第20話 喪失
「レリア、マリーが呼んでる」
ランスが居間に来て、俺にそう告げた。
「行ってくるんじゃ」
カラム先生に背中を押され、俺は寝室へと向かう。
寝室には上体を起こした姿勢のマリーがいた。なんだ、元気になったのか。そんな考えが頭を過るが、直ぐにそれは勘違いだと分かる。マリーは無理をしているのだ。愛する娘のために、弱いところを見せまいと、自分は大丈夫だと、そう示そうとしているのだ。
「ふふ、レリアちゃん、ごめんなさいね。直に良くなるから」
そう言って微笑むマリーの顔はとても元気になるような人のそれではなかった。俺は涙が出そうになるのをグッと堪える。
マリーが元気に見せているのだ。俺が泣いてどうする? マリーの努力は? 俺は努めて笑顔を見せた。
「レリアちゃん、ちょっと後ろを向いてもらえる?」
言われた通り、マリーに背を向ける。そして、マリーは俺の髪飾りに手を掛けた。しかし、うまくいかない。ちゃんと力が入らないのだろう。でも俺は、それを黙って受け入れた。マリーが納得のいくまで、俺はマリーに身を任せた。
「ふふ、レリアちゃん、似合ってるわ」
歪に結われた二束の髪。白と黒の髪飾りが俺の頭に付いていた。殆ど見えていないのだろう。俺に向ける鏡は少しずれているし、焦点もあっていない。それでもニッコリと笑って俺に似合っているというマリー。
左右で色も形も違う髪飾り。でもそれは、きっと、似合っているのだろう。俺のお母様がそう言うんだから間違いない。俺のたった一人のお母様がそう言うんだからな。間違いであるはずがないんだ。
「成人の日まで、もう少し先だけど、プレゼントよ。私は何時でもレリアちゃんの傍に居るわ」
まるで、これが最期であるかのように言うマリー。さっきは直ぐに良くなるって言ったじゃないか。そんな我が儘を言いたくなる。直ぐに良くなって、また、俺と一緒に遊んでくれと、料理を教えてくれと、抱っこをしてくれと。しかし、そんな事を言ってもマリーを困らせるだけだ。そんなこと、言ってはいけない。
俺はこの人に何か恩返しをできただろうか。貰ってばかりではなかっただろうか。
ほとんど恩を返せてはいないだろうけど、それでも、少しだけでも返せていると思いたい。マリーは幸せだったと信じたい。でなければ、俺に見せるこの笑顔はなんだというのだろうか。
「レリアちゃん、ごめんなさい。少し寝るわね」
そう言って、目蓋を落としたマリー。大丈夫。まだ息はある。
マリーに何か渡そう。天国でも俺と繋がっていると示せるように。それで、少しでもマリーに返せたらなと思う。
俺は静かに扉を閉め、自分の部屋に向かった。ランスは終始無言で俺達のやり取りを見ていたが、寝室から出るつもりはない様だった。ただ黙ってマリーの隣に座るランスは、まるで、一つの完成された彫像の様で、それでいて、何かが足りない様で。
俺は自分の部屋に置いてある赤いドレスを引っ張り出す。他の服とは違う、明らかに上等な生地。そして俺はそれに、ハサミを入れた。
結局、翌朝まで掛かってしまったそれを持って、俺は寝室へと向かった。
ランスは静かにマリーの隣に座っており、まだ寝ている彼女を見つめている。
俺はマリーが起きるまで待つことにした。床に腰をおろし、ただ、マリーが起きるのを待つだけ。静寂が部屋を満たしており、時折聞こえる鳥の声がよく響いた。
「んっ……」
やがて、マリーは目を覚ました。
「おはよう、レリアちゃん、ランス」
掠れた声。今にも消えてしまいそうな、こちらが先に泣き出してしまいそうな、そんな声で俺達とあいさつをするマリー。
相変わらず焦点はあってないし、身体に力も入っていない。それでも、俺達の前では決して弱いところを見せまいとマリーは気丈に振舞っていた。
マリーはもう、字を読めないだろう。それでも、俺はマリーに紙を見せた。俺の言葉は届かないかもしれない。それでも、最後まで日常を演じるのだ。
[お母様、渡したいものがあります]
「ふふ、何かしら?」
噛み合っているようで、噛み合っていない会話。
俺はマリーの金の髪に手を掛けた。長く、艶のあった髪。今では毛先はボロボロに傷んで、艶もなくなっている。
俺はその髪に、俺の気持ちを結んだ。昨晩、俺のドレスと引き換えに作ったそれ。金の髪に、紅色という、奇妙な組み合わせ。それでも、俺の色だから。俺はマリーと一緒に居たいから……。
それに、マリーにはやっぱりあの髪型で居て欲しい。だから俺は髪飾りを作った。輪っかは作れなかったからリボンになってしまったけれど、それでもマリーに結ぶことはできる。ポニーテールは作れる。
赤いリボンを頭に付けたマリー。そのリボンは酷く歪で、汚いけれど、マリーに似合ってるんじゃないかな。マリーの娘がそう言うんだから、そうなんだ、そうなんだよ……。
俺はマリーを鏡で映した。
「ふふ、レリアちゃん、ありがとう」
鏡を見ているようで見ていない。それでも髪が結ばれたと言う事はわかったのだろう。ゆっくりと探るようにリボンを触りながら、マリーはお礼を言った。
これで、俺もマリーの傍に居る。いつまでも、ずっと。
マリーはこの後、再び眠ってしまった。次に目を覚ますのは何時だろう。その時、俺はまた、マリーと話せるのだろうか。泣かずにいられるのだろうか。
俺達は朝食をとるため、寝室を出た。食事は喉を通らないが、マリーに元気な姿を見せなければいけないし、マリーがいつでも食事ができるように、何か作っておかなければいけない。
トントン……トントン……
俺達が寝室を出たと同時に玄関で扉を叩く音がした。カラム先生だろうか。ランスは玄関へと向かい、俺は台所に入った。マリーでも食べられる柔らかい食事を準備しないと。
「レリア! マリーを連れて逃げろ!」
玄関に行ったはずのランスが叫び声を上げた。そして、直後に響く何かが壊れるような音。
何が起こったのかわからなかった。ランスの言葉を理解できなかった。どうした? 俺は何をすればいい?
混乱し、動けない俺に、再び叫ぶ声が聞こえる。
「レリアちゃん! こっち!」
先程、眠ったはずのマリーが寝室のドアを開けてこちらに向かって声を上げていた。どうしてマリーが? 元気になったのか?
俺はフラフラとマリーの方へと歩き出す。マリーの元へ辿り着き、ぎゅっと手を回す。
「大丈夫よ、大丈夫。レリアちゃんは私たちが守るから」
壁に手を付きながら、俺に優しく呼びかけるマリー。片手は俺の頭の上に置かれていた。
そんな身体でどうやって?――
そんな意見を挙げる俺が居た。だからなんだ? マリーが大丈夫だといったんだ。守ると言ったんだ。それなら何も心配する事は無いだろう?
急いで寝室へと移動する。寝室の窓を開け放ち、先ずは俺がそこから出た。
転げ落ちるようにして窓から脱出し、後ろを振り向くと、そこには両手を前に突き出したマリーがいた。両手からは薄緑色の魔力が発され、その魔力が俺を包んでいく。
……そんな、……待ってくれ。今、マリーが魔法なんか使ったら――
急いで窓へと引き返し、壁をよじ登る。背の低い俺じゃ、窓の中を覗くことすらできない。とにかく、今はマリーを止めないと。
俺を守る? そんなの……、そんなの! マリーが傍に居てくれなきゃだめだ! 最期のその時まで、俺は一緒に居たいんだ!
ランスだって、きっと戻ってくる。あんなに強いんだから、直ぐに戻ってくる。だから、マリー、傍に居てくれ。俺を一人にしないでくれ!
直後、後ろに引っ張られる感覚。吹き乱れる風は何だかとても優しくて、温かくて……。
どんどんと引き離される俺達の家。そして、酷く顔を歪めて、それでも、必死に笑顔を保とうとしているマリーの姿。
嫌だ! 俺を一人にしないでくれ! もう、一人になるのは嫌だ! 頼む! 頼む。頼むから……。
「生きて!」
そう強く叫んだマリーの声が森の中に木霊した。
書いてて泣きたくなりました。




