2-1
2019/4/1
つい先日、レリアが十歳になった。あと三年もすれば成人を迎えることになる。なんだか感慨深いな。
レリアは将来、何になるんだろうか。商人、職人、冒険者。或いは一生この森で木こりをやるのか。折角この世に生まれてきたんだ。一度は世界の広さを学んでほしい。だが、声のことがあるからなぁ。この森にいた方が安全なのかもしれない。
それに、世の男たちがレリアの可愛さを放っておかないだろう。森から出て俺の目の届かないところに行ってしまえば、変な虫が集ってきて、ある日突然私たち結婚しますとか家に連れて来られた日には――。
あー、いかんいかん。レリアはまだ十歳。あと三年もあるんだ。いや、三年しかないのか? うーむ。
そんなことを思いつつ、俺は机に道具を広げた。寝るまでに明日の準備を済ませておきたい。道具の手入れは基本だ。いざという時に困る。さて、何から始めるか。
「どうした、レリア。気になるか?」
(コクッコクッ)
俺が作業を始めてしばらくすると、夕食を片付け終えたレリアがこちらに近寄り興味深そうに俺の作業を見始めたので声をかけてみた。案の定、俺の作業が気になるらしい。まぁ、単に一緒に遊びたいだけかもしれないが。レリアは結構寂しがり屋だ。
「明日はちょっと遠出するからな。装備を入念に手入れしておこうと思ってな。いざという時使えないんじゃ、困るだろう?」
そんな俺の言葉に、レリアはいつも持ち歩いているコップに指を突っ込むと、濡れた指で机を撫で始めた。
[遠出って何してるの?]
「ああ、そうか。説明したことはなかったな。見回りだよ。家の周りに恐いモンスターがいないかチェックしているんだ。あー、モンスターってのはな、魔物とか魔獣とか獣とかいろいろと呼び方は変わったりするが、危険な生き物の事だ」
筆談。レリアとの会話だ。あの時レリアが文字のことを思いついてくれなかったらと思うとぞっとする。
あれから俺たちは懸命に文字を教えた。レリアもそれに答えてどんどんと文字を覚えていった。あの暗い日々が嘘のように今ではすっかり元通りのおしゃべりだ。
カラム先生はレリアの声を戻す方法を探してくれているみたいだが状況は芳しくないらしい。ここまで声が出ないとなると、やはり時間による解決は望めないだろう。喉によいらしいと定期的に蜂蜜を届けてくれてはいるものの一向に効果は表れていない。
会話はできるようになったものの、レリアを治してやれない自分が嫌になる。沈む気持ちを引き揚げながら、俺はレリアとの会話に戻った。
[居たらどうするの?]
「そりゃあ、追っ払うさ。レリアやマリーを守ってやらないとな」
[危なくない?]
「心配してくれるのか? ありがとな。でも、大丈夫だ。お父さんは強いんだぞ~」
そう言って俺は腕に力こぶを作って見せた。とは言っても昔ほど筋肉があるわけではなく、自分の歳を感じる。レリアはそんな俺の心を見透かしているのか、なおも心配そうな顔をしてみせた。俺ははにかみながら、我が子の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「あー、さっきは追い払うって言ったけどな、実はそういう機会はそんなにあるわけじゃないんだ。見回りはモンスターに対して、俺達はここに居るから、他の所へ行けってそういう意思表示をするためにやるんだ」
[意思表示?]
「そうだ。例えば、この斧で木を叩いたり、傷をつけたり、臭いの強い物を播いたり、だな」
[臭いの強い物?]
「うんちやおしっこだな。肥料に使うために溜めてあるやつがあるだろう? あれと似たような奴だ。あれよりももっとすごいぞ」
そう言いながら鼻を摘まんでおどけてみせた。その効果か、先程の心配した顔は少しだけなりを潜めて笑顔が戻っている。だが、臭いに関してはピンと来ていないらしい。まぁ、肥料自体は原料が同じとは言えそこまで臭いわけじゃないからな。糞尿が肥料として使えるようになる目安が、臭いが消えることだから、なおさら想像できないんだろう。
「ハッハッハ。わからないか。実際に嗅いでみればきっとレリアもびっくりするぞ」
そんな言葉を聞いて、レリアは怪訝な顔をした。興味はあるが、少し怖いと言った感じか。レリアもそろそろいろんなことに興味を持ち始める年ごろだ。森の中だけじゃなく、外の世界にも。レリアが出来る限り不自由しないように、いろいろと教えなきゃならない。そろそろ本腰を入れてやらないと、な。
「まぁ、無理にとは言わないさ」
そんな俺の言葉に寂寞を感じ取ったのだろう。レリアの顔が強張った。やってしまったという感情を抱くも直ぐに思いとどまる。このままその感情を表に出してしまえば、またレリアを不安にさせる。
レリアはこういう空気に敏感で、恐れを抱いている。昔からそうだったが、あの事件からそれは顕著になった。何とかしてやりたいが、俺にはどうすればいいのかわからない。その場しのぎしかできない父親を許してくれ。
俺は努めて明るい声で話題を変えた。
「レリアもやってみるか?」
その言葉にレリアは食いつき、コクコクと首を縦に振った。その返答に、俺は答えるようにレリアの目の前で見やすいように道具の手入れのやり方を見せる。油の入った木壺を取り出すと、レリアはすぐさま机に文字を書いた。
[臭いやつ?]
「ハッハッハ。違う違う。これは油だ。森は湿気が多いからな。道具がすぐに傷んじゃうんだよ。だからこうして油を塗って、水を弾くようにするんだ」
そう言いながら、少し粘性のある油を布にたらし、軽く馴染ませた後、斧の柄を拭いていく。柄が終わったら次は刃だ。既に刃は鋭く研いであり、雑に扱えば手を切ってしまう。そんな説明をしつつ、刃の方も終わった。
「さて、こんな所だな。よーく、見てろよー」
俺はこれから起こることにレリアがどんな反応をするのか、期待に胸を高鳴らせた。吊りあがる頬を抑えることもせず、コップから斧へと水を垂らし、横目でレリアの反応を見た。
垂らされた水は朝露が木の葉を伝う様に柄の上を玉となって滑り落ちていった。それを見てレリアは声が出ていれば「おお」と驚嘆の言葉を口にしていたであろう、そんな表情だった。
「な? 水をはじくようになっただろう? じゃあレリアはこれをやってくれ」
(コクッ)
「その革は滑り止めだ。斧や弓に巻きつけて使うんだ。ほら、油を塗ると滑りやすくなるだろ?」
そう言って俺はレリアに革紐を渡した。だが、レリアは首を捻りつつ、机に文字を書いた。
[革は油で滑らないの?]
「ん? 確かにそうだなぁ。言われてみれば……。レリアは賢いな! 凄いぞ! でも、まぁ、安心していい。なんでかはわからないが、革に油を塗っても滑らないんだ」
革には柔軟性を持たせるため、よく油を塗っているが、滑ったことはなかったな。滑り止めとして使っているのだから当たり前だが、考えたこともなかった。何故油で革は滑らないのだろうか。不思議だ。まったく、子供の着眼点というのは純粋故に時折、大人を唸らせてくれる。これからも、きっとこんなことがたくさんあるのだろう。少しうれしくもあり、歯痒くもあった。
そんなことを思いながら、俺は道具の手入れを再び始めた。斧の他にも、ナイフに弓、革鎧、角笛、柄杓。明日使う道具はまだまだあるんだ。寝る前に点検と手入れを終えなければ。
「あとは油が馴染むのを待って、革を巻きつけたらおしまいだ。レリアのお蔭で早く終わったよ。ありがとうな」
俺が残りの道具を片付けている間に、レリアは全ての革紐に油を塗り終えていた。初めてにしてはいい手際だ。これだけ手先が器用なら、将来困ることはないだろう。声の事さえなければな、と思わずにはいられない。
「なぁレリア。明日なんだが……」
俺の呼びかけに、レリアは首を傾げて答えた。その仕草が何とも愛おしい。馬の尾のように真っ直ぐと垂れた赤髪がレリアの動作に少し遅れて揺れる。幼さの中に少しだけ野生の鋭さを持った瞳が純粋な疑問を持ってこちらを見つめる。ツンとした小さな鼻も、少しだけ開いた口も、何もかもが愛おしい。
「明日なんだが、一緒に来ないか?」
少しの間をあけた後、レリアは首をブンブンと縦に振った。その様子を見て俺は心の中で拳をぐっと握った。レリアと出かけられる。とても喜ばしいことだ。叫んで踊り出してしまいたいくらいにうれしい。もちろん、それだけのために外へ誘ったわけではないのだが。
レリアは外の世界に興味を持ち始めている。そして、あと数年もすれば成人を迎え、いつかは森を出て行くだろう。それまでに、俺が教えられることは教えておきたい。レリアの人生できっと役に立つはずだ。
今までは森は危険だと教え、家を離れることは禁止していた。実際に森は危険だ。レリアを一人で向かわせたら、一日と持たないだろう。だが、明日向かう場所は森の外周付近。そこまで危険な獣は生息していない。レリアを守りながらの戦闘も容易だ。
それに、レリアは足が速い。大人でも追い付けないくらいに。木登りだって得意だ。いざとなったら俺が囮になってレリアを逃がすことも可能だろう。
「そうかそうか。一緒に行くか。よろしくな。それじゃあ、明日は早いから、そろそろ寝た方がいいぞ」
俺の言葉を聞いて、レリアはベッドへと飛んで行った。それを見送り、道具を片付け、マリーに二人分の弁当をお願いした後、俺も眠りについた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
昨日は突然の事だったから驚いた。寝る前に少しお喋りしたいなーと思って、ランスの仕事が終わるまで隣で待っていたら、流れで森の見回りに参加することになった。
もちろん嫌じゃない。むしろうれしい。ランスとお出かけすることなんて殆どなかったし。いや、初めてか? 世界を広げるチャンスをくれたランスに感謝を言いたい。ありがとうって。
「それじゃあ行ってくる」
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
(フリフリ)
淡い緑のオーラを纏ったマリーが優しく手を振っている。それに返すように俺はブンブンと手を振りかえした。いつもだったらマリーの隣でランスに向けて手を振っているはずだ。でも今はランスの隣でマリーに手を振っている。不思議な気分だ。
「レリア。絶対に俺から離れるなよ」
まだ日が昇りきっていないからだろう。辺りは薄暗い。枝葉の隙間から見える空は橙色と青色の絵の具が溶けた水がお互いを侵食し合う境界のような淀んだ色をしていた。家からは深緑に見えた葉も今は黒く、薄気味悪い。湿った空気が熱気を伴って俺を包み込み、じっとりとした汗が噴き出る。その不快感が不安を煽った。
家を出る時はあんなに楽しかったのに、家が見えなくなった瞬間にこれだ。自分の意思の弱さを感じる。俺はギュッとランスの服を掴んだ。
「大丈夫だ。俺がちゃんと守ってやるからな」
その言葉に俺はコクコクと頷いた。そんな俺を見てランスはしゃがむことで目の高さを俺に合わせた。そして頭をやさしく撫でてくれた。そうやってしばらく俺をなだめてから、ランスは柔らかな微笑みを消し、真剣なまなざしで俺に言った。
「だが、俺が逃げろと言ったら一目散に逃げるんだぞ。どんな状況であってもだ」
その言葉を聞いた時、俺は嫌だと瞬間的に思った。でもそれは許されないことだ。俺の我儘でランスに迷惑がかかる。散々迷惑をかけてきて、今だって、言葉を話せない俺を養ってもらっているんだ。ランスの言う事は聞かなきゃいけない。
(コクッ)
「よし、偉い子だ」
そう言ってランスはわしゃわしゃと俺の頭を撫でると立ち上がり、再び歩き出した。
しばらくして、ランスは立ち止り斜め前方を指差しながら言った。その方向を見ると空が既に青く染まっていた。
「あれが見えるか? ほらあそこ。小さな傷が見えるだろう?」
その言葉によくよく目を凝らしてみると、こちらに伸びた木の枝に小さな白い筋が付いていた。これのことだろう。俺は頷いた。
「あれはな、森で迷わないための道標だ。傷のある枝の方向に進むと俺達の家へ着くようになっているんだ。だから、レリアが一人になってしまった時は傷のある枝の方向へ進むんだぞ?」
なるほど。森の中は景色がほとんど変わらないし、空だって枝葉に隠されているから方向を失いやすい。だから、一定の法則性を持ったものを森に設置することで迷わないようにしているんだ。俺はそうやって自分を納得させ、ランスの言葉に小さく頷いた。
正午よりも少し早い時間だろうか。枝葉の隙間から斜めに光が差し込んでいる。ランスは立ち止まり、荷物を下した。そして、一本の木の傍に近寄ると根元を覗きこんだ。
「ここは問題ないようだな」
そう言ってランスは俺に手招きしてきた。近付いてみてみると、ひび割れた乾いた土の様な茶色い何かが木の根元から幹にかけてこびり付いていた。これは何だろうか。
「これはな、昨日言っていた臭いやつだ」
その言葉に俺は首をかしげる。全くもって臭くない。強烈なにおいを想像していただけに拍子抜けだ。
「はっはっは。これは前に撒いたやつだからな。もう臭いは消えてるさ。ずーっと外に置いておくと臭いが消えてしまうから、こうやって時々撒きなおすんだ。さて、お待ちかねの臭いやつだぞ?」
そう言って不敵な笑みを浮かべると、背負っていた大きな箱を下し、蓋に手を掛けた。
ランスが蓋を開けると同時、むわりとした悪臭があたり一面に立ち込めた。焼いた煎餅の様な香ばしさを仄かに感じるが、そこから食欲を刺激するすべてを抜き取ったような臭いだ。獣臭くもあり、肥溜めとも違う糞尿の強烈な臭いに思わず俺は鼻を摘まんだ。
「やっぱり臭いか。こればっかりはなぁ。まぁ、幸い猿人族の鼻は敏感だが優秀じゃない。直慣れるさ」
(?)
「ん? そのままの意味さ。臭いを感じ取ることに関しては結構敏感なんだ。だが、持続力がない。直ぐに慣れてその臭いを認識できなくなってしまうんだ」
そうなのか。カラム先生みたいな獣人族の人達だったらこの悪臭をずっと感じ取ってしまうんだろうな。
そんなことを考えているとランスの言う通り、吐き気を催すような臭いが少し和らいだ気がする。まだ臭いが、我慢できない程ではない、かな?
俺が鼻から手を離そうかどうしようかと悩んでいる間にもランスはテキパキと作業を進めていった。
「こうやって蓋を開けておくだけで臭いは直ぐに拡散するからな。周りの動物たちもこっちを意識しているだろう。次は音だ」
そう言ってランスは手斧を木に打ち付けはじめた。カンカンカンと小気味良い音が森の中に広がる。静寂な森の中、規則性なく乱立する木々に音が反響し、一つの音が幾重にも重なって聞こえた。
「こうやって臭いと音を出しておけば、大抵の動物は近づかなくなるんだ」
俺はその辺に落ちている枝を使って地面に文字を書いた。
[なんで近づかないの?]
「うーん……。うんちやおしっこって臭いだろう?」
もちろん知っている。さっきその強烈な臭いを嗅いだところだ。まぁ、普通はあれほど強烈ではないが。
(コクッ)
「それに外に置いておくと臭いはだんだん弱くなっていく。その性質を利用して、動物たちはうんちやおしっこを使って縄張りを示していたんだ」
(?)
「臭いがだんだん弱くなっていくっていう事は、臭いが強ければ強いほどその近くにうんちやおしっこをした奴がいるっていう事になるだろう? だから、うんちやおしっこがあるところには縄張りの主がいるってことになるんだ。そうやって動物たちはその土地が自分のものだと、或いは誰のものだと判断していたんだ」
[音は?]
「動物は皆が皆鼻がいいわけじゃないんだ。耳がよかったり、目がよかったり、いろいろいる。臭いだけじゃ鼻が悪いやつには縄張りだって示せないだろう? だから、音でも示してやるんだ」
[じゃあ、ここはお父さんの縄張りってこと?]
「そうだ。既にここはお父さんの縄張りだから、定期的にうんちやおしっこ、音を鳴らすことで自分はまだ縄張りにいるんだぞ。だから近づくんじゃないぞって示してるんだ」
なるほど。そういう事だったのか。ん? という事は、ランスが森で木を切り倒しているのは、そうやってあちこちで音を鳴らすことで、家の周りに動物たちが近づかない様にしているのか? マリーの魔法の方が早いのに、何でランスは手斧で切っているんだろうと思っていたが、そういう意味合いがあったとは。
「さて、これくらいでいいだろう。あとはこれをこうやって……」
そう言いながら木の幹に臭いの素を撒き、蓋を閉じた。気が付けば強烈だった臭いもそこまで気にならなくなっている。確かに慣れるのは早いようだ。
「さて、次の場所に行くか」




