山向こうの者がどうして……)

 怪訝に思いながらも彼は、すっとその場に立ちあがった。

 そして、足の先に力を集中する。

 すでに襲われている異国の者は、背中を大木に預けて逃げ場を失っていた。

 迷っている暇はない。

 筋力とは違う、武術に長けた者が使える【神氣しんき】という力。

星斗(せいと)攻法(こうほう)・第一……)

 それが、彼の右足に見えない光を灯す。

 つま先から、足首の上辺りが、まるで湯にでもつけていたように、じわっと熱に包まれる。

 それが、準備のできた合図だった。

 そこまで、瞬き数回程度。

 敵に目測をつける。

 彼は助走もなしに、地を蹴って崖を飛んだ。

 崖の高さは、九歩(七・二メートル)ほど。

 その高度を利用して、四歩(三・二メートル)ほどの高さがある魔物の後頭部を狙う。

 寸前で、こちらの気配に気がついた魔物がふりむく。

 血走った赤眼が、彼を睨む。

 かまわず彼は、曲げていた脚を思いっきり突きだす。

 彼の足が、見えざる光を尾にして伸びていく。

天枢てんすい!」

 彼の気合いと共に、雄叫びをあげる寸前の魔物の顔へ、足が深くめりこんだ。

 足の先に、骨がひしゃげる感触が来る。

 寸陰の間をおかず、彼は足に宿る光を破裂させる。

 魔物の顔が弾かれたように、斜め前にひん曲がる。

 彼はそれを尻目に、空中で軽く体をひねると、とても衰弱しているとは思えないような足取りで着地した。

 同時に、大きな地響きと共に魔物が倒れる。

(まだ……)

 彼はすかさず左前に構え、右で拳を作り神氣を込めた。

 少しずつ拳先に光が宿る。

 その勇姿は、【光斗こうと】という彼の名に、恥じぬ戦い方だった。

(彼は……)

 光斗は、異国の者を目だけで探した。

 襲われていた者は、魔物が倒れる寸前に、逃げていたのは見えていた。

(…………)

 視界内には、いない。

 どこかに逃げ隠れたのかと思った。

「いやぁ~。ありがとうございます」

「!」

 呑気そうな声が背後からかけられ、光斗は意表をつかれた。

 慌てて、背後をふりむく。

 そこには黒い外套の男が、長い棒を振りながらニコニコと場違いに笑っていた。

「助かりましたよ。なかなか、武器がうまく使えなくて……」

 流暢な青蓮語を話す男は、まだ若い。

 光斗も一九という若さだったが、目の前の男はもう少し若く見えた。

 こんな若い異国の者が、どうしてこんな所にいるのか。

 それよりも、いつの間に背後にいたのか。

 光斗には腑に落ちないことだらけで、少し混乱する。

「ああ。後ろ、後ろ」

 まるで自分は無関係のように、男が光斗の背後を指さした。

 気配に気がつき、慌ててふりむく。

 同時に、覆い被さるような魔物の体を左前に転がって避ける。

 そして一挙のごとく、右拳の逆突きを腹の部分に叩きこむ。

 人間のそれとは違う、肉の感触が拳に伝わる。

 苦悶の叫びをあげる魔物から、光斗は飛び退いて体を離した。

「おお。【泰斗龍神拳たいとりゅうじんけん】ですね。それもなかなかの腕前。その型は【河伯かはく流】……」

「なにを呑気に! 早く逃げるのだ!」

 光斗は、場違いな感心を見せる男の顔を睨んだ。

 真っ黒で細めの、敵対心を抱かせない穏やかな双眸。そして、高くも低くもない鼻に、小さめの口。少しやせ形の、どこにでもいそうな顔つき。

 その顔の作りは、どちらかというと青蓮人に似ていた。

 肌の色も、【山向こう】と言われる、泰山を含む【九崙部くろんべ山脈】の向こう側、【西王界せいおうかい】の人間のような白色をしていない。どちらかというと、光斗と似た黄色系の肌をしていた。

 だが、そんなことはどうでもよかった。

 目の前の男は、こんな魔物のいる山に登ってくるような剛の者に見えないのだ。

 放っておけば、犬死にするだけだ。

「早く!」

 光斗は一喝して急かした。

 そうしている間にも、呻きながら魔物が立ちあがる。

「逃げろ!」

 迫ってくる魔物に、光斗は飛びあがって頭上をこえた。

 そして、その後頭部に蹴りを叩きこもうとする。

 しかし、相手の反応は速かった。

 すっと身をそらして蹴りをかわされる。

「――!?」

 右から激しい衝撃が襲ってくる。

 魔物の左腕が背後にふられていた。

 空中で食らった光斗は、そのまま横にはじき飛ばされる。

 苦痛と衝撃に耐えながら、彼は空をかいて姿勢を立てなおす。

 なんとか足を地につけ、前屈みになりながら後ろに滑る。

 獲物を追う魔物は、すでに正面にいる。

 大木のような腕が、光斗の短髪をふるわせて通りすぎる。

 しゃがんでなければ、死んでいたかもしれない。

 彼は間髪いれず、後方に転がって、間合いをあける。

 その勢いを殺さず立ちあがってから、ちらっと後ろの方を見るが、あの男はやはり逃げていない。

 それどころか、光斗には笑っているように見えた。

「頑張ってくださ~い」

「頑張ってじゃない!」

 呑気に声援をとばす異国の男に、光斗は怒鳴りかえす。

「早く逃げろ!」

 いったい、なにを考えているのか、まったくわからない。

 だが、光斗がそれを悩んでいる暇はなかった。

 自分の長身をも超える魔物は、まるで覆い被さるように光斗へ迫る。

「うおおおっ!」

 恐怖を打ちはらうために、彼は気合いをいれた。

 呼応するように、爪が斜めに襲いかかる。

 体を開くようにして避ける。

 爪が黄色い長袍の一部を裂いていく。

 続けざま、いくたびもの攻撃が彼を襲う。

「ふんっ!」

 数撃を避けた後、光斗は両腕で十字を作り、魔物の腕を受けとめた。

 危うくはじき飛ばされそうになるが、彼の足は地をなんとか噛んでいた。

「第一……」

 片腕だけ降ろし、光斗は神氣をこめて、腰のあたりで構えた。

 そして、開いている魔物の胸あたりを狙う。

 力は落ちているが、心臓に直接、振動を打ち込めば倒すことができるかもしれない。

 だが……。

「うっ!」

 拳を突きだす瞬間に、光斗は眩暈に襲われた。

 それは、疲労による物ではなかった。

 脳裏に、像が浮かぶ。

 真っ赤な池。

 それが眼球の中、いっぱいに広がる。

 息を呑む。

 胸の奥から、なにかが喉元までもどってくる。

 手で口を押さえ、光斗の動きが止まった。


――雄叫び!


「――っ!」

 魔物の左腕が、容赦なく再び光斗を弾きとばした。

 声さえも出ず、光斗は体を飛ばされる。

 脳ではなく、脊髄がとっさに受け身をとろうとするが、ほとんど転がるように地べたに這う。

「くっ……」

 苦痛で顔を顰める。

 魔物が走りよる。

 なんとか、上半身だけは起こせた。

 しかし、それではどうにもならない。

(間にあわな……)


――ガシャ!


 彼自身は、もう半分覚悟を決めていた時だった。

 彼と魔物の間に、黒い棒がわってはいった。

 それは、地面へ先端が埋まり、斜めになって突き刺さっていた。

 魔物も、とっさに飛びさがる。

「それを!」

 異国の男が投げた棍棒だった。

 光斗は、すぐさまそれを引きぬいた。

(重い……)

 ガシャという金属音と共に、信じられないような重量が両腕にかかる。

 中になにか詰まっているのか、たかが二歩半程度の棍棒としては、重量が通常の二倍以上はある。しかも邪魔なことに、口の閉じた龍の頭の細工が両端についている。

 光斗は、唖然とする。

 これで戦えと言うのだろうか。

(だが……)

 心を決めて構えてから、重さと長さに任せて、数発ほど魔物を打ち叩く。

 狙うは、下半身。

 叫喚のような声をあげ、魔物がひるんで数歩さがった。

 そして、苦痛のためか倒れる。

 光斗は、自分の気力を確認する。

 神氣は、撃ててあと一発。

 しかし、それでは……。

「とどめはさせませんよ」

 まるで心を読むように、異国の男が言葉を続けた。

 しかも、いつの間にか、また背後に立っている。

「あの魔物は、今の貴方では倒せません」

「だから!」

「だから、それを使うのです」

 男は、棍棒を指さした。

「それは【龍泉りゅうせん】。作ったのはいいのですが、私には重すぎて、振りまわせなくて」

 男は、最後に乾いた笑いをそえた。

 もう、光斗には言葉がない。こんな実戦にむかない装飾をした、重いだけの棍棒。しかも、作った本人さえ扱えない武器で、いったいどうしろと言うのか。

「今、下にしている方の龍の頭の近くを持ち、あの魔物の顔にめがけて、突き放ってください」

 その光斗の疑問に答えるように、男が説明してくる。

「そんな持ち方では……」

「突く前に手に神氣を宿し、突き出すのと同時に、それを龍泉に放つのです」

 一方的に説明すると、「来ますよ」と魔物の方を指さした。

 魔物が器用に四つの足と、手の代わりになっている二つの足を使って体を起こした。

 さっきよりも赤くなった奥目が、光斗を見つけると、怒り狂ったように叫びをあげる。

 魔物は、変化する前の獣よりも遙かに凶暴になりやすい。また、ときどき知能が高くなるものもいるが、ほとんどは知能も低下する。

 真っ黒な体毛を逆立てるあの魔物は、がむしゃらに突進して来るだろう。

 光斗も、破れかぶれになり構えた。

 右手で棍棒の端近くを持つ。そして、右に体を開くように、右腕を後ろに引いていた。左腕を斜め上に伸ばし、親指と人差し指で、棍棒の中心あたりを支えている。

 残る力で、神氣は込めた。

(来る!)

 まるで飛び跳ねるように、魔物が走りよる。

 思ったとおり、まっすぐだ。

乾坤一擲けんこんいってき……うおぉぉぉっ!」

 今度は、光斗が雄叫びをあげた。

 体を腰から捻るようにし、勢いよく回す。

 腰の動きにのせて、右手首を効かせながら棍棒を前に突きだす。

 棍棒を使うのは、初めてではない。充分に練習し、軸をずらさずに、的の中心に命中させることぐらいできた。

 もちろん、今の的は俊敏であり、攻撃をかわす手も持っている。いくらなんでも、こんな直線的な攻撃はよけられる。

 だが、光斗に選択肢はない。

 神氣を右手から、棍棒へと注ぎこんだ。


――ドッドッドッドッドッドッン!


 一刻の間に、複数の爆音が、ほぼ同時に響く。

 激しい衝撃が、棍棒を握る右腕に伝わる。

「なっ……」

 光斗は呆気にとられた。

 目の前で、魔物が背後へのけぞるように動きをとめていた。

 そして、崩れるように倒れる。

 つられるように、光斗も尻もちをついてしまう。

 光斗は、自分の右手の棍棒だった物(・・・・・)を見つめた。

 事が起きた瞬息、魔物はなにが起きたのかわからず、そのまま昇天したことだろう。

 それほど、刹那の出来事だった。

 なにしろ光斗自身も、なにが起きたのか解せなかった。

「伸びて……」

 龍泉と呼ばれた棍棒は、彼の右手で短い棒になっていた。

 いや、その棒から鎖が出て、次の短い棒につながっていたのである。全部で九つの短い棒が、鎖でつながれている形になっていた。

 そして、その先端の一本は、魔物の顔面を貫いている。

 見れば、先端の龍の飾り物の口からは大きな両刃の鏃のようなものが突きでている。それが、魔物の頭蓋骨をも貫いたのだろう。

「いやいや。すばらしい。初めての発動で、こんなにうまくいくとは」

 尻もちをついたままの光斗の後ろから、異国の男が拍手しながら近づいてくる。

「初めて……」

「ええ、初めてなんですよ。でも、これ、目標物に刺さってしまうと抜くのが大変そうですね~」

「抜くのがって……」

「まあ、ともかくこれで、食事にありつけます」

「しょ、食事……」

「ええ。魔物これ、食べられますよ」

「お、襲われていたのでは」

「いえ。むしろ、襲ったのですが」

「襲った……」

 目の前の男は、いったいなにを言っているのだろう。

 確かに魔物も食える物はいるだろう。元は普通の動物だ。しかし、なんであえてこのような場所で、魔物を襲うのか。食料など持って、山にはいるのが当たり前だろう。異国の者で、ここがどんな場所か知らなかったのだろうか。それにしては、「食べられる」という知識はある。だが、食べられるからと言って、この華奢に見える男は、魔物を倒せたのだろうか。

 光斗の脳裏に、混乱しながらも多くの疑問がわきあがる。

 だが、それを整理する気力がもうない。

 それどころか、もう意識が……。

「おや? もし?」

 意識がとぎれる寸前に聞こえた台詞は、それだった。

 答えることもできず、光斗は闇に沈んだ。

「おやおや。こんなところで気を失うとは、呑気な人ですねぇ」


   ◆


 光斗が次に目を覚ましたのは、なにかが焼ける香ばしさのせいだった。

 鼻腔を刺激する、苦く焦げた臭い。

 その中に、甘くしょっぱそうな香りが混じっていた。

(ああ、腹が空いた……)

 そう思いながら目を開けると、目の前には星空が広がり、横には焚き火が灯っていた。

 香りの元は、そこで弾ける音と共に、炙られていた。

 肉だ。

 薄めに切り、木の枝に通して、土の地面に立たされている。

 じょうと、油がたれて炎が高くあがる度に、たっぷりと塗られた、たれの香りが立ちあがっていた。

 魔物の死体は、そこになかった。

 というよりも、そこは戦った場所とは、別の場所だった。

 どうやってここまで、光斗の大きな体を運んできたのか、それはわからなかった。

 しかし、焚き火のできそうなこの場所まで、自分を運んでくれたのは間違いなさそうだった。

 さらに、傷の手当てまで施されていた。

 光斗に龍泉という武器を渡し、自分をここまで連れてきた男は、【ホーク・ナーガ】とやはり異国の名前を告げた。

「旅をしながら、【錬金術師トート】をやっています」

 名前の後にホークが、そうつけたした。

 光斗はその錬金術師というものが、どういう職業なのか知らなかった。そういう職業は、青蓮に存在しないはずである。

「こちらの仙人の中にも、似たような錬丹術れんたんじゅつというのがあるのですよ。これは、完全なる真理を求める学問とでも申しますか。たとえるなら、完全なる金属である金を生み出す力を見いだすことは、真理を見極めるということに他ならず……」

 そのようなことを言っていたと思うが、光斗には理解できなかったので流した。とりあえず、難しそうな学問の学者であるということはわかった。

 わかったのだが、そんな難しい学問の学者だと聞くと、腑に落ちないこともある。

 一般的に学者という連中は、長い間勉強してなれるものだ。他は知らぬが、光斗にとっては、そういう存在だ。

 なのに、目の前の黒い外套に身を包んだ男は、どう見ても自分と同じぐらいの年齢だった。

 そんな若い学者など見たこともない。見栄をはっているだけで、まだ一徒弟にすぎないのではないだろうか。

 訝しみながらも、光斗も自分の名を告げた。

「とにかく、食べませんか?」

 自己紹介が終わると、ホークは良い感じに焼かれた肉を指さした。

 光斗の事情を聞こうともしない。

「硬めの肉なのですが、ちょっと工夫したのでそれなりに食べられますよ。タレをたっぷり漬けて、臭みを消してありますし」

 ホークは、無邪気そうにほほえむ。

 その表情が、よけい彼を若く見せる。

 敵意はない。肉にもきっと、問題はないのだろう。

 だが、光斗はそれを口にすることはできない。

「私は……」

「食事をしてないのでしょ?」

「していません」

「ですよね。で、死にたいのですか?」

「…………」

 暗闇の中、光斗は赤い光で、揺れるホークの横顔を見た。

 その表情……いや、表情の下にあるものから、無邪気さが抜けた気がした。

 口角は緩やかにあがり、目は弓なりになっている。だが、見れば見るほど、光斗にはその表情が笑っているようには、見えなくなっていた。

(この男は、私を責めている……)

 急に思った。

 彼の醸す雰囲気に、光斗はだんだんと、胸をかきむしられるような気分になっていった。

「あなた、この山がどんな山かは、知っているのでしょう?」

 ホークが、焼いている肉を裏返しながら話す。

 口調だけは、まるで親が子供に注意するようだった。

「ここは、仙人と呼ばれる【人あらざる者たち】の住まう泰山。多くの結界があり、山の放つ魔力により、変化を起こした生物である魔物が棲んでいる、危険な場所です」

 光斗とて、それは重々承知している。他国の者に説明されるまでもない。

 この山の頂きには、天仙と呼ばれる者たちが棲む【蓬莱ほうらい】がある。蓬莱は、【帰墟ききょ】と呼ばれる巨大な結界で囲まれており、それを超えることは、天仙にしかできないという。

 また帰墟の手前には、【地仙居ちせんきょ】という地仙と呼ばれる者たちの棲む村がある。

 麓にある普通の人間が住む【黒部村くろべむら】から、地仙居までは、魔物に襲われる危険が多少はあるものの、普通の人間でも登ることはできた。

 しかし、地仙居にはやはり結界が張ってあり、入ることができるのは一部の通行証を持つ者だけであった。

 つまり、普通の人間が、この山を登る理由はまずない。

「たとえ登るとしても、黒部村から地仙居を経て蓬莱までは、もっとも安全な一本の道【神の廊下】でつながっています。しかし、あなたはそれからもはずれて、魔物がうろつくこの森にいる」

 ホークの黒目が、ちらりと光斗を見た。

 いや。「見た」という印象を見せただけだった。もうとっくに、彼は気がついている。

「それに見る限り、食料や荷物らしいものも持っていない。武器もない。……あなた、命を捨てに来ましたね?」

 光斗は、たまらず視線をそらした。

「もちろん、普通ならこんな回りくどいことはしないでしょう。死ぬのなんて、もっと簡単です。しかしながら、青蓮王家の人なら、わからなくもない」

「…………」

「なんでも王家の人間は、自ら命を絶つことを禁じられているとか。それは非常に不名誉なことで、死ぬなら戦いで死ななければならぬと聞きます。それに、汚れていますが、その黄色い長袍……」

 そうだ。黄色は、王家を表す色だ。青蓮国民ならわからぬはずがない。

 だが、目の前にいるのは、【山向こう】の人間だ。

 光斗は、この男の知識に感嘆する。なるほど、学者というのもまんざら嘘ではないのかもしれない。少なくとも、この国のことに暁通ぎょうつうしている。

「ああ、そのとおりだ」

 光斗はかるく頷きながら、あきらめたように開口した。

「私は青蓮王家の者。王家のしきたりにより、聖裁せいさいを受けにまいった」

「せいさい……ですか?」

「うむ。私は許されぬ罪を犯した。死をもって償うべき罪だ」

 肉体的な疲労と、また自らが口にする痛惜に、光斗は呼吸を荒げていた。

「しかし、その罪の裁断は、天仙にしてもらわねばならぬ。そして聖裁を行う天仙に合うには、泰山を登り始めたら、食べ物を口にしてはならないというのが慣わし」

「え? 慣わし? 初めて聞きましたよ、そんなこと」

 ホークが手を口元にそえて、視線を少し夜空にむけた。

 まるで星の輝きを楽しむように、呆けたような表情を見せる。

 その様子に光斗は、なぜか少しいらだちを感じる。

「それは、そうであろう。これは、王家に伝わる秘儀だ」

 いくらこの国に詳しいと言っても、しょせんは他国の者だ。しかも、このような話は、自国の者とて知るわけがないことだ。

(ああ、私はなにを……)

 はたと、光斗は気がついた。

 自分はどうしてこのようなことまで、話しているのだろう。話す必要はないどころか、話すべきではないことだ。

 だが、光斗は話してしまっていた。むしろ、なぜか言わなければならないような気がしていた。

 目の前のホークという男の言葉は、胸の奥につまった空気を押しだそうとする。

 光斗は、先ほどから得体の知れない焦燥感を、目の前の男に煽られているような気がしていた。

「王家の方と仙人との秘儀ならば、仙人も知っているはずですよね」

 しばらく考えこんでいたホークが、得心できぬと眉を顰めた。

「そうだな……」

「ふむ。でも、私は知りませんよ?」

「…………」

 何が言いたいのかわからず、光斗は正体不明の男を睨むように見つめた。

(……!?)

 刹那、一つの考えが光斗の頭をよぎった。

 が、それを慌ててふりはらった。

 あり得ない。

 そんな馬鹿なことは、あり得ない。

「私、仙人ですけど、そんな慣わしは知りませんよ」

 だが、ホークは平然と、そのあり得ないことを言ってのけた。


   ◆


 ホークは、まちがいなく仙人のようだった。

 証拠として彼は、仙術を使って見せた。神氣を固めて手から飛ばし、対象物に当てる簡単な技である。しかし、その威力は、簡単に人の大きさほどもある岩を砕いた。威力だけならば、先ほどの魔物も簡単に倒せるだろう。そこらの似非術者とは、比べものにさえならない。

 ならばなぜ、先ほどの魔物を倒さなかったのか疑問になった。

 それは、自分で作った武器――龍泉――の試験も兼ねていたらしい。

 光斗は、まんまとその試験に利用されたわけだ。

 もちろん、これだけでは信用しきれない。正式な仙人でなくても、仙術を操れる奴らはいるのだ。

 たとえば、蓬莱を追いだされた者たちで作られたという、【四聖道しせいどう】という組織がある。

 彼らは、自らを【道士どうし】と呼び、仙術をもとに改変した【道術どうじゅつ】という法術を駆使する。

 ただ、道術と仙術は、基本が同じなのだ。だから、基本的な術が使えると言うだけで、仙人だとは認められない。

 しかし、彼は仙人だと証明できる決定的な物を持っていた。

 それは【戒牒かいちょう】という、仙人になるともらえる木札である。腐らず、燃えずという不思議さを持っている。また、持ち主が神氣を送るとほのかに光を放ち、そこに持ち主が仙人である旨と、人としての名ではなく仙人としての名前が現れるのだ。

 光斗は、掌ほどの大きさがある、彼の戒牒を確かめた。

 確かに本物だろうと、光斗には思えた。

(だが、これは……)

 そこにあったホークの仙人名に、光斗は疑念が払えなくなった。

 戒牒に現れた仙人名は、【鷹龍ようりゅう】だった。

 名前に「龍」の文字がある。

 とんでもない名前だ。

 それは、下級の仙人である地仙ではなく、すぐれた一部の上級の仙人・天仙であるということを意味していた。

 しかも、さらに信じがたいことに、天仙の中でも絶大な権限と力を持つ、【九龍くうろん】に席を置くということも示してあった。

 九龍とは、仙人を統べる九人の仙人たちである。蓬莱にある【九天宮きゅうてんきゅう】と呼ばれる建物に住み、泰山を守る責任者とも言うべき地位にある者達だ。

 九龍の長である【金龍】ならば、青蓮王と同等に扱われるほどである。他の九龍たちとて、青蓮国での将軍や大臣と地位は変わらないのだ。

 だから、この異国の若者が、そんな重職に就いているとは、にわかには信じられない話だった。

 疑わしい。しかし、戒牒は確かに光を放った。

「……お願い申す!」

 光斗は、その場に跪いた。そして、自分の罪を裁いて欲しいと、ホークに頭をさげた。

 たとえ疑わしくても、とにかくすがりたい気持ちの方が強かった。

 もう、四肢を縄で縛られ、引きちぎられるような、今の苦しみから解放されたい。いっそうのこと、首を引きちぎってもらった方が楽だとさえ思えた。

「私にそんなことをする権限は、ありませんよ」

 しかし、土下座する光斗に、ホークがあからさまに困った顔をした。

「どうでしょう。私が案内してあげますから、金龍様にお尋ねになったらどうですか?」

 光斗は落胆したが、ホークの言葉にうなずいた。

 どうせ聖裁を受けても、自分は死を命じられることだろう。

 万が一にでも、聖裁で許されるような奇跡があっても、きっと王位にはもどれない。だが、今まで自分が進んできた道以外を進むことなども、考えられない。それなら、死んだ方がましである。

 だから、危険な森に入って、自然死や魔物と戦って死んでもいいだろうと思っていた。

 しかし、ここでホークと出会ったのも、運命なのかもしれない。

 やはり、きちんと聖裁を受けろということなのだろう。

「ともかく、仙人と会えたわけですから、食事はとってよいでしょう。どうぞ、お食べください」

 ホークに進められ、光斗はしばらく考えてから肉を口にした。

 彼の言うとおり、仙人には会えた。

 そして、今度は金龍に会うまで、死ぬわけにはいかない。

 もしかしたら、それは自分に対する釈明だったのかもしれない。

 でも、今は食べることが正しいと、彼には感じられたのだ。

「うまい……」

 肉が喉を通ったとき、光斗から思わず言葉が漏れた。

 きっと、後から考えれば、決して褒められた味ではなかったのだろう。

 だが、すべてにおいて光斗には、今までで最高の肉に感じられた。

「ああ……どうして、うまいんだ……」

 光斗は嗚咽に近い声をだし、我慢できずに落涙しながら食べた。

 自分は、死ぬべきだと思っていた。

 罪は、常に自分を追いつめようとした。

 なのに、今の自分は、生命を感じて確かに喜んでいる。

 随喜と自嘲の混ざった涙を、とめることができなかった。

「おいしいと感じられるのは、あなたがまだ前に進みたいからですよ」

 ホークの言葉は、光斗にはよくわからなかった。

 ただ、その声が、妙に温かく感じられる。

 うなずきながら光斗は、夢中になって食べ始めた。

「ああ、いきなり量を食べてはいけませんよ」

 途中、ホークに注意された。二日も絶食した体には、食べ過ぎは毒である。いきなり肉を食べることだって体には良くないはずだ。

 ゆっくり食べろと言われて、食後になにやら調合した薬を呑まされた。

 食事が終わると、その場で野宿することになった。この辺は魔物も多く、さすがに暗闇を歩き回るのは危険すぎる。

 ホークが周囲に物理結界を張ったらしく、近くに他の生き物は入ってこない。

 結界術は、仙人の得意技だと聞いている。光斗は、なるほどと感心した。

 その安心感、満たされた食欲、仙人にとりあえず遇えたという安堵感、そして過度の疲労。

 もう光斗は、睡魔に逆らえなかった。

 光斗は、三日目の夜にして、熟眠することができたのだった。


   ◆


 翌朝。

 光斗は、不思議と早めに目が覚めた。

 疲労感はまだ残っているが、信じられぬほど体調が良かった。それが昨夜の肉のせいなのか、ホークの薬のせいなのか、はたまた初めて得られた安らかな旅枕のせいなのかはわからない。

 だが、光斗は木々の隙間から見える朝日を浴びて、なにか心の中にも明るいものがわいたような気がしていた。

「早いですねぇ。もう起きたのですか。普通の人なら、起きあがるのも大変なぐらいですよ」

 光斗の気配で起きたホークの第一声だった。

「おはようございます、鷹龍様。私は日々、鍛えておりますから」

「二日以上も空腹で歩いていたくせに……化け物なみの体力ですよ」

 光斗は、ホークに自分の身分だけ、昨夜のうちに告げていた。

 罪までは明かさなかったが、国王の息子であると名のったのだ。

 しかし、彼はこうやって平気で次期王の光斗に「化け物なみ」と言い放つ。

 九龍という立場からなのか、はたまたただの性格からなのかと、光斗は考えていた。

「ああ、それから私のことは、ホークで良いですよ。鷹龍様はなんか堅苦しい感じですし」

(こういう人なのだろう……)

 不思議と彼の口調は、腹立ちを感じさせない。

 ホークは、身分を明かした後も、まるで古い友人のような親しさをこめて話しかけてくるのだ。

 まだまだ正体がつかめぬ相手だったが、光斗もそんなホークにどこか親しみを感じていた。

「さて、まいりますか」

 荷物をまとめると、ホークがそれを背負ってさっさと歩きだす。

 それはいいのだが、なぜか龍泉は光斗が持たされた。

 ホークに「杖代わりにもなるでしょう」と言われたが、杖としては重すぎる。

(まあ、命を救ってくれた武器だからな……)

 光斗は自分に言い聞かせるようにして、素直にそれを持っていた。王子たる自分に荷物を持たせるとはと憤りもあったが、こんな山奥で威厳もなにもあったものではない。

 それに今の自分には、その地位だってないようなものだ。

 二人は、昼近くまで歩き続けた。

 ホークは体力がないのか、かなり頻繁に休憩しながら歩いていた。

 彼が「ここです」と言ったときには、前のめりになり、両手を膝に載せて肩で息をしていた。

 前日まで体を酷使していた光斗の方が、よほど余裕があるぐらいだった。

「はぁ~。……あなたは、本当に化け物ですか」

「ホーク殿の体力がなさすぎるのですよ」

 光斗は思わず頬をゆるますが、気がついて渋面にする。

 自分は、笑えるような立場ではないのだ。笑うなど、自分の罪を忘れてしまったというのだろうか。

「…………」

 いや、忘れているわけではない。

 でも、このように心が一瞬でも軽くなれたのは、何日ぶりだろう。

 複雑な思いに、光斗はとまどいを感じていた。

「さて、ここから入ることにしましょうかね」

 ホークが、正面の何もない空間を指した。

 山頂に向かう、木と木の間の獣道らしい。

 そこに、特別ななにかを肉眼で確認することはできない。

 周囲の木々には緑が青々と茂り、正中に近い太陽の日差しの多くを遮っている。

 足下には、乾いた小枝や枯れた葉っぱ。その間に蠢く虫の姿も見える。

 それらを撫でるように、和風が走り抜けていく。

 寸時、ざわざわと頭上で葉が鳴いた。

 何かあるのかと見上げてみるものの、どう見ても普通の風景だった。

 だが、そこには、蓬莱を隠す【帰墟ききょ】と呼ばれる結界があるのだろう。光斗もそれを実際に目にしたことはないが、話だけは知っていた。

 光斗は、その話をもう一度、思い出す。

「ホーク殿。帰墟は、【神の廊下】を登らなければ抜けられぬと聞きました」

「いえいえ。抜けられないわけではないのですよ。【神の廊下】からが、抜けやすいというだけなんです」

 ホークが先ほど指した空間当たりに、今度は外套を翻すように払って右掌を向けた。

「例え天仙でも、九龍ほどの力でもないかぎり、力が足らずに帰墟へ落ちることが多々あるのですよ」

「落ちる?」

「そうです。だから、【神の廊下】だけは、天仙が抜けやすくしてあるのです」

 天仙と言えば、仙人の中でも選りすぐりの者達のはずだ。

 生まれついての才覚があり、多くの苦行もこなした者達のはずである。

 その能力は神氣を使いこなし、空を滑空するように飛び、瞬き一つの間に別の場所に移動することもできるという。さらに不老長寿に近い体を持ち、長の金龍に至っては、もう数百年以上も生きていると言われている。

 そんな天仙でも、帰墟を超えるのは大変なことなのだ。

 光斗は、帰墟の強力さと危険さを改めて知った。

「でも、【神の廊下】は山の反対側ですからね。回るのも面倒ですし、ここから入っちゃいましょう」

 しかし、ホークは安易だった。

「え? でも、危険と……」

「いいえ。私は抜け方を知っています(・・・・・・)から」

 異変は、ホークのその声に、反応したかのようだった。

「なっ!?」

 光斗は目を瞬かせる。

 まるで陽炎のようだった。

 いきなり、ホークの右掌の先の虚空の景色が揺れ始めていた。

 なにか見えない壁が現れたような気色が、光斗にも感じられた。

「はい。開きました」

「……!?」

 本当に倉の鍵でも開けたような気軽さで言われ、光斗は呆気にとられる。

 呪文を唱えるわけでもない。それどころか、精神統一で神氣を集中した様子もない。

 おしゃべりしながら、彼は手をかざしただけだった。

 それだけで、これだけの結界に入り口を開いたのである。

 これがどれほどの力がいることか、仙術を使えない光斗でも察することはできた。

(これが天仙、九龍の力……)

 ホークが、光斗の持つ龍泉の端を握った。そして、光斗に「龍泉から絶対に手を離さないでください」と強く念を押す。

「いくら私でも、帰墟に落ちた人間を拾い出すことは不可能に近いですからねぇ」

「落ちたら……」

「落ちたら、魂魄すべてこの世からなくなりますよ。あはは」

 ホークが言笑する。

 だが、光斗にとっては、笑い事ではない。

 ぞっとしながら、龍泉をしっかりと握りなおした。

 ホークが、陽炎に入る。

 その姿が、いびつに歪んで見えた。

 吸い込まれるように、光斗も前に進む。

 途端、目が眩む光に包まれる。

「はい。たった一歩で到着です。ここが蓬莱ですよ」

 まさしく、一瞬の出来事だった。

 気がつくと、光斗は四つんばいになって、地面とにらめっこしていた。

 いつ、膝を地面についたのかもわからないが、なんとなく地面の感触を感じて安心する。

 ふわっと鼻先に、甘く豊潤さを感じさせる香りを風が運んでくる。

(桃……)

 その香りが、一つの知識を呼び起こす。

 蓬莱は、別名【桃源郷】と呼ばれ、神氣のこもった特別な桃のなる木が、尽未来にわたり実をつけ続けると言う。

 光斗は、まるでその香りで目を覚まされたように、顔を上げて諸目を見開いた。

「ここが……」

 蓬莱で初めて光斗の目に飛び込んだのは、紅潮した女性の肌のような果実。

 それで染められた、艶やかで華やかな木々。

 そして……。

「貴様ら、動くな!」

「えっ!?」

 眼前に突きつけられた、冷たい白銀の光を放つ、自由を奪う刃であった。

堅苦しさとライトな雰囲気をブレンドすることを目指し、ほんの少しだけほろ苦さのある、大人になりきれない年代を目指して書きました。

ただ、未だに読み直すと、自分はやはりこういう話が好きなんだと思い知り、大人になりきれない自分に苦笑いしてしまいます。


次の二章では、幼女と巨躯の美少女コンビが活躍します。

また、読んでいただければ幸いです。

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