1-13
2019/3/25
レリアが目覚めてからしばらくして、先生が戻ってきた。森の中をトボトボと歩くその様子は、酷く打ち拉がれており、以前は伸びていた背筋も、今はすっかりと丸まってしまっている。それが意味するところは、教会の助力が得られなかったことを意味していた。
「先生……」
「すまない。儂が、獣人でさえなければのう……」
「いや、先生はよくやってくれた。先生のおかげで、レリアは目を覚ましたんだ」
「本当か!?」
「ああ」
「それは、よかった、のう……」
先生のこんな顔を見たのはいつ以来だろうか。先生の、こんな、力の抜けたような顔は……。けれど、先生はすぐに顔を引き締め、真剣な表情になった。
「お主の様子を見るに、なにか問題があったようじゃな」
「ああ、そうなんだ。レリアの声が、な」
「管を通した時に、傷を付けてしもうたか……。どれ、診てみるとしようかのう」
「ああ、頼む」
そのまま、先生をレリアの寝室に案内した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
俺が目覚めてからというもの、家の空気は重たい。会話は殆どないし、みんなの目からは光が失われていた。あの、幸せだった日々は、もう、戻ってこない。
俺の身体は、ある程度筋肉が戻り、ベッドから起き上がれるまでに回復している。けれど、俺の声は、うんともすんともいわない。このまま、一生声が出ない気がする。
原因はなんだろうか? あの時の俺は、一体何をしていたのだろうか? 喉に、何か、負担をかけたのだろうか? 状況を聞こうにも、会話ができないんじゃ、そうすることもできない。
俺は、ただ、ただ、生きているだけだった。前の、俺のように。
「レリアや、目覚めたようじゃな」
扉をノックする音が聞こえ、先生が入ってきた。俺は、頷くだけの返事をした。
「レリアよ。少しばかり、見せておくれ?」
そう言って俺の喉に触れてくる先生。そのまま、先生の指示に従って、俺は空気の出し入れをした。吸っては吐いて、吐いては吸って、何度も何度も繰り返したことだ。その行為にも、もう、慣れてしまった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「どうだった?」
「うむ……」
部屋から出てきた先生に、診察の結果を聞く。隣にはマリーも座らせたが、おそらく、何を言っても殆ど耳には入らないだろう。ここで、先生が希望を見出してくれれば、或いはとも思ったが、先生の様子から察するに、やはり、芳しくないようだ。
「まず、声が出ない原因は声帯にあると見て間違いないじゃろう」
空気の流れによって揺れ、音を出す器官、声帯。声作り出すための器官だ。声が出ない原因があるとすれば、確かにそれだろう。
「ただ、管によって傷付けられただけにしては不可解じゃな。普通はあそこまで酷くはならん。少なからず、音は発せられるはずなんじゃ。じゃが、レリアの声帯は全く震えず、音を出しておらん。傷の他に、要因があるように思える」
先生はそこで溜息を一つ吐くと、再び話し始めた。
「その原因がわかれば、救ってやれるやもしれぬが、そこまではわからんかった。すまぬのう……」
「いや、いいんだ。ありがとう。そこまでわかっただけでも、進歩だ」
「ううむ……。じゃが、声以外は健康そのものじゃ。レリアの体質には恐れ入ったわい。魔力がまったくなくても生活できると見える。このまま、徐々に回復していくじゃろうて。そこは、安心して良いぞ。儂は一度、家に戻って、文献を漁ってみるとしよう。レリアの声について、なにかわかればいいんじゃが……」
そう言って、先生は、着たばかりだというのに、帰っていった。
レリアが生きていてくれた。これからも元気に過ごせるらしい。そのことを素直に喜ぶべきなのに、そうできない自分に憤りを感じる。
我が子が生きていてくれた。それだけでいいじゃないか。何をそんなに悲しむことがある? あの状態から生きて帰ってこれたんだぞ? なんて素晴らしいことなんだ! そうだろう?
ああ、あの子の代わりになれたら。俺の声を、あの子にあげることができたのならば、きっと、あの子のあの悲しそうな目も、マリーの心も、この家の重たい空気も、全て良くなるはずなのに……。娘のために、何もできない俺を、どうか、どうか許してくれ……。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
俺が目覚めてから半年、相変わらず俺は声を出せずにいた。
一か月ほど眠っていたらしい俺は声だけでなく運動機能も失っていた。走り回ることはおろか、身の回りの事さえ自分一人ではできず、そのリハビリには結構な時間を要した。今では、なんとか一人で歩ける程度にはなっている。内臓も同様に衰えていたらしく、流動食以外受け付けない身体になっていた。毎日離乳食のような食事を続けた。そのせいだろうか、俺は赤ん坊の頃を思い出していた。
俺が何かをするたびに喜んでいた二人。あの頃俺は言葉がわからなくてもその動きや表情でなんとなく二人の気持ちを理解できていた。けれど、それ以上は理解できなかった。何が楽しかったのか、何がうれしかったのか、何に驚いたのか、そういう『何』が理解できなかった。俺はそこに言葉の壁を感じていた。
言葉が理解できるようになってからは二人が何に喜んでいるのかが分かった。二人が何を望んでいるのかが分かった。だから俺はそれに答えようと必死になった。
初めての離乳食、初めての歩行、初めての散歩、色んな初めてを二人と共に経験して、何度も繰り返した。だけど今は……。
そんなことを考えているうちにカラム先生は戻ってきたが、何も進展はなかったそうだ。喉にいいとされる蜂蜜を『すまない』という言葉と共に置いていき、先生は家に泊まることもなく、直ぐに帰って行った。
我が家の雰囲気は今、とても暗い。あの日を境に会話が続かなくなったから。俺は声が出ないし、マリーは塞ぎ込んでしまってほとんど喋らない。ランスだって、すすんで口を開くことはない。ランスが喋って、俺とマリーが首を振るだけ。そのやり取りが一、二回あればいい方だ。そんな毎日を繰り返している。
俺が声を出せる様になるまではきっとこの状態のままなのだ。いや、もしかしたら、例え俺が声を出せるようになったとしても、この状態が続くかもしれない。こんなにも不都合のある、手間のかかる子供だ。声の問題が解決したからと言ってまた新たな問題が出てこないとも限らない。だから、二人は俺を見限って……。
違うだろ! 二人はそんなことをしない。あいつらとは違うんだ! わかってるだろ!俺が声を出せる様になれば、きっと、二人は元通りに……。なら、どうしたらいい?
毎日欠かさず練習はしているものの、何の成果も出ない。ただ、空気が出ては入って、入っては出てを繰り返しているだけ。運動機能も消化能力も回復したというのに、声だけはどれだけ頑張っても回復しない。解決方法もわからなければ、その原因だって掴めていない。何をどうしろっていうんだ!?
でも、そうしたら、ずっとこのまま。いや、もっとひどい状態に……。嫌だ! そんなのは嫌だ! 嫌なんだ!
何の進展もないまま数日が過ぎ、重い沈黙の中で昼食を食べているとノックの音が部屋に響いた。
「……」
ランスが黙って席を立ち、玄関へと向かっていった。それを、俺たち二人は力なく見送る。たぶん、旅人かなんかだろう。森に入って、迷って、家を見つけたから道を訪ねようとか、そういう感じだろう。
俺は黙々と料理を口に突っ込んだ。ただ只管に食事をする。俺が生きている意味ってなんだろうな。大切な人に心配をかけて、負担を増やして、迷惑ばかりだ。なのに俺はただ、出てくる飯を食べて、寝るだけ。何にもしない。二人を笑顔にすることもできず、ただ見ているだけなのだ。
果して俺は存在していてもいいのだろうか。マリーは俺を見るたびに辛い思いをして、ランスは俺を守るために必死になっている。俺は二人にとって枷でしかないはずだ。
「レリアさん、お久しぶりです」
しばらくして、そう聞こえた。見ると、ヴァーノンがそこに立っていた。
「聞きましたよ。声のこと。大変でしたね。これでよくなるかはわかりませんが……」
そう言って、ヴァーノンは瓶を手渡してきた。
「はちみつです。喉に良いらしいですよ」
知ってる。先生も、それをくれたんだ。でも、俺の声は出なかった。良くはならなかったんだよ。俺は黙ってそれを受け取って、自室へと戻った。
話のない生活に慣れていたはずなのに、今は何だか寂しい。今の人生よりも、長い間、俺は会話のない生活を生きていたじゃないか。何をそんなに寂しく思う必要がある? また一人になったって、別に、なぁ?
わかってる。このままじゃダメだってこと。なんとかしなくちゃいけないってことくらい。俺だってわかってる。でも、どうしたらいいのか、わからないんだ。
俺は必死に考えた。前のように、皆で楽しく笑い合っていた食卓にどうやったら戻れるのかを。俺が声を出せればいい。それが一番だ。けれどそれは不可能に近い。考えてできるものなら、今頃、先生が何か見つけているはずだし、そんなことは散々考えた。でも、答えは出なかったんだ。ならどうすればいい? 俺には何ができる?
ああ、俺を心配してはちみつをくれたヴァーノンにもあんな態度をとってしまった。はちみつが効かないことはわかっている。けど、だからといって、心配してくれた人に、とっていい態度じゃないだろう? ヴァーノンは悪いことなんて何もしていないじゃないか!
ヴァーノンはいい人だ。いつでも優しい。俺たち家族のために尽くしてくれる。俺が興味を持ったことに、なんだって答えてくれる。この前だって、俺に文字を教えてくれた。そう、文字、を……
ふと、俺は閃いた。何故今まで思いつかなかったのだろうと言うほどに、スッと頭の中に何かが入ってきた。
ああ、これが神様のお告げって奴だろうか。……いや、違うな。俺にこんな運命を押しつけやがった奴だ。俺を助けるようなことはしないだろうさ。今まで、この事に気付かないように仕向けていた、それくらいのことをやってのけるに違いない。だから、これは、ヴァーノンが持ってきてくれた、答えなのだ。
きっとこれなら成功するだろう。あとは、どうやって二人にそれを気付いてもらうかだ。いや、大丈夫だ。きっと、二人なら気付いてくれる。そうに違いない。とにかく、やるだけやってみよう。何もしないよりは何かした方がいい。このままだと、本当に何もできなくなってしまうから。
俺は勢いよく部屋を飛び出した。テーブルを囲みながら、三人は座っている。誰か、一人でも気付いてくれたら……。
俺も席に付き、テーブルを指でなぞった。指の動きは三通り。俺が知っているのは、この三つだけだ。だから俺は繰り返す。何度も、何度も、何度も、何度も、誰かが気づいてくれるまで、何度だって、繰り返す。
指を動かしながら、俺はマリーの様子をうかがった。マリーはこちらを見向きもしなかった。ただ、ボーっとスプーンを口に運んでいるだけだった。まるで、動くだけの人形のように……。
今までだったら、『それは何かしら、レリアちゃん?』なんて言って興味を示してくれていたのに、今のマリーは既に俺には興味がないかのように、全く反応してくれない。
自然と涙が出てきた。視界がぼやけてうまく指先が見えない。俺は目をこすると、さっきの事を忘れる様に今度はランスの方を見た。
ランスもまたチラリと俺を見た後、止めるでもなく、食事を続けた。ランスも俺を見捨ててしまったのだろうか。いや、違う。ふたりとも、まだ気付いていないだけなんだ。きっと、大丈夫だ。いつか、二人は、気付いてくれる。
何度、繰り返しただろうか。初めから数えてなどいないから、知る由もない。二人が気付いてくれるまで、続けるつもりなのだから。
テーブルの上は、いつの間にかきれいに片づけられており、夕食が終わっていたことがわかった。それでもみんな、席についてボーっとしている。何をするでもなく、ボーっと。それはまるで、生きる屍のようで。
これが終われば、きっと、マリーも、ランスも、元通りになる。皆元通りになって、笑顔の絶えない毎日が帰ってくる。変わらない日常が、帰ってくるんだ。
「え?」
「あっ」
二人が同時に声を上げた。その声に俺は安堵する。よかった、気付いてくれた。
[ レ リ ア ]
テーブルには何度も擦ったせいでそう痕がついてしまっていた。




