第53話 空腹と怒り
第6章スタートです
荒野を一人歩く。いや、正確には二人か。まぁ、歩いているのは一人だし、独りであることにも違いはない。
季節は冬。俺が旅立ってから一か月以上が過ぎており、辺りは薄らとした白いベールに包まれていた。
初めて雪というものを見たが、踏みしめるたびに消えていくそれを見て、俺は切なくなってしまった。
後ろを振り返れば俺の足跡はなく、引き摺った袋の跡が残っているだけ。俺の歩んだ道はかき消され、そこには復讐の跡が残る。それはまるで今の俺を示しているように感じたのだ。
再び俺は足を進める。今の感情を思い出さないように考え事をする事にした。議題は袋の中身をどうするかということだ。
皮剥ぎ、肉削ぎ、八つ裂き、頭蓋骨を割って脳味噌を弄るのもいいかもしれない。しかし、奴は今眠っているのだ。これでは与える苦痛が減少してしまうし、反応だって見れない。早く目を覚まして欲しいな。
何度も考え、導き出した答えに辿り着く。袋の方へ目を向けると、中身はもぞもぞと動いているようだったが、暫くすると触手が伸び、その動きを止めてしまう。
街を出てからというもの、こんな状態がずっと続いているのだ。いったい何時になったら目を覚ますのだろうか……。
「ハァ……」
幾度目かの光の拡散を見て俺は溜め息を吐いた。そろそろ食料も尽きる。思えば、食事の管理をしながらの旅はこれが初めてかもしれない。野宿をする場所を決めるのも、火を付けるのも、食べるものも、全て俺が決めるのだ。それは自由なはずなのに、そう感じることはできなかった。
連れ去られたり、我武者羅に走ったり、そんな旅の仕方の方が、今よりも気持ちは楽だったのかもしれない。だが、そんな事ばかり言っていられないのも事実だ。俺は独りなのだから。
新たな食糧を探すため、周りを見渡した。しかし、視界に広がるのは雪の被った荒野だけ。獲物となりそうなものは何処にも見当たらない。
ふと視界の隅に大きな袋が入った。
こいつを食うか?――
そんな考えが一瞬頭を過るが、憎悪が増すだけで、空腹は満たされなかった。こんな奴を食うなんて、こんな奴が俺の身体の一部になるなんて、吐き気がする。
「フゥー……」
一つ息を吐き、怒りを抑え込んだ。怒っていても仕方がない。まぁ、二、三日なら耐えられるだろう。それまでには街に着くはずだ。こんなことなら、街までの距離を訊いておくんだったな。
もう一度溜め息を吐き、俺は足を進めた。
遠くに鹿の群れが見えた。食べるものが少ないせいだろうか、少し痩せて見える体躯は、それでも空腹を凌ぐには十分過ぎる大きさだ。
群れではなく、一頭だけぽつんといるソイツに親近感を抱く。
頭に角が生えていることから雄だろうということが予想できた。繁殖の時期ではないこの季節。雄は一頭でいることが多い。雌を獲得するための戦いに備えているのだ。
群れから弾かれたわけではない。俺とは違う理由で独りになっているが、それでも俺を投影してしまった。柄にもなく可哀想と思ってしまったのだ。
俺は雑念を振り払うように首を振った。この世は弱肉強食。アイツは獲物で、俺は狩人だ。命を奪い、それを引き継いでいく。生きるってそう言うことだろ?
鹿は俺に気付いているのかいないのか、雪の中に顔を突っ込み、食べ物を探しているようだった。隠れるものがないかと辺りを見渡すが、平地しかない。無いよりはマシだろうと、俺は盾の後ろに隠れた。
足音を立てないよう、ゆっくりと歩いて行く。盾を軽くし、慎重に一歩、また一歩と足を進める。
ある程度近付いたところで、鹿が此方をジッと見つめてきた。耳を傾け、明らかに警戒した様子だ。これ以上近付くのは無理だろう。
俺は蠢く触手に神経を集中させた。気力を流し込み、あの鹿を貫くように指示を出す。少し遠いかもしれないが、あそこで転がっている奴よりはいいだろう?
しかし触手は動こうとしなかった。俺の冗談ばかりか、指示さえも聞き流し、いつもの様に盾の周りを這いずり回っているだけだ。
しばらく、三者の膠着状態が続いたが、結局、逃げられてしまった。
飛び跳ねながら去る肉を見送りながら、お腹を摩る。食料が切れたのが昨日のことだ。今日は朝から何も食べていない。もっとも、その前だって一日干し肉一切れとかだったりしたのだが……。
俺は袋を回収するため、トボトボと引き返した。一歩、二歩、三歩。すると、先程まで無反応だった触手がシュルシュルと伸び、袋に突き刺さった。何度も見た光景だったが、今はそれに憤りを感じる。
何故今になって伸びるのか。先程伸びてくれればよかったじゃないか。こいつは一体何を考えているんだ? お前は何時でもそれが食べられるかもしれないが、俺はそうじゃないんだぞ?
無性にイライラする。空腹からの八つ当たりだろうか。だが、こいつもこいつだ。俺を助けてくれてもいいじゃないかと思う。お前が魔力を吸えるのも俺のおかげだろう? それなら代わりに俺の食料確保を手伝ってくれてもいいじゃないかと。
そうだ。コイツが居なければ、コイツさえいなければ、袋の中身だって始末できるし、身軽になった俺は歩く速度だって上がったはずだ。今頃は城塞都市でおいしい物を食べていたかもしれない。もしかしたら、既に別の街へと向かっている途中だったりするのかもしれないのだ。
そう、全てはこの盾のせい。この触手のせいなのだ。
俺は怒りに任せ、ありったけの気力を流し込んだ。俺の気力に耐えられる盾だ。かと言って壊してしまってはいけないと、今までは流す気力をセーブしてしまっていたが、こんなに我儘ならば、いっそ壊してしまえ!
スッ――
何かが繋がった気がした。しかし、やがてそれが確かだったことがわかる。何かが俺の中へ流れてくるのだ。それは触手ではない。形を持たず、ドロドロとした何かは俺の腕、肩、胸へと流れ、広がっていく。
その広がりが頭にまで達したとき、俺はそれが何だったのかわかった。
それは記憶だ。
白い髪に赤い瞳の男。右手に折れた大剣を握り、虚ろな目でこちらを見据えていた。
男が次第に大きくなる。いや、近づいてきているのか? よくわからないが、兎に角、男は覆う様にして視界を満たしていった。
次の瞬間、視界が真っ赤に染まる。赤黒く、ドロドロとしたそれは俺がよく見る景色だった。血に染まった赤い視界だ。
男が離れ、様子がわかるようになる。
視界のせいだろう。先程まで真っ白だった男の髪は赤黒く見えた。また、男の服には縦に大きな穴が開いており、口からは何やら液体を吐き出していた。
剣で貫かれたのだろうか。口元を歪め、しかし、先程まで虚ろだった瞳に、確かに光が宿っていた。そして、何か呟くように口を動かした途端、男は崩れ落ちてしまった。
視界が素早く動き、複雑な影が映し出された。それが曇り空だということに気付いた時、視界の隅に、一瞬、髪の毛が映った気がする。赤く染まった短めの頭髪。その色は赤だったと思う。
記憶が途切れ、俺の中に感情が発現した。流れ来る感情は俺の中に滞留し、やがて渦を巻き始める。その渦が俺を満たし、感情を生み出した。怒り、憎しみ、後悔、疑念。様々な負の感情が湧きだす中、最後に一つだけ、謝罪の感情が強く浮かび上がり、消えた。




