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2019/4/15
横たわるイッペラポスを見やる。体躯や角の枝分かれ、目元の皺から推定するに、四、五歳だろうか。やはり若い。縄張りを奪われたにしては若すぎる。戦った感じ、大きな怪我をしていたようにも見えなかった。
それに、イッペラポスの生息地は森のかなり奥地だ。今までこんなところまで出てくることはなかった。森の中で何かが起こっているのかもしれない。これは調査が必要だな……。
だが、先ずはこの死体の処理だ。下手にアンデッド化されても困る。俺は周りに敵の気配がないことを確認してからレリアを呼んだ。
「レリア! もう降りて来ても大丈夫だ!」
俺が声をかけるとレリアは恐る恐る木から降りてきた。余程怖かったのだろう。酷く疲れた顔で、額には汗で髪の毛が張り付いている。頭を撫でて安心させてやろうと手を伸ばしたが、両手が血で汚れていることに気付いた。
ズボンの裾で血をぬぐっていると、レリアはこちらに近づき、血で汚れるのも気にせず、こちらの身体をぺたぺたと触っている。怖かっただろうに、先ず俺の心配をしてくれる、その気遣いに俺は胸がいっぱいになった。
「大丈夫だ。何処も怪我はしてないよ。レリアは大丈夫か?」
ようやく手を拭い終えた俺は、レリアの頭をわしゃわしゃと撫でた。レリアは俺が頭を撫で終わるまで目を細めて気持ちよさそうにしていた。緊張は少しほぐれた様だ。次はもっと、レリアが安心してみていられるような戦いをしなければ。
俺が決意を新たにしていると、レリアは及び腰になりながらもイッペラポスの死体をツンツンと突きだした。イッペラポスの大きさに圧倒されるレリアをみてほっこりするも、すぐに処理を済ませなければと思い出す。堪能できないことを恨めしく思いながら作業に移った。
「さて、レリア。血の匂いを嗅ぎつけてオオカミとかが寄ってくるかもしれない。ここはまだ俺たちの縄張りの中だから、そうそう寄ってくることはないと思うが、危険なことには変わりないんだ。こいつを処理してしまおう」
俺の言葉にレリアは大きく頷いた。聞き分けのいい子だ。もう少し我が儘を言ってほしいと思う時もあるが、こういう時はその聞き分けの良さがありがたい。
「今日はお父さんがやるが、今度、イノシシかなんかでレリアも一緒にやろうな。一応簡単には説明をしながらするつもりだが、あまり時間がない。説明が下手くそでも許してくれよ」
レリアは死体から少し離れた場所からこちらを見ている。こうやってじっくりとみられると緊張するが、我が子が見ているんだ。あまり失敗したくないな。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
シカと聞いて、何が危険なのかと思っていたが、いざ遭遇して戦うところを見たら、その怖さがわかった。公園にいる様な鹿とは全然違う。大きさは二倍はあるし、角だって、まるで網みたいに張り巡らされていて、捕まったら容易に逃げだせないだろう。走って激突した木を見れば大きく抉れて、今にも倒れてしまいそうだ。
そんな相手をランスは魔法を駆使しながらなんとか倒した。斧を奪われた時は本当にどうしようかと思った。ランスが死んでしまうんじゃないか。俺はこんなところで見ている事しかできないのかって。
でも、その後のカウンターで見事に勝利したんだ。怪我がなくてよかった。本当にランスは強いんだな。
「いいか、レリア? 解体で大事なのは速さだ。さっきも言った通り、血の匂いを嗅ぎつけてオオカミなんかの肉食獣が寄ってくるって言うのもそうだが、何よりも肉や皮の質が低下するんだ。肉がベチョベチョになったり、皮がボロボロになったりな」
先程倒したばかりのコイツ、イッペラポスだったっけ? まぁ、こいつを解体するらしい。家に持ちかえればいいのにとも思ったけど、なるほど、腐ってしまうのか。
だとしたら毛皮に付いている菌が悪さをするんだろうなぁ。細菌の存在は知っているのだろうか? その概念を知らずに結果がわかっているっていうのもすごいよな。前の世界での細菌発見はいつごろだっただろうか。確か、理科の授業で自然発生説がどうのこうの言っていた気がする……。もっと勉強しておくんだったなぁ、なんてことを考えていると、ランスは鞄をごそごそと漁り、麻紐を取り出した。
「先ずはお腹の中身が外に出てこないように処理をするぞ。うんちやゲロだな。特にシカは反芻をするからな。ゲロが出やすい。あー、反芻って言うのは、お腹の中の物をもう一度口の中に戻して噛むことだ。そうするといっぱい噛めるから食べた草を消化しやすくなるんだよ」
ウシとかがモグモグしてるやつか。なんかテレビで見たことがあるぞ? ボーっと見ていたから詳しい内容は覚えていないが……。
ランスは力無く垂れ下がった尻尾を持ち上げると、肛門よりちょっと下にナイフを突きさし、拳が入るくらいの切れ目を空けた。
「あとで皮を剥ぐときにやりやすいように縦にナイフを入れるんだ。中の腸を傷つけないようにな。傷つけると直ぐに中身が漏れちまう。後は、麻紐で腸を結んでやれば……よしできた」
ランスは言いながら切れ目に手を突っ込み、少しもぞもぞとした後、腕を引き抜いた。どうやらできたらしい。俺も見えなかったが、ランスだって手元は見えていなかっただろう。手際の良さに俺は驚いた。
「さて、前の方もやるぞ? 今回もナイフは縦に入れるんだ。いいな?」
そう言ってランスはイッペラポスの致命傷、戦闘中に突きさした場所よりも上、頭と首の境目辺りの喉にナイフを突きさし、またごそごそとやっていた。今度はドクドクと血液が切り口から溢れてくることはなかった。肛門の時もそうだったが、うまく血管を避けているらしい。
「手を入れると血管と食道、それに気管がある。まぁ、手触りで分かるだろうが、厚みがあって柔らかいやつが食道だ。それを結ぶんだ。その次は放血だな」
今度は後肢にナイフを突きさした。血を抜くなら、首の開いたあの傷を使うのではないだろうか? そんな疑問にランスの解説は続いた。
「この踵の部分。骨の後ろに骨より少し柔らかい太い筋があるだろう? これはアキレス腱というんだが、体重を支えるだけの丈夫さがある。ここを利用して吊り下げるんだ。そうすると首の傷から血が下に落ちていくだろう? さて、レリア。ちょっと手伝ってくれ」
言いながらランスはアキレス腱と骨の間に穴を空け、腰に吊り下げてあったロープをその穴に通した。両足に通し終えると辺りを見わたし、適当な太さの枝にロープを引っ掛けた。
ランスの言葉に俺は頷き、ロープの端を掴んだ。
「さあ、行くぞ。せーのっ!」
ランスの掛け声で思いっきり引っ張る。ロープがピンと張られ、ギリギリと音を立てた。ミシミシと枝が撓る中、イッペラポスの身体が少しずつ持ち上がっていく。思ったほどは重くない。ランスの力が相当強いことがわかった。
「ふー。やっぱり大きいな。レリアが居て助かったよ。一人じゃ持ち上げられなかったかもしれない。ありがとうな」
方便だろう。こんな小さな体から、どれ程の力が出る? ほとんどランスが持ち上げたようなものだ。それでも、お礼を言われると悪い気はしない。俺は素直に喜んだ。
ポタポタとイッペラポスの首から血液が垂れ、その下の草葉を濡らした。初めは朝露の様に血液を弾いていたけれど、その量に耐えきれず次第に沈んでいき、最後にはべったりと地面に張り付いた。赤黒く染まったドロドロの地面に沈む草葉。その様はイッペラポスが地上に残す最後の足掻きのように思えた。
ランスは臭いの素の入った大きな箱を台替わりにその上へ乗り、作業を再開した。
「よし、続きをやるか。次はお腹を切り開いて内臓を取り出すんだ。ナイフを入れる時は内臓を傷つけないように慎重にな」
そう言いつつ、ランスは何のためらいもなくブスリとナイフを腹に突き刺し、下に引いていった。開いた腹からは小腸だろうか? グレーのブヨブヨとした脳味噌みたいな組織が漏れ出た。
「この胸のところだが、真ん中の太い骨に細い骨が何本もくっついてるのが見えるだろう? 筋肉で見え難かったらごめんな。この下に肺とかがあって守られてるわけだが、こいつを切るにはちょっとしたコツがいるんだ」
ランスの言う通り筋肉で見えにくいが胸骨と肋骨があるのがわかった。
「真ん中の骨とその周りの細い骨は軟骨っていう柔らかい骨で繋がってるんだ。だからそこを切ってやれば小さいナイフだって簡単に切断できるんだ」
言うが早いか、ランスはバツンバツンと肋骨を切断していく。いや、軟骨だったか? とりあえず簡単に胸が開いてしまった。奥にはツブツブしたピンク色の組織があるようだ。きっと肺だろう。
「あとは簡単だ。肛門をナイフでくりぬいて、背中側に手を入れてやればすぐに取れるぞ」
ランスの言う通り、内臓はズルズルとはがれる様に垂れ、ものの数秒でべチャリと地面に落ちた。肛門側には先ほど結んだであろう麻紐がくっついている。
「あとは喉の部分を切ってやれば……ほら、この通り」
顎の下、頭部と首のギリギリの境目にナイフを入れると、ボトリと二本の管が落ち、内臓と胴体が完全に切り離された。
「内臓も食べられるんだが、腐りやすいからな。今回は捨ててしまおう。次は皮をやるぞ。今度一緒に解体するときは内臓よりも皮を先にやろうな。内臓を取り出すのに手間取る様だったら、先にやってしまった方がいい。死んでから皮を剥がずにそのままにしておくと、鞣すときに毛がボロボロに抜けてしまうんだ。さらに時間が立てば鞣す事すらできなくなる。なるべく早く冷やしてやるのが大切なんだ」
確かに、ランスの手際の良さはここまでで充分わかった。イッペラポスを殺してから五分と経っていない。俺がやろうとすれば、いったいどれくらいの時間がかかっただろうか。
「今からやる方法はレリアにはちょっと難しいかもしれないが、早く皮が剥げるんだ。時間がないから今日はこっちでやるぞ」
(コクッ)
「先ずは後肢、踵のちょっと上の革をこうやって切るんだ」
ランスは踵の骨の出っ張りの根元にナイフを当て、脚を一周する様にグルリと刃を滑らせた。次にその切り口から内股側を股関節に向け真っ直ぐに切り込みを入れた。それを両足とも終えると台から降り、前脚に手をかけた。
「次はここ、手首のあたりだな」
後ろ脚と同様に前脚を処理したランスは最後に地面をまっすぐに見つめるイッペラポスの頭に触れた。
「最後に首だが、普通のシカならさっきと同じようにグルンと一周させてやればいいんだが、今回はイッペラポスだ、鬣がある。この鬣が重要だからな」
そういうと頭頂部、前髪のように生えていたそれの生え際に刃を滑らせ、皮ごとペリペリと剥していった。後頭部、頭と首の境目まで鬣を剥ぎ終わると、刃の進路を直角に変更し、真っ直ぐと降ろした。そのまま首を一周し、鬣の場所へと戻った。
「よし、これで準備は終わりだ。あとは上から一気に引っ張れば……」
言いながらランスは台に上り、もふもふとしたお尻の白い毛に手を突っ込んだ。そのまま、がっちりと皮を掴むと、ずるりと、まるで全身を使ってバナナの皮を剥くようにイッペラポスの皮を剥いだ。
「この方法は早いんだが、脂とか余分のものがついてきてしまうんだ。あとでそれをとらなきゃいけない。あとは関節を外して、骨を取り除くんだが、続きは家でやろう。時間がかかり過ぎる」
(コクッ)
「さて、袋に詰めてしまおう。」
ランスが持ってきた麻袋に皮と肉を別々に詰めた。肉の方には頭がついており、角が邪魔で入りきらないため袋から頭だけが飛び出ている。空いたままの瞼から覗いている虚無の瞳が俺を見つめていた。
怖いはずなのに目が離せない。焦点の合ってないその目は暗く、深く、何もない。そんな世界に吸い込まれてしまえば、俺はまた一人になってしまう。何もない世界に、ポツンと独り、俺だけがいる。そんな世界だ。
「レリア」
ランスの低く、呟くような声にはっと我に返り、俺はランスを探した。
ランスは俺の直ぐ側に居た。麻袋を担ぎ、帰る支度は万端のようだ。けれどランスは俺の方でも、帰る方向でもなく、森のある一点を見つめていた。
「フォレストファングだ」




