第80話 遺志を継ぐ者
森の中は薄暗い。冬になり、木々の葉は落ちているというのに薄暗く感じるのは、天気のせいだろう。今にも降り出しそうな淀んだ空は、俺の心を映しているようだった。
今にも泣いてしまいたい、そんな気持ちだ。しかし、それを塗り潰すかのように怒りで心を満たしていく。
森へ入ると、遠くでガサガサと何かがこすれる音が聞こえる。あの男のものだろう。身長は低いくせに、横の長さはそれなりに有った。こんな狭い空間で、何にも触れずに逃げる方が無理というものだ。
俺は音のする方へと向かった。
前方に人の背中が見える。必死に駈けている様だが、その動きはのろまだ。時折、枝に服を引っ掛けながらも懸命に走っている。
俺は近くの木によじ登り、枝を飛び移りながら男へと近づいた。わざと大きな音を立て、男の恐怖心を煽るのだ。
「ひっ」
男は地面の上、俺は木の上、それなりに離れているというのに、悲鳴が聞こえる。お前が扱ってきた奴隷たちとたいして年齢は変わらないだろうに、むしろ俺の方が若いだろう。それなのにビビるなんて、それでも奴隷商人か?
俺は枝から男の上へと飛び降り、蹴りをかました。こけさせるためだけの一撃だ。そこまで威力はない。
俺の目論み通り、男はバランスを崩し、前のめりに倒れた。そして、慣性によって、こけた後もしばらく地面を滑る。
ようやく止まった男はそれでも起き上がろうとはしなかった。仕方がないため、男の脇腹を蹴り、仰向けにさせる。
ゴロンと転がった男はすぐさま上体を起こし、手足をジタバタさせながら、尻を引きずる様にして俺から遠ざかった。
「うわ」
その時もまた悲鳴が聞こえた。しかし、俺の姿を見ると、安心したように、一瞬だけ力が抜けたように見えた。
男の額と鼻は擦り切れ、血が滲んでいた。先程まで走っていたからだろうか、汗が額から頬へ、そして顎へ至り、ポタポタと男の服を濡らしている。
俺がニヤリと笑うと、男の顔に再び緊張の色が見えた。
「な、なぁ、取引をしようじゃないか!」
恐怖を振り切るように自らそう叫んだ目の前の男。死を目前にした人間の思考はとても面白い。恐怖し、どうすれば自分が助かるのかを必死に考える姿は滑稽だ。しかも、その命を俺が握っているのだから、尚更のことである。
俺は首を傾げ、続きを促した。
「好きな奴隷をやる! だから、見逃してくれないか!」
俺の代わりに別の命を差し出すから、俺を助けてくれと、そういう事らしい。コイツは何もわかっていないな。
俺は人差し指を真っ直ぐに立て、ゆっくりと腕を上げた
「……これは?」
自らの事を指差す俺を見て、男は困惑の表情を浮かべる。その意味が分からないという訳ではなく、信じられないという表情だ。困惑、恐怖、絶望、それらが入り混じった表情は見ていて面白い。
「ままま待ってくれ! わかった! わかったから! なる! なる!」
それ以上言葉を発しようとしない男に痺れを切らし、俺は右脚を前に出した。その途端に、男は堰を切ったように叫び、ポケットから黒い液体の入った瓶とペンを取り出した。
チラチラと俺の方を見ながら、震える手で袖を捲る男。大の大人が幼気な少女に怯える姿は何時見ても爽快だ。
ようやく袖を捲り終えた男は左肩が露出した状態となった。そして、その肩に、ペンで黒い印を描いていく。
出来上がった印は、河原に居た奴隷たちに書かれていた印と同じものだった。
「ほ、ほら。これで俺はお前の奴隷だ。だから、命だけは、な?」
何かをやり遂げたような、少し安心したような表情で男は俺に同意を求めてきた。口元には笑みまで見えている。その顔は面白くない。
命令。死ね――
男の顔は液体をまき散らしながら消えた。
河原へと戻ると、アル達が穴を掘っていた。その穴の用途考えると、高ぶっていた感情が沈んでいった。
俺は何も言わず、ただ、その作業に加わった。
穴を掘っているのはアルとオーバン、それに、奴隷商人が死んだことで解放された奴隷たちが数人だ。彼らの目は既に虚ろではなく、肩に有った印もその形を崩していた。
俺とクロディーヌはヴァーノンの遺体を綺麗にした。布を河の水で濡らし、こびり付いた血を拭き取っていく。綺麗になったら、髪を整え、胸の前で手を組ませた。
どうやら、穴も掘り終たらしい。泥だらけのアルとオーバンがいつの間にか隣に立っていた。
皆でヴァーノンを見つめる。彼との思い出をそれぞれの胸に抱きながら、最後の別れの言葉を口にした。
「おやすみなさい、ヴァーノンさん」
皆でヴァーノンを抱き上げ、穴まで運ぶ。ヴァーノンを傷つけないよう、ゆっくりと穴まで下り、穴の底へとヴァーノンをそっと下した。そして、土を被せていった。その姿を惜しむように、ゆっくり、ゆっくりと被せていった。
ヴァーノンの姿が見えなくなり、奴隷の一人が用意してくれた墓をその上に刺す。木で作られた十字の墓だ。
その墓が荒らされることの無い様、ヴァーノンの持ち物はあまり置いて行かないことにした。
たくさん泣いたからだろうか。皆、これ以上涙が出ることはなかった。それでも辛くない訳じゃない。泣きそうな顔で、それでも涙は流せず、余計に辛かった。
それでも、俺達は前を向いて歩かなければならない。ヴァーノンはきっとそれを望んでいるから。
「お前はこれからどうするんだ?」
オーバンがそう呟いた。することは決まっている。
「私達はこの人達を故郷へ返してあげようと思うの。レリアちゃんも来ない?」
ヴァーノンがしようとしていた事。あの承認を追いかけていた目的を引き継ごうというのだろう。
だが、俺がついて行くことはできない。俺が一緒に行ったら、その旅は失敗するだろうから。お前らの誰かが死ぬことになるだろうから。
お前らに会う前は、お前らを殺してやると、そう思っていた。でも、殺す理由が無くなって、ヴァーノンの遺志を継ぐと言い出して。そんな事されたら、死んで欲しくないと思ってしまうじゃないか……。
だから俺はついて行かない。
「そう……」
俺の返事を聞き、皆、それ以上何も言わなかった。
俺がするべきこと、それは逃げないことだ。ヴァーノンに言われた森へ行くという事。ヴァーノンが死んだ今、俺はそこへ一人で行かなければならないが、それでも行かなければならない。ヴァーノンがそう望んでいたのだから。
森へ行き、真実と向き合う事。それが今、俺がすべきことなのだ。
「餞別だ」
そう言って、アルは俺に袋を手渡してきた。中を覗くと、少しのお金と赤いドレスが入っていた。
「お前のだろ?」
それだけ言って、アルは離れていった。
俺のためにヴァーノンが用意してくれたドレス。その中には少しのお金。ヴァーノンが入れておいてくれたのだろう。俺の持ち物の中に、俺が困らない様に、死んでからもお節介な人だ。
荷馬車を揺らしながら森へと入って行くアル達。奴隷たちも含めたその大所帯は、近くの街、ベルニエの街で物資の補給をしていくのだろう。あそこなら、きっとよくしてくれる。
皆、故郷に戻れるといいな。ヴァーノンが望んだように……。
俺は揺れる荷馬車とは反対側の森へと入って行った。お節介な商人の余計なお世話を
その背に感じ、口元に笑みを浮かべ、頬には一筋の雨を垂らしながら。




