第59話 小さな嵐
俺は一体、どれくらいこうしていたのだろう。叫び声が聞こえなくなってからも、ずっと、ずっと……。
両手は血で汚れており、体中は汗でビッチョリだ。酷く気持ちが悪い。早く風呂に入りたいな。
扉を開けると見覚えのある男が立っていた。一体何処で見たんだったか。
「いやぁ、素晴らしい。素晴らしいです」
あぁ、思い出した。あの時一番最初に伸した男だ。でも、どうしてこいつが?
「中にいるのは、あのジャックなのでしょう? ジャック・デゥビラール。実に素晴らしいです」
ジャック? 誰だそれは。そんな男知らないぞ? 中にいるのは旦那だ。
「おや? 違うのですか? ……まぁいいです。それで、我々に協力してくれる気になりましたか?」
これっぽっちも? まぁ、元々旦那を処理するまでここに居ようと思ってただけだしな。そんなことより風呂に入りたいんだが? あぁ、それと水も飲みたい。
[フィリッポはどうしました?]
「え? あぁ、あの男ならば仕事をしております」
ふむ、そうか。風呂場と水を頼もうと思っていたのだが……。そう思い、ふと我に返る。何もフィリッポに頼まなくてもいいじゃないかと。今目の前にいるこの男にでも頼めばいいのだと。
フィリッポだってリーダーだ。忙しいのだろう。先程まで寝ていたと思われるこいつなら暇そうだし、いいだろう。
[水とお風呂を用意してもらいたいのですが]
「水は直ぐに用意できますが、風呂は……。そうですね、少しお待ちください」
キラキラと光る青い髪を靡かせて、その男は後ろにいる男に指示を出した。おいおい、俺はお前に頼んだんだぞ? お前が動けよ。最終的に俺の下へ水と風呂が用意されるのならば誰がやろうが関係ないが、ちょっとイラッとした。
「水の用意を。それとリュリュ等をここへ連れてこい」
「わかりました」
リュリュ? 誰だそれは。それに『等』と言っていたし、他にもいるのか。そいつらが風呂の準備をするのだろうか。だったら、準備ができてから呼べばいいのに。
「申し遅れました。私はエリック・バラティエと申します。以後お見知りおきを。貴女のお名前は?」
[レリア・ベルニエ。それよりリュリュとは誰ですか?]
「レリア・ベルニエ、ですか。おぉ、これはいいお名前だ。実に素晴らしい」
そうだな。素晴らしい名前だ。それには同意する。だが、俺の質問に答えろ。
「リュ、リュリュは街に住んでいる少年です。まだまだ子供ですが、我々と心同じくする仲間ですよ。他にも、我々に協力してくれる子共たちがたくさんいます。もうすぐ、その子らがここに来るのです」
うむ、説明ご苦労。早く答えてくれれば俺だって睨まずに済んだんだ。またおネンネは嫌だろう?
「彼らには貴女に街案内を頼もうかと。風呂場も街の中にありますし、そのついでです。いかがでしょうか?」
なるほど、そう言うことなら。
この地下空間は居住区がほとんどだ。探索をしてわかったのだが、ベッドの数が半端ではない。所狭しと並べてあるのだ。
しかし、街に住んでいる奴らもいるんだな。なら、街に住んでいる奴らの方が案内に向いているだろうし、わかった。そいつらについて行くとしよう。
しばらくして、エリックの言っていた少年達がやって来た。
「こちらが先程申し上げたリュリュです」
そう言われ進み出た少年を俺は覚えていた。旦那に人質に取られていた子だ。俺が怖いのだろう。顔が強張っているし、手足は震えている。あの惨劇を見たら、そりゃ、怖いよな。
「リュリュリュリュリュリュです!」
おー、リュがいっぱいだ。長い名前だな。そんな冗談はさておき、少年の手足は尋常じゃない程に震えていた。大丈夫だ。お前には無いもしないから。俺は努めて笑顔を作った。
「みみみみみずです!」
盆に乗ったカップからはピチャピチャと水が跳ねており、中身は半分も入っていない。大丈夫か、こいつ……。はぁ、仕方がない。
[リュリュリュリュリュリュさん、よろしく]
「おおおお俺の名前はそんなに長くない!」
「あはははは、リュリュリュリュリュリュがすごい人って言うからどんなのかと思ってたら、面白い子じゃない! よろしくね? えーと――」
「ジルダ! うるさい!」
「あら、いいじゃないの。リュリュリュリュリュリュ? あー、舌噛みそう」
「ミロ! なんか言ってやってくれよ!」
「うるさいぞ? リュリュリュリュリュリュ? 俺らだけで騒いでたらダメだろ? 俺はミロ、君の名前は?」
「うがあああ!」
[レリア・ベルニエです]
紙を覗きこむ三人。何故か沈黙が続いた。ベルニエの名前を出したのが不味かったか? エリックの時は特に問題はなかったのだが……。
ふと視線を移すと、三人の後ろに少女が隠れていた。紫の髪を伸ばし、前髪は目元まで伸びている。他の子よりも少し小さいその子は表情こそ読み取れないものの、その行動から大体の心理が推測できた。俺もそういう事していたことがあったし。その時は演技だったがな。
「……リュリュ? 読めるか?」
「いや、まだ自分の名前くらいしか……。ジルダ……、は訊いても意味ないな」
「何よ! 私だってこれくらい――」
「「読めるのか?」」
「……無理」
「だよなぁー」
「「「ハァー」」」
「なぁ、これ、何て読むんだ?」
ジルダ達のおかげで、リュリュの恐怖は解れた様だが、別の問題が発生してしまった。字が読めないとは……。訊ねられても俺は文字以外で答えることができない。
俺はエリックを見上げた。
「ここには、『レリアです。よろしく』と書いてあるんですよ」
「おー! やっぱりエリック様はすごいですね! 家の男どもとは大違いです!」
「うっせ! 俺だって字くらい……」
「んー? 何か言った? リュリュリュリュリュリュ?」
「お、れ、の、な、ま、え、は! リュリュ、だ!」
仲がいいんだな。お互いが信頼できているからこそのからかい。笑っているジルダはもちろんだが、不貞腐れているリュリュだってこの時間を楽しんでいる。その二人の様子を見ているミロも、その後ろで覗き込んでいる女の子も、皆、楽しんでいるのだ。
この他愛のない時間を大切にして欲しいと、俺はそう願った。だって、それは、何時までも続くものではないのだから。
「さあ、行きましょう?」
そう言いながら、ジルダが俺の手を引っ張る。しっかりと手を握り、力強く、それでも優しく、何処かで感じたことがある様な引き方で俺を引っ張っていった。
しかし俺はそれを握り返すことはできなかった。優しいその手が、繊細なその手が、壊れてしまうかもしれないから。
「それにしても、レリアは随分と汚れているな?」
「だから風呂に行くんだろう?」
「ちょっと、二人とも! 女の子に向かって失礼よ!」
「しつれい」
通路を流されるままに走っていると、今まで一言も話さなかった女の子がいきなり喋った。思わずそちらを凝視してしまったのだが、案の定、女の子は直ぐに隠れてしまった。やはり怖がらせてしまったか……。
その動作により、一同は走るのをやめた。
「こら、ヴェラ。何時までも隠れているんじゃないぞ」
そう言って、背中の女の子を前へと追いやるミロ。ワタワタと慌てるその子に俺の頬は綻んでしまう。
「ほら、ちゃんとあいさつして?」
「うぅ……。スゥー、ハァー……。ヴェ、ヴェラ、です。よ、ろ、しく」
よろしく――
こうして俺はレジスタンスの子供たちと知り合いになった。




