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2019/04/09
ランスと俺はいくつかの地点で作業を終え、次の地点へと向かっていた。間に昼食を挟み、今は昼過ぎ、おやつの時間くらいだろうか。ポカポカとした陽の温もりが睡魔を誘う。だが、ここは危険な森の中。寝てたら大変なことになる。俺は眠気を飛ばすため頭を軽く振った。
辺りを見渡すと乱立していた木々もいつの間にか少なくなり、空を覆う枝葉のまだら模様は緑と青の比率が半々くらいになっている。太陽光がよく当たるからだろうか、地面は草花に覆われており、時折、光沢質の葉が反射する光が目に入って眩しい。
何故光を反射する葉があるのだろうか。光合成のために葉は光を吸収するものなんじゃないだろうか。そんなことを考えていると次の地点に到着したらしく、ランスは荷物をおろし、木の根元を覗きこんだ。
「これは……」
ランスはそう呟くと俺を手招きした。先程までとは違う反応に不安になりながらも、俺も覗き込んでみる。するとカピカピになった臭いの素の上に大豆ほどの大きさの楕円形の黒い粒が幾つか転がっていた。
「これはシカのうんちだな」
シカの何が問題なのだろうか。シカに怖いというイメージはない。昔修学旅行で見たシカは可愛かったなぁ。人懐っこいし、シカ煎餅を持って歩いたら後ろからトコトコついてくるんだから。あ、でも、角で突かれたら危ないか。それでもこちらから手を出さなければ襲ってくることもないと思うが。
「さっき、うんちやおしっこが縄張りに関係しているって話しただろ? つまり、シカだってうんちやおしっこで縄張りを示しているんだよ。そしてこれは俺の残したものの上にしてある。縄張りを主張するためのものの上に自分の縄張りを主張するものを乗せたんだ。つまり、この縄張りは俺のものだと、そう、このシカは言ってるんだ」
へぇ~。そんな意味が。シカって案外凶暴なんだな。他人の縄張りを奪うなんて。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
若いやつがこっちに流れてきたのか? それにしては変だな。群れから独り立ちしたにしてはすこし時期が早い。普通は繁殖期である秋の初めくらいから終わりにかけて縄張り争いが活発化する。だが今は夏真っ盛り、まだ秋が来るには早い。こんな時期に群れから離れて縄張りを主張してくる奴がいるだろうか。
或いは縄張りを維持できなくなった老いた個体か? いや、老いた個体ならここに辿り着く前にその辺のオオカミなんかに食われて終わりだろう。こんなところまで来れるとは思えない。
何かがおかしい。レリアを先に返すべきか? だが早めに手を打っておきたいのも事実だ。一頭でも侵入を許せば強者としての立場が揺らぎ、別の奴も名乗りを上げる。そうなれば次々と新しい個体がこの土地を自分の者にしようと参戦してくるだろう。そうなれば俺達の家だって危ない。レリアやマリーにもしものことがあったら……。
俺はしばらく考え、一先ず応急処置で凌いでレリアを家へ送ることにした。
「レリア。こういう風にケンカを売られた時はな、なるべく早く対処しなくちゃいけないんだ。こういう奴を返り討ちにしてやれば他の動物への牽制になるし、逆に放っておけば俺達が弱いって思われちまう。そうなったら大変だぞ。ひっきりなしにこっちに挑戦してくるやつが現れる」
軽くレリアに説明しつつ、腐敗堆肥箱の蓋を開け、柄杓を突っ込んだ。
「ただ、相手が見つからないこともあるからな。そういう時はこうやって、相手のうんちの上に臭いやつをかけておくんだ。そうすれば、相手に、俺達はお前に負けない。お前なんか屁でもないぞって示すことができるんだよ」
口で説明しながら腐敗堆肥を糞の上にかけた。
「動物っていうのは、直接闘ったりすることは少ないんだ。リスクが大きいからな。戦いに勝てば強さを示せるが、体力を失う。体力を失っている間は他の奴に狙われてしまえばいくら強くても苦戦を強いられるだろう。しかも、怪我なんてしたら縄張りを維持するのはほぼ不可能だ。わかるな?」
俺の下手くそな説明でもレリアは理解できるらしい。疑問の表情も見せずにしっかりと頷いた。文字の時もそうだったが、レリアの理解力には目を見張るものがある。手先も器用で頭もいい。本当に、声の事が悔やまれるな。
「だから、直接闘わずにこうやってうんちとかで相手の力量を図るんだよ」
説明を終えた俺は急いで身支度を終え、家に帰ることにした。まだ早い時間だが、レリアの安全が優先だ。ここからなら二、三時間で帰れるだろう。
それから数分歩いたところで、乱立する木々の隙間から薄茶色の影が見えた。内心舌打ちをしながらも俺は木陰にしゃがみ、レリアにも隠れる様に身振りで示した。レリアはわがままも言わず、すんなりと太い木の根元に隠れた。
敵の様子を窺うと、どうやらこちらには気付いているらしい。下草を食んではいるが、耳をピンと立たせ、こちらに向けている。警戒しているようだ。
薄茶色の毛皮を纏った体躯は俺の身長を優に超え、がっしりとした筋肉がその力強さを主張している。頭は流線型でシカの物に近いが、その頭頂部から首の付け根にかけて馬のような焦げ茶色の鬣が生えている。前髪のように額から垂れているそれは毛質がよく、貴族の衣類にも使われることがある。耳の後部からは一対の枝分かれした角が生えており、その先端は鉱石のように鋭く、愚鈍な輝きを持っていた。強靭な脚は単蹄で、ウマのようではあるが、身体つきはシカに近く、尻からは柔らかそうな白毛が生えている。
イッペラポスだ。鹿の一種には違いないが厄介な相手だ。巨大な角に目が行きやすいが、それよりも注意しなければならないのが脚だ。その後肢に蹴飛ばされでもしたらよくて骨折、普通でも内臓の一つや二つは持って行かれるだろう。腕や脚を蹴られれば、勢いでちぎれるかもしれない。
ただのシカであれば、脚に手斧を叩き付けてやればポッキリいけるんだが、イッペラポスだとそうもいかない。あの太い四肢は頑丈で、手斧を叩き付けたところで、たいしたことはないだろう。数回打ち付けてようやくヒビが入るかどうかって所だ。
それに胴体だって容易に傷つけられるわけではない。毛皮はそこまで分厚くないものの、その下の筋肉が分厚く、堅い。過食部位が多いのはいいのだが、手斧によるダメージは期待できないだろう。
敵の正体を確認した俺はレリアの安全が第一だと考え、身振りで木に登るように示した。声のないやり取りはお互いになれている。打算的な考えが浮かぶ自分が恨めしいが、今はそんなことを考えている場合ではない。レリアが登りきるまでにこちらに向かってこなければいいが。
そんなことを思ったのも束の間、奴はドドドという音と共に勢いよく大地を蹴飛ばし、こちらに駆けてきた。弓で先制できればよかったんだがと心の中で悪態を吐きながら、別の行動を起こした。
「うらぁあああああ」
レリアが登っている木にぶつからないよう、気を引きながら少し離れた場所に移動する。こちらの思惑通り、イッペラポスは進路を曲げながらこちらに追従してきた。
イッペラポスとの距離を測りながらレリアの様子を見ると、レリアは太い枝を股に挟み、木の幹に抱き着いている。安定した姿勢だ。あれならそう簡単に落ちることはないだろう。
レリアの安全が確認できた俺は、イッペラポスとの戦闘に集中することにした。厄介な相手だが勝てないことはない。俺は手斧を片手に持ち、正面に奴を見据えた。
枝分かれして反り返った角が高波のように感じる。俺を飲みこもうとするかのような棘の高波だ。だが、飲まれてはいけない。飲まれれば、鋭く突き出た角に俺の身体は耐えられない。
角の幅は広く、横に走ったところで避けるのは難しい。かと言ってしゃがんでしまえば踏みつぶされて骨折、或いは内臓破裂でおしまいだ。
俺は魔法で光の像を作りだし、イッペラポスに向けて斧を振り下ろす動作をさせた。その隙に前転の要領で体を小さく丸めて角と脚の隙間を転がる。
案の定、イッペラポスは像めがけて角を振り上げ、走る脚で俺の像を蹴散らしていった。こんな木々の乱立する視界の悪い森に生息しているんだ。視力はそこまでよくはない。盲目というわけではないが、簡単な影にも惑わされる。その代わりに、耳や鼻は発達しているようだが、近距離戦闘においては重要じゃない。耳や鼻は広範囲の索敵に使うものだからだ。
ドスドスと地を蹴る音をすぐ隣で聞きながら、回避の勢いのまましばらく転がり、奴との距離をとった。イッペラポスも手応えがなかったことには気付いていたらしく、俺と同時に振り返り、お互いににらみ合う形となった。
イッペラポスの後ろ、一本の樹の幹が大きく抉れている。どうやらそのまま突っ込んだらしい。にもかかわらず、イッペラポスの角には傷一つなく、怪我をした様子もなかった。随分と頑丈だ。
「ブルルンッ」
不満そうに鼻を鳴らすイッペラポスは苛立った様子で地面を蹴っている。騙されたことが気にくわないようだ。
しばらくにらみ合った後、痺れを切らしたイッペラポスが向かってきた。荒々しく地を蹴りながら迫りくるイッペラポスの角。俺は先程と同じように光の魔法で像を作り、手斧を叩きこむイメージを見せた。
しかし、イッペラポスもバカではない。既に学習したようで、像を無視して突っ切り、俺目掛けて頭を突き出した。
その直前、再び光の魔法をイッペラポスにぶつける。今度はただの光の珠を二つだけ。場所は左右の目を覆う様に。
突然の強烈な光に為すすべなく視力を失ったイッペラポスは、それでもある程度、俺の位置を把握しているのだろう。真っ直ぐに俺に向かって来た。だが、その足は遅い。盲目の恐怖で動きが鈍くなっているのだ。
俺は奴の頭突きを手斧の柄で受け止めた。ガツンという衝撃が肩を抜ける。動物との単純な筋力勝負はこちらの方が分が悪く、ズルズルと後ろに押されていってしまうが、想定内だ。俺は鎧が角に引っかからないように身体の位置を整えつつ、精一杯の力で奴の頭を押した。
「うおおおお」
「フゥーッ、フゥーッ」
イッペラポスの鼻息は荒く、興奮していることがわかった。そろそろだろう。俺は手斧を思いっきり下にスライドさせ、力の向きを変えた。するとイッペラポスは一瞬だけたじろぎはしたものの、すぐさま下向きの力に反発する様に反発するように首を振り上げた。
単純な筋力差はやはり圧倒的で、イッペラポスの角に絡まり、押し上げられた手斧は中空に舞った。
俺の眼下からは無数の棘が顔目掛けて迫ってくる。だが、それが俺にぶつかることはない。俺はさらに姿勢を低くし、懐に手を突っ込んだ。
目の前にはイッペラポスの伸びきった首筋。それに、興奮したことにより太い血管が浮き出ている。頸静脈だ。俺はそこ目掛けて懐から取り出したナイフを思いっきり突き刺した。
ザラザラとした毛皮の感触を突き抜け、ズブリと皮膚を裂く感触。うまく血管を切断できたらしく、その切り口からはナイフを伝って、赤黒い液体が溢れ出てきた。
俺は傷口を広げる様にさらにナイフを捻じり込む。すると、硬い組織がナイフの先端にぶつかったのがわかった。弾力のある紐状の組織。動脈だ。
動脈と静脈は二本が沿って走っていることが多い。頸動脈もその一つだ。静脈を貫けばその奥には必ず動脈がある。俺はその弾力のある組織を力の限り引き裂いた。
ブチンという手応えの直後、溢れ出る血の量が明らかに増加した。俺は成功を確信し、ナイフを引き抜くと、イッペラポスから距離をとった。
血液がドクドクと拍動に合わせて溢れ出ている。傷口から垂れるそれは薄茶色の毛皮を赤黒く染めていた。毛皮に染みこみ、その許容量を超えた液がポタポタと毛皮から垂れる。少しの間、イッペラポスはフー、フーと鼻息を荒くしながら四本の脚で立っていたが、一瞬ふらついたかと思うと、ズシリとその身体を横たえた。
気丈にもこちらを睨む真っ黒な瞳は既に焦点が合っておらず、最期の時が近いことを示していた。体躯や顔の様子からイッペラポスとしては全盛期の年齢だとわかる。そのイッペラポスの命が今、失われようとしている。
イッペラポスは最後に大きく痙攣して、絶命した。




