最終話 依存
「それが君の選択か。ぐっ」
俺はエマニュエルの左手を握った。そう、素手で握ったのだ。全てを破壊する俺の掌は、握ることでその能力を発揮する。それは今も例外ではない。
俺の掌から流れ出る気力がエマニュエルの左手を通り、全身へと押し込まれていく。そして、その膨大な圧力に耐え切れなくなった器は破裂するのだ。
カランカラン
右手に握られていたナイフが零れ落ち、床に叩き付けられた。俺はナイフを握れない。俺は武器で人を殺せないから。そんなものでお前を殺すことはできないから。
エマニュエルの身体は既に限界だ。血管は浮き出ており、左腕の皮膚は泡立ち始めている。眼球が飛び出さんばかりに目を見開き、体を丸め、呻く事すら出来ず、最期の時まで苦しむだけのその姿を、俺は最後まで見守った。
やがて、エマニュエルの身体は粉々に砕け散った。まるで水風船が弾けるかのように辺りに液体が拡散する。ベトベトとした不快な感触が俺を包み、視界は真っ赤に染まった。肌にぶつかる小さな粒は、エマニュエルだった物だ。死して尚、俺を手に入れようとするとは。俺が愛した人だけあって、その包容力に驚かされた。
ギギギという扉を開く音に、俺は我に返った。いつまでそれを握っていたのだろう。既に手の中からは温もりが消えている。
「エマニュエル様?」
背後から少女の声が聞こえ、振り替える。しかし、その前にもう一度小さな声が聞こえた。
「ひっ」
俺の姿を見たからか、部屋の様子からなのか、小さく悲鳴を上げた少女。真っ赤な瞳に同じ色の髪、そう見えるのは俺の視界が赤いからなのか。次第に黒ずんでいく視界の中で、彼女の髪も黒ずんでいった。
「え? そんな、はず、ない」
床に転がる物を見て気が付いたのだろう。そこには先ほどまでエマニュエルが着ていた服とエマニュエルだった物があった。血だまりに沈む服は白かった生地のお蔭か、綺麗に染まっている。その中身はなく、べっとりと床に張り付いているだけだ。
俺はただ、少女を見つめる。何をする気も起きない。この手で好きだった人を殺したのだ。あまりものを考えたくはない。
「エマニュエル様!」
わなわなと震えていた少女だったが、突然叫び、血だまりの中へと飛び込んでいった。温もりは既に失われたはずだ。その包容力も既にないだろう。それを感じることができたのは俺だけ。エマニュエルの最期を看れたのも俺だけ。エマニュエルを殺せたのも俺だけ。ははは、俺だけ、俺だけ、俺だけ。俺だけだ!
少女はそれからずっと泣いていた。エマニュエルの声が聞けないから、エマニュエルの顔が見れないから、エマニュエルと一緒に過ごせないから。目の前の少女は俺と同じだ。違うとすれば、まだ彼女は壊れていないという点だけだろう。
「あなたがやったの?」
そう、私がやった――
「ねぇ! 答えてよ!」
だから、そういってるでしょ? 私が、殺した――
「そう、そうなのね……」
そうだよ――
「うわあああああ」
血だまりに沈んだナイフを手に取り、俺の方へと駆けてくる。お前も俺と同じ道を逝くのか? 同じ選択をするのか? それならば俺も同じ選択をしよう。
ドンという衝撃とともに、俺は倒れる。少女もそのまま倒れこんだ。
エマニュエルは俺の大切な人を奪った。俺もお前の大切なものを奪った。エマニュエルは俺に殺された。それなら俺もお前に殺されよう。お前が俺と同じ道を歩むというのなら。
だが、俺とお前では決定的に違うものがある。お前の旅はこれで終わりだ。長く険しい道はすぐに終わる。俺ほどまでには壊れない。俺がここで殺されれば、復讐は終わるのだから。
ザク、ザク、ザク、と音が聞こえる。それは布が避ける音だった。
少女は俺に馬乗りになり、何度も、何度もナイフを振り下ろしている。赤黒い滴が飛び、上へ、下へとその輝きを移していた。
「うわああああ」
叫び続ける少女。力任せに何度も何度も振り下ろされるナイフ。そのたびに衝撃があったが、不思議と痛くはなかった。
これで、楽になると、俺はそう思った。二人には会えない。だって二人は天国にいるから。俺が今から行くところは地獄で、二人は絶対にいない場所だから。でも、安心して? 二人はいないけど、俺はきっと一人じゃない。だって、俺が殺してきた人たちがそこで待っているから。きっと二人の様に俺を愛してはくれないけれど、一人孤独に震えることもないと思う。だから、二人は安心していいよ。
「ゴシュジンサマ!」
不意に飛び込んできた影。俺の身体の上から重みが消え、叫び声も止んだ。
あの声はシエルだろう。あぁ、そうだったな。まだ、俺を愛してくれる人がいたんだったな。だが、ごめんな。俺はお前を一人にしてしまうよ。あんなにナイフに刺されたんだ。痛みすら感じない。俺はもう助からない。
でも、俺と一緒にいるよりも、きっとその方が幸せになれるさ。だから、サヨナラだ。シエル? 最期までありがとな。
「ねぇ! ゴシュジンサマ! シエルを独りにしないでよ! また独りは嫌なんだよ! 返事してよゴシュジンサマ! ねぇ、何も聞こえないよ? ゴジュジンサマ。ねぇ、ゴシュジンサマ?」
ごめんな、シエル。一人にして。こんなことなら、お前を連れまわさなければよかったかな。それに、ありがとうな。こんなに俺を愛してくれて。
「何にも聞こえない! 何にも聞こえないよ、ゴシュジンサマ! 謝罪も、感謝も、さよならも! 何にも聞こえないんだよ! 同じて死んじゃうの? 何処が悪いの? シエルにはわかんないよ。ゴジュジンサマ、こんなに綺麗なのに、血だって出てないのに、なんで死のうとしてるの?」
血が出てない? そんなはずはない。俺はあんなにもナイフで刺されたのだ。ナイフだって血に染まっていたじゃないか。
確かめるために、俺は腹を弄った。ヌルヌルとはしているものの、穴など何処にもない。体を起こし、目で確かめてみる。確かに穴は開いていなかった。
「ゴシュジンサマ、生きてる?」
(そうみたいだな)
「よかった! ゴシュジンサマ、生きてる!」
普通に身体が動いてしまう。異常は何処にも見られない。何があった? 状況を聞こうにも、少女は血だまりの中に沈んでおり、聞くことはできない。
「あ! そんなことより逃げないとやばいよ!」
(逃げる?)
「うん! あのおじさん強すぎて、シエルじゃ倒せなかったんだ。見えてないのに避けるし、後の方では何度か打ち込まれちゃったよ……」
(打ち込まれたって、大丈夫なのか?)
「うん、シエルは盾だからね。ゴシュジンサマも見たでしょ? あんなのじゃシエルは斬れないよ」
斬れない。その言葉にはっとした。何度かヒントはあったじゃないか。あの洞窟で、あの河原で、俺は死んでいるはずだった。腹を切り裂かれているはずだった。しかし、切れたのは服だけ。俺の身体は無傷だったのだ。
俺の皮膚は刃を通さない。その事実に気付き、納得した。あのナイフで少女は俺を殺せない。俺とエマニュエルの関係と同じだ。
そして、納得すると同時に、絶望した。俺は死ねないのだ。楽になれると、やっと終われると、そう思ったのに、それが無理だとわかったから。
「ゴシュジンサマ? 大丈夫だよ。シエルがゴジュジンサマの特別になるって言ったでしょ?」
そう言って、シエルは俺の手を握った。ゆっくりと気力が流れ、シエルを蝕んでいく。
「ふふふ、効かないなぁ」
しかし、シエルは平然とし、笑ってまで見せたのだ。
「驚くことないでしょ? 何度もシエルはゴシュジンサマに気力を貰ってるよ?」
そうだ。シエルがこの姿になる前に、何度も俺はシエルに気力を送っている。重さを変える、透明にする、そういった理由で気力を送っているのだ。
「シエルは壊れない。ゴシュジンサマを独りにしない。ずっと一緒にいる。だから、ゴシュジンサマもシエルを独りにしないで。ずっと一緒にいて」
真っ直ぐに俺を見つめる紫の瞳。揺れることなく、俺の瞳だけを見ていた。まるで、心を覗かれているような……。
「何言ってるの、ゴシュジンサマ? シエルは心を覗けるんだよ?」
(ははは、そうだったな。お前には俺がいて、俺にはお前がいる。わかった、シエルを独りにしない。だから独りにしないでくれ)
「もちろん!」
(さて、逃げるんだったか?)
「そうなんだよ! たぶん、そんなに時間はないと思う。あのおじさんに勝てなかったから、やられた振りして逃げてきたんだ。たぶん、そのうち――」
「やはりそこか!」
扉の向こう。廊下の奥にフリュベールの姿が見えた。廊下は一本道で逃げ道はない。
「見つかっちゃった!」
(なぁ、シエル? お前は盾で、頑丈なんだろう?)
「そうだけど、あのおじさんには勝てないよ? 守るけど!」
(そうか、ならこっちに来い!)
「え?」
俺は握っていたシエルの手を引っ張り、部屋の隅へと走った。逃げ道がないのなら、作ればいい。
「え? え? え? ちょっと! ゴシュジンサマ、何考えてるの!?」
俺は全てを破壊する。俺の右手にいるシエルを除いて。シエルさえ破壊しなければ、他のどんなものも破壊したって構わない。
「貴様等あああああ!」
背後に窓を控え、俺はフリュベールを見据えた。エマニュエルだった物の上に少女が横たわっているのが見えているのだろう。状況を理解したようだった。
フリュベール、覚悟は決まった。俺はこの世界を敵に回してしまったのだろう。領主の息子を殺したのだから。知り合い? 友達? そんなもの、いつ壊れるかわからない。それなら、俺の特別なものを守るために、いくらでもそんなもの壊してやる。
次に会ったとき、俺達と敵対するなら、容赦はしない。俺はいつでもお前らを殺せるんだからな。
「うわぁあああああああ」
耳元で響く叫び声。全身に受ける風が気持ちいい。マリーの魔法を初めて受けた時も、こんな感触だった気がする。独りじゃないというだけで、感情がこんなにも違うなんて。
日の光を反射してキラキラと光るガラスの破片に囲まれながら、俺達は空の散歩を楽しんだ。




