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2019/3/18
視界に茶色の模様が見えた。歪んだ楕円形の木目。木の板を張り付けたような天井。ここは……、あぁ、俺の部屋か。
二人が用意してくれた俺の部屋。案外言ってみるものだなとその時は思った。
数年二人と暮らしてきて、二人が俺を愛してくれていることはわかった。だが、その愛情表現が過剰で、今まで一人だった俺にとってはすこしだけ煩わしく感じるときがあったのだ。ただ、恥ずかしかっただけなのかもしれない。けれど、俺は一人になれる時間が欲しいと感じた。そうして頼んだのが今俺がいるこの部屋だ。
俺が我が儘を言った時、二人は寂しそうにしていたけれど、ちゃんと俺の部屋を作ってくれた。俺の意思を尊重してくれた。やっぱり、二人は俺を愛してくれていると思った。
この部屋ができて、一人で過す様になって、俺は寂しさを感じた。二人に依存し過ぎているのかもしれないが、やっぱり一人は寂しかった。この部屋を作ってもらって、若干後悔もしている。だから、寂しくて、どうしようもなくなった時は二人の寝室へお邪魔させてもらっている。自分でも我儘なやつだとは思う。大きなベッドで、三人並んで寝る時はなんだか温かかった。
「レリア、ちゃん?」
天井を見ながら思いに耽っていると俺の名前を呼ぶ声がした。起き上がろうとするも、身体がひどく重たい。うまく動かせない。感覚も少し鈍い。まだ寝ぼけているのだろうか。声のした方を向くと、そこにはマリーが座っていた。俺の手を握り、その両目からは大粒の涙が……。
ここまでの顔を、俺は今まで見たことがあっただろうか。こんなにも悲しみを湛えた彼女の顔を俺は今まで見たことがあっただろうか。その笑顔を見れば、いつだって俺自身も笑顔になってしまう。そんな人だったはずだ。なのに、今は……。
「レリアちゃぁああああぁぁん」
マリーは縋るように俺を掴んで離さなかった。痛いほどに強く俺を抱きしめ、まるで赤子のようにワンワンと泣く彼女を見ていると、切なくなってくる。どうにかしなければと、そんな気持ちでいっぱいになる。
けれど、落ち着かせようにも、がっしりと掴まれた俺は身動きを取ることが出来ず、頭を撫でることも、背中を擦ることもできない。声をかけようとしてみても、マリーの泣き声に俺の声はかき消されてしまい、俺の耳にさえ聞こえてこないほどだ。
どうしたものかと悩んでいたところ、ようやく俺は直前の出来事を思い出した。
確か俺は魔法の練習をしていて、……いきなり気絶したんだったか? まぁ、そうだよな。なんだかめちゃくちゃ苦しかった気がするし、もしかしたら瀕死の状態だったのかもしれない。もしそうだったのなら、この状況も納得できる。少し苦しいのだが、俺は我慢することにした。俺が悪いのだから仕方がない。
お母さん、大丈夫だよ。私は何ともないよ。
マリーは酷くやつれて見えた。俺を心配して、こうなってしまったんだろう。こうやってマリーが心配してくれているところを見ると、不謹慎かもしれないけれど、俺は安心できた。まだ、俺を嫌ってはいないんだと。こんなに手のかかる娘のことを、想ってくれているんだと。
「ごめんなさい。……ひっ……私の、せいで……、私が、ああぁぁあ」
マリーは只管に謝っていた。私のせいで、私のせいで、としきりに唱えていた。別にマリーが謝ることじゃないだろうと思う。俺が魔法を使いたくって、使っただけだ。最初はマリーだって、俺が魔法を使うことに反対していたんじゃないのか?
きっとそうだ。俺が魔法を使いたいって言った時のあの顔を見たら、そして、こうなることもきっとわかっていたんだろう。それでも、マリーは俺の我儘を聞いてくれた。俺の意思を尊重してくれた。だから、マリーは悪くない。悪いのは俺なんだ。
大丈夫、お母さんは何も悪くないよ。悪いのは魔法を使えなかった私。だから、お母さんが気に止む必要なんてないんだよ。
何度も言い聞かせる。相変わらず、マリーの声にかき消されて俺の声は聞こえないけれど、それでも、何度でも、繰り返して言う。マリーが落ち着くまで、何度だって。
そう言えば、魔力を放出させようとしたとき、何かが壊れるような、そんな感覚があった気がする。どうなったんだろうか?
俺は気になり、身体の中に神経を集中させた。あの時の魔力の塊の状態を知るためだ。もちろん、放出させないように注意はしたが。
けれどというか、やはりというか、魔力の塊は何処にもなかった。喪失感や虚無感と言ったものもなく、本当にそこに何かがあったのかと疑問に思う程に何もなくなっていた。あるのは全身を流れる魔力の流れのみ。試しに魔力の流れを操作してみたが、結果は倒れる前と相変わらず、身体の外に出ることはなかった。
魔法を使うのは無理そうだ。魔力が無ければ魔法は使えない。いや、あるにはあるのだが、ランスの言っていた魔力とは違うのだろう。もしかしたら魔力ですらないのかもしれない。まぁ、考えた所でわかることは俺はもう魔法を使えないってことだけだ。
よくよく考えてみれば、俺はもともと魔法のない世界から来たんだ。それなら魔法なんて使えなくたって何にも問題はないじゃないか。魔法なんてなくたって生きていけてたし、今は魔法なんかよりも素晴らしいものがある。だから、魔法なんてなくたって問題はないんだ。
一瞬、魔法が使えない。そのことで二人が俺を捨ててしまうのではないだろうかとそんな心配がまた浮かんできた。でも、すぐにその考えは消し飛んだ。二人は俺を見捨てない。今のマリーを見てみろ。こんなにも心配してくれているんだぞ? そんな人が、俺を捨てるはずはない。ランスだってきっと同じだ。俺を捨てたりなんかしない。大丈夫、二人は俺を見捨てない。そうだ、大丈夫だ。
「レリア!」
俺の不安を断ち切るかのようにバンッと勢いよく扉が開き、部屋の中に叫び声が飛び込んできた。もう少し丁寧に開けてほしい。部屋の扉が壊れてしまうだろう? でも、ありがとう。
「レリアああああ!」
俺の期待通りに飛び込んでくる深紅の影。覆いかぶさるようにランスが俺に抱きついた。
「よかった、……よかった!」
心の底からそう叫んでいるかのような声。いや、ようなではなく実際にそうなのだろう。ただ、耳元で叫ぶのはご遠慮願いたい。それと、伸びた髭がチクチクするので顔を少し離して欲しいかな。
そんな悪態を吐きながらも、実の所、俺は嬉しかった。やはりランスも、俺を心配してくれるのだ。そのことに、やっぱり俺は幸せを感じてしまった。
不謹慎だと、再び思う。俺が倒れ、恐らく数日眠ったままだったはずだ。そんな俺を心配し、食事も喉を通らず、寝ることもできないまま二人は過ごしていたのだろう。そんな二人の様子を感じ取ることができて、そんなに心配をかけたにもかかわらず、いや、そんなに心配をかけたからこそ、俺は嬉しかった。
もちろん、二人に心配をかけてしまったことに対する申し訳なさはある。でも、俺は二人に愛されている、愛してくれる人がいる、そう感じられて、胸がいっぱいになったのだ。
「おお、すまん。苦しかったよな。ごめんな?」
「あ、の、ごめん、なさい……」
しばらくして、ようやく二人が俺を離してくれた。
「調子はどうだ? 何処か痛くはないか?」
ランスの言葉に頷く。うまく力が入らないけれど、何処も痛くはない。身体が動かないのも、ずっとベッドの上にいたからだろう。どれくらい眠っていたかはわからないけど、筋力が衰えてしまうくらいには眠っていたらしい。
どこもいたくないよ
俺はそう言おうとして、固まった。俺の耳に聞こえてきたのは、空気が流れる音だけだったからだ。何度声を出そうとしても、サーっというノイズ音しか聞こえない。息を吸っては吐く、息を吸っては吐く。いつもやってきていたことのはずなのに、できない。ただそこには空気の出し入れしか存在しなかった。
「レリア?」
俺の様子がおかしいことに気がついたランスが声をかけ、俺の体を触ってくる。そんな様子を、マリーは酷く怯えた様子で見守っていた。
「レリア? どうした? 大丈夫か?」
「ハァーーーッ。ハァーーッ」
喉を抑えている俺の手をどけて、ランスが俺の喉に触れた。
「レリア、声を出してみろ」
ランスの言葉に頷いた。不安だが、きっとランスなら何とかしてくれると、そう思って俺は再び息を吐いた。何度も何度も息を吐いた。しかし、結局それは本当に息を吐いただけだった。
ランスが脱力した。
「レリア、すまない……」
そして、そう呟くと、ランスは座り込んでしまった。
声が出ない? どうして? 声が出ないなんて、え? ランスはなんで俺に謝っているんだ? わからない。何を言って、え? そんなもの、そんなもの……、あああああああああ。
声のない慟哭が部屋に響いた。
声が出ない? そんな馬鹿な。どうして声が出ないんだ? 声帯が震えないから? いや、そう言う事じゃないんだ。どうして俺が声を失わなければいけないんだ? 俺はもう喋ることはできないのか? 俺の見てきたもの、聞いて来たもの、考えていること、したい事、して欲しい事、そんな他愛のない会話を俺は出来なくなってしまうか?
あぁ、嫌だ! 俺はもっと話がしたい。出会った人と、大切な二人と! 森で見つけた花はどこにあったのか、空を飛ぶ鳥の鳴き声はどんなだったのか、料理がどれほどおいしいのか、俺の大好きなものは何なのか、他にも、もっと、もっと、もっと、もっと! 俺は話したいことがあるんだ!
俺が皆をどれだけ好きか、どれだけ感謝しているのか、どれだけ二人を愛しているのか、それさえも伝えることはできないのか。おはよう、いただきます、ごちそうさま、おめでとう、ありがとう、おやすみ、こんなあいさつでさえ、俺には幸せに感じられるのに、それさえも、俺は、……俺は!
舌足らずだったけれど、ちゃんと会話は出来ていた。意思の疎通はできていたんだ。そのはずだったんだ! なのに、もしそれが出来なくなったら? 今度こそ、俺は、あの時みたいに、みんな、俺を……。あぁ、どうして……。どうして俺が声を失わなければいけないんだ!
何度も、何度も叫んでは見たものの、耳障りなノイズ音しか聞こえなかった。
「そんな……」
息を呑むマリー。赤くはれた目からは再び滴が零れ、そして、筋となった。
「ごめんなさい、私のせいで、ごめんなさい――」
謝らないでくれ。誰も何も悪くない、悪くないのだ。悪いのは、……そうだ! こんな運命を押し付けた神様だ。俺を救っただなんて嘘だ! こんな運命を、俺に……。
だから、だから皆、笑ってくれ。頼むから。皆が笑っているのが好きなんだ。皆の笑顔が好きなんだ。明るいこの家が好きなんだ。だから、笑ってくれ、笑ってくれよ……。皆が笑っていてくれないとますます泣きたくなるじゃないか……。
そっと俺の頭を撫でる手。大きくて、ゴツゴツしてて、温かくて。でも、それは昔の俺の記憶。その優しかった手は、ベッドの縁に力なく、置かれている。ごめん。二人に恩返しをしなくちゃいけないのに、二人の負担がまた増えてしまった。今度こそ、二人は、俺を……。
部屋には、マリーの叫び声だけが木霊していた。




