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第90話 最後の選択

「……何?」


 目を閉じたままの俺の耳の飛び込んできたのはフリュベールの驚きの声だった。

そして次に聞こえてきたのは、鈴の音の様に笑う声。そう、シエルの笑い声だ。


「アハハハハ。言ったでしょ? シエルは盾だって」


 目を開けると、首に剣を突き立てられたシエルが笑っていたのだ。心底楽しそうに。その異様な光景にフリュベールはたじろいでいた。きっと状況を知らない誰かが見たら恐怖を抱くだろう。悲鳴を上げるだろう。狂気を感じるだろう。だが俺は、嬉しかった。シエルが生きている。それだけで俺は嬉しかった。


「ゴシュジンサマ! 行って!」


 そう叫んだシエルの声に、俺はハッとする。この状況で一番扉に近いのは俺なのだ。シエルが作ってくれたこの状況を逃すわけにはいかない。シエルはきっと、俺が戦わずに済みようにこの状況を作ってくれたのだ。


「おい! 待て! あぁ! クソッ!」


 後ろでフリュベールが叫んでいる。シエルが邪魔をしているのだろう。しかし俺は振り向かない。走り出した俺は止まらない。エマニュエルの部屋までの道のりは覚えている。あの廊下を進めばきっとエマニュエルの部屋だ。


 俺は勢いよく部屋を飛び出した。






 俺が知っているのはここまで。階段を上り、廊下を歩いた先。フリュベールに呼び止められた場所まで来た。道中は運よく誰にも会わなかった。もしかしたらフリュベールが人払いをしていたのかもしれない。


 もうすぐ目的の部屋だ。真相がきっとわかる。


 この先の道を俺は知らない。そして、廊下を進んだ先に見えるのは二つの扉。あのどちらかがエマニュエルの部屋に通じているのだ。


 いったいどちらなのだろうか。音を立てないよう、注意しながら走る。近づく間にどちらを開けるか考える。右か? 左か? しかし、考えてもわからない。答えを俺は持っていないのだから。


 扉の前に来た。結局俺は右の扉を開けることにした。理由は特にない。ただ何となくそちらを選んだだけだ。


 扉を開けるとまず目に入ったのが天幕のあるベッドだ。いかにも高そうな装飾が施され、しかし、煌びやかという訳でもない。落ち着いた、それでいて高価であるとわかる装飾だった。

 初めに目についたベッドだったが、それはその巨大さ故だ。次第にその衝撃も止み、周りが見え始める。そこには沢山の人形があった。大きなものから小さなものまで、布でできたものから陶器でできたもの、木でできたものに、金属でできた様なものまである。とにかく、たくさんの人形が飾られていたのだ。


 ここは明らかにエマニュエルの部屋ではない。幸い、中に人はおらず、窓から差し込む光が一筋の柱を作っているだけだ。動く影はどこにもない。

 俺は扉を閉め、先ほど開けなかった側の扉、左の扉に手をかけた。この先にエマニュエルがいる。周りに道はなく、隣の扉の奥は部屋だった。つまり、こちらの扉の奥にも部屋があり、他に進む道はない。

 逸る気持ちを抑え、俺は扉をゆっくりと開けた。


「セレナ、扉をノックしろといつも、言って、い……る……」


 その言葉は最後まで紡がれることはなかった。扉を開けた先、窓の外を眺めていたエマニュエルが振り向きながら放とうとした言葉だ。


 会いたかったよ、エマニュエルさん――


 俺の言葉も紡がれることはない。次に聞こえてきたのはやはりエマニュエルの声だった。


「おぉ、おお! レリアじゃないか! どうしたんだ?」

 貴方に聞きたいことがあって――

「ん? 一人で来たのか? ランスやマリーはどうした。一緒じゃないのか?」

 そのことなんだけど――

「あぁ、そうだったな。ちょっと待て。今紙を用意する」


 机を漁り、紙とペン、それにインクを用意しようとするエマニュエルだったが、インクのビンを倒してしまったようだ。机の上はきっと大惨事だろう。きっと大切な書類もあったんじゃないか?


「ああ! やってしまったか。あー、すまない。もう少し待ってくれ。確かここに替えのビンが……」

 もういいよ、エマニュエルさん――


 俺は棚を開けようとするエマニュエルに首を振ってその動作を止めさせた。


「なんだ。……どうした?」

「……」


 俺はエマニュエルから目をそらなさいまま、ポケットからそれを取り出した。カラム先生にもらったもの、俺がここに来た理由、俺の瞳と同じ色をした小さな石を。


「……」


 カラカラと無機質な音が部屋を満たした。小さい音だったが、それ以外の音はそこには存在しない。物音も、声も、息をのむ音すら聞こえなかった。ただ、床に落ちた石の音だけが聞こえていた。



 あまり長くはなかったと思う。少しの間静寂が訪れ、やはりそれを破ったのもエマニュエルだった。


「そうか」


 ただ一言だけ、エマニュエルはそう言った。先ほどまで真っ青だった顔も血色を取り戻し、慌てていた様も落ち着きを取り戻した。しかし、俺の知っている、よく笑うエマニュエルは戻ってこなかった。


 それからエマニュエルは引き出しを開け、銀のナイフを取り出した。それが答えか、エマニュエル。一言違うと言ってくれれば、何だそれはととぼけてくれれば、信じたかもしれないのに。

 俺の好きだった人。エマニュエル、どうしてこんなことをしたんだよ!


「全てわかっているのだな。そうだ。俺が二人を。ランスとマリーを、お前の大切な者を、殺したのだ」


 コツ、コツ、と足音が聞こえる。エマニュエルは歩きながら話を続けた。


「二人は最後まで君を逃がそうと必死だった。ランスは素手にも拘らず果敢に戦った。マリーは枯渇した魔力で、なおも魔法を打ち続けた」


 俺の正面まで来たエマニュエルは右手に持ったナイフを俺に突きつけた。その柄を俺に向けて。


「レリアよ。殺したいほど憎いのだろう? だからここまで来たのだろう? そんな気はしていたさ。何時かこの日が来るだろうとな。さぁ、私を殺せ。このナイフで! 君の気がそれで済むのなら、私はいくらでも死のう!」


 だが、とそう続けたエマニュエルはもう一つの手を差し出した。何も握られていない左手。その手は微かに震えていた。


「もし、私に機会をくれるのなら、この手を握ってくれないか? 許せとは言わない。だが、罪を償う機会をくれるのなら、頼む、この手を取ってくれ」


 差し出された左右の手。右手には銀のナイフが、左手にはエマニュエルの希望がある。


 俺はここへ何しに来たのか。真実を知りに来たのだ。そしてエマニュエルはそれを語った。

 動機はなんだったのだろうか。何故二人を殺すに至ったのだろうか。


 エマニュエルは確かに後悔している。二人を殺したことを反省しているのだ。

 しかし、二人は帰ってこない。俺はもう二度と二人の笑顔を見ることができないし、笑う声を聴くこともできない。一緒に食事だってできないし、寝ることも、遊ぶことも、教えてもらうことも、みんな、みんなできないのだ。

 二人はもう俺の記憶の中にしかいない。楽しかった思い出、悲しかった思い出、嬉しかった思い出、いろんな思い出の中でしか二人と会うことができない。

 俺はもう、一生独りぼっちだ。側に居てくれる人はいない。


 エマニュエルを殺すことで、俺の目的は果たせるのだろうか。きっと、この心のもやもやは消えないだろう。きっと、二人は悲しむだろう。


 それならば、エマニュエルを生かしておくか? 二人を殺したエマニュエルを許すのか? 確かにそれもいいかもしれない。きっとそれが一番幸せを多く残せるだろう。二人を悲しませることはないし、エマニュエルを慕う人たちも悲しまない。


 きっとそれが一番最善の選択なのだろう。




 俺はエマニュエルの左手を握った。


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