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2019/3/11

 俺の眼の前で、レリアの身体がゆらりと揺れた。倒れる前に受け止める。恐れていた事態が訪れてしまったようだ。このまま目を覚まさなかったら、そう思うと身体が震える。何も考えられなくなる。だが、そんなことを思っている暇はない。魔力欠乏は魔力さえ回復すればすぐに治るはずだ。少しずつでも、魔力さえ回復してくれれば。


「先生!」

「わかっておる」


 魔力欠乏の際の処置はとにかく温めることだ。魔力欠乏によって体温が下がり、内臓の機能が低下する。そして、最悪の場合は……。だが、体温低下さえ防げれば死ぬようなことは普通はない。体温さえ維持できれば、魔力は自然に回復していくはずだ。兎に角、早く室内に運ばなければ。


「む?」

「どうした!?」


 既に傍まで来ていた先生が、レリアの体に触れた途端、声を上げた。押し留めていた不安が心のうちから溢れてくる。緊張で体の動きが鈍る。レリアを持つ手が汗でじっとりとする。大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。レリアの体温は感じる。まだ生きている。


「変じゃのう。身体が暑い」


 その言葉にはっとする。じっとりと俺の腕を湿らせる汗。レリアの身体が暑いのだ。汗をかくほどに体温を感じるのだ。そう思ったのも束の間、レリアの身体はみるみるうちに変化していく。全身が腫れ上がり、皮膚が、赤黒く染まっていくのだ。わけがわからない。ただ、わかることは明らかに魔力欠乏の症状ではないということだけ。


「――っ! ――っ! ――っ!」

「おい! レリア! しっかりしろ!」

「レリアちゃん!」


 声にならない叫び声をレリアがあげた。何もできない自分がもどかしい。なぜ、こうなる前に俺は気がつけなかった? 何が訓練だ? ただ、レリアを危険に晒しただけじゃないか!


「むっ」


 レリアの声が途切れると同時、先生が唸り声をあげ、鞄から器具を取り出した。


「ランス、補助を頼む」

「わかった!」


 先生に渡された器具をレリアの口に突っ込み、無理やり喉をこじ開ける。膨張した身体が喉を圧迫して器官を塞いでいるらしい。急いで口の中に魔法の光源を入れ、明かりを確保する。俺にはこれくらいしかできない。


 こじ開けた喉に、先生が管を通した。ヒュー、ヒューと息の通る音が聞こえる。うまく通せたらしい。しかし、安心はできない。今では皮膚の色は赤というよりも黒に近く、まるで、全身が鬱血したみたいになっている。俺たちは急いでレリアを家の中へと運んだ。


「先生、レリアちゃんが! レリアちゃんは!」

「落ち着くんじゃ、マリー!」

「マリー! 今はレリアを信じろ!」


 支離滅裂な言葉を発するマリーをなんとか落ち着かせようと、二人で怒鳴る。いや、皆が皆に言い聞かせているんだ。これが落ち着いていられる状況じゃないのはわかっている。だが、落ち着かなければ、正常な治療は施せない。


「レリアちゃん! レリアちゃん! 私が! だめ! 死んじゃ――」

「止むおえん!」


 カラム先生の手刀により、マリーは気絶して倒れた。床にぶつかる前に、マリーを抱き抱え、壁に持たれかけさせておく。その姿に、少しだけ冷静になれた自分が嫌になる。


「すまぬ」

「この状況じゃ仕方ない。それよりも、レリアの状況は?」

「とりあえず、進行は止まったようじゃが、予断は許さん。腫れ上がった全身が血管を圧迫しとるようじゃ」


 レリアの全身はいつもの二倍以上に膨れ上がり、目も、鼻も、口も、何処にあるのかわからない状態だった。ただの肉塊のようになってしまったレリアは、飛び出た管から聞こえるヒューヒューという空気が通る音で、辛うじて生きていることがわかるような状態だ。


「レリアは、儂が、命に変えても救ってみせる。じゃから安心しろい」


 先生はレリアの前進をくまなく押し撫で、血液の流れを止めないようにしながら、そう呟いた。珍しく、先生が根拠のない希望を俺に言った。だが、今はそれにすがるしかない。先生の言葉に頷き、レリアの無事を祈ることしかできなかった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 俺の両親は金持ちだった。父親はそれなりの大きさの企業の社長だったし、母親も会社を興していた。

 両親の結婚は所謂政略結婚。父と母方の祖父母との間で交わされた契約だった。そんな結婚生活に愛情など出てくるわけもなく、しかし、そこは男と女。一つ屋根の下で暮らせは自然と事は起こる。そうして生まれたのが俺だった。


 物心付いた頃から俺は無駄に広い家に一人でいた。いつも食事は出前で済ませ、極稀に家族で食事をするにしても外食だ。そんな食生活を幼少期から続けていたのだ。俺の体型を想像するのなんて簡単だろう。そんな姿を見て、完璧主義者で潔癖症だった母親は俺の事をより強く疎ましく思っていた。


 家族の愛情なんてものを知らずに育った俺は、それはもう、荒れていたと思う。小学校ではそれこそ暴虐の限りなんて言っても過言ではないくらいに暴れていた。これくらいの時期は体格が全てで、他人より体重の重かった俺はことを有利に進められ、調子に乗っていたのだ。俺は誰よりも強く、偉いのだと、本気でそう思っていた。

 きっと、構って欲しかったのだろう。繰り返される悪戯に、暴力。連日かかってくる学校からの電話。俺の親はそれはもういろいろと溜まっていたに違いない。たぶんそれは学校側も同じで。父親は仕事ばかりで、学校関係は全て母親に任せていたし、母親は母親で、学校の呼び出しに応じる余裕はなく、電話のみの対応だったのだから。


 両親の顔や声、名前でさえも、今ではもう、殆ど覚えていない。関係がそれだけ希薄だったのだ。


「アンタなんか生むんじゃなかった」


 この言葉は強く印象に残っている言葉だ。というか、親との会話で唯一覚えているセリフだ。もはや会話と呼べるのかも怪しいほどだったけれど、それでも覚えているのはこれだけ。なぜそんなこと、どういう顔で、どこで、言われたのか、全く覚えていないが、セリフだけはいつでも頭の中で再生できた。


 中学に上がると、皆身長が伸び始め、筋肉もそれなりに付いてくる。俺のアドバンテージであった体重の差も小さくなり、ただの脂肪の塊だった俺には、権力を維持するだけのポテンシャルはなかった。

 残ったものと言えば、弛んだ腹と両親から与えられた財力という呪われた力だけ。俺に金があることを嗅ぎつけたやつらに集られる毎日。小学校で荒れていたせいもあり、味方するものなど一人としていなかった。

 高校でもその状況は変わらず、変わったのは集ってくる奴らの顔ぶれだけ。どうすることもできない俺は、それをただただ受け入れる事しかできなかった。


 親の金をばら撒いていただけの俺に天罰が下ったのかもしれない。どうしようもない俺を救ってくれたのかもしれない。神様が何を思って、あの日俺を殺したのかはわからないが、俺としては、死んだことで救われたと思っている。死後、生まれた世界で出会えた二人。俺に幸せをくれた二人。その二人に俺は何を返せただろうか。二人だけではない。他にもこの世界で出会った人たちに、俺は何をしてあげられただろうか。

 俺はまだ何もしていない。あの世界でも、この世界でも。俺は何もしていないのだ。何かしなければ……。でも何を? 俺は何がしたい? いったい何が――


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「レリアちゃん……」


 眠るレリアの横で、マリーが思いつめた表情で座っている。あの日からずっとだ。片時も、レリアのそばを離れず、容態を見守っている。そして時折、呟くのだ。レリアちゃん、ごめんなさい、と。


「レリアなら大丈夫だ。俺たちの子だろう?」

「でも、私があのとき――」

「マリーだけのせいじゃない。俺も先生も必要だと思ったから、レリアに魔法を使わせたんだ。だから、マリー、君だけのせいじゃないんだ」


 何度も繰り返したやり取り。だが、今のマリーには意味がないだろう。だが、そう言わずにはいられなかった。レリアだけじゃなく、マリーも倒れてしまいそうだったから。



 ――レリアが倒れたあの後、俺達は三日間、昼夜を問わず、交代で治療を続けた。そのかいあってか、次第に腫れは引き、レリアはなんとか一命をとりとめたのだ。


「なんとか、峠は越えたようじゃな」


 腫れの引いたレリアの様子を見て、先生はそう言った。しかし、その皮膚はまだ赤く、完全に大丈夫だとは言い切れない。先生の顔も安堵してはいなかった。


「ふむ……」


 一息ついた先生は、再びレリアの診察を始めた。今までは治療に専念していたせいで、レリアの症状の詳細を調べられなかったからだ。俺は先生の診察を横目で見つつ、マリーに声をかけた。


「なぁ、マリー。少し休んだらどうだ?」

「……」

「マリー?」


 目を覚ましてから、ずっとこんな調子だ。魂を抜かれたかのような表情をして、じっと座っている。治療自体には参加して、役割を全うするだけの力は残っているようだが、こちらの呼びかけには、なかなか答えてくれない。


「マリー?」

「え? ああ、ランス……」


 数度の呼びかけで、ようやく反応したマリーに、俺は休むように言った。


「ずっと寝ていないだろう? 今のうちに休んでおいてくれないか」

「でも、レリアちゃんが……」

「レリアなら、大丈夫だ。もう、落ち着いたよ。それよりも、今マリーに倒れられると困る。だから休んでくれ」

「え、えぇ。そうね。わかったわ……」


 そう言って、再びマリーは動かなくなった。だが、しばらくすると、立ち上がり、部屋から出ていった。無事、寝室に向かったようだ。


「それで、先生。どうなんだ?」

「うむ……」


 診察の終えたらしい先生に、レリアの容態をきいてみた。表情から察するに、あまり良い状態ではないらしい。


「先生?」

「うむ。マリーはおるかのう?」

「いや、寝室に戻ったよ」

「そうか。今のマリーには聞かせんほうがよいじゃろう」

「……そうか」


 聞きたくないと、心の声が叫んでいる。止めてくれと叫びたくなるのを必死に堪える。俺は、覚悟を決め、先生に話してくれと声をかけた。


「レリアは、この子の魔臓は、壊れてしまったようじゃ」


 頭を、ガツンと殴られたかのような衝撃が、俺を襲った。いや、理不尽という名の鈍器で、俺は実際に頭を殴られたのだ。意識が朦朧とする。眼の前が真っ白になる。身体が、動かない。

 魔臓。魔力を作り、貯めておくための臓器。それが壊れたということは、魔力を作ることも体内に留めておくこともできないという事だ。魔力が失われた人間は衰弱し、やがては死んでしまう。つまり、魔臓が壊れたレリアは、このまま死んでしまうということだ。ようやく一命をとりとめたのに、そう思っていたのに! このまま、目覚めることなく、死んでしまうのだ……。

 魔臓を治す方法は、あるにはある。だが、それには莫大な金が必要だ。ヴァーノン、レオナール、カスパール。かつての仲間たちに頭を下げてかき集めれば、なんとかなる可能性はある。だが、その治療を受けるだけの時間はレリアにはないだろう。レリアの魔力量はもともと少ない。魔臓が壊れた今、その少ない魔力も徐々に失われているだろう。すぐに底をついてしまうことは、火を見るより明らかだ。

 薬はどうだ? 無理だ。魔臓がないんじゃ、薬を与えたところで魔力が生産されることはない。そもそも薬が完成するまでの猶予はレリアにはない。レリアを救う手立てが、もう、残されていないのだ。


「儂は今から王都へ向かう。教皇になんとか話をつけてこよう」

「あ、ああ、そうだな。すまない」

「仕方あるまい。今動けるのは、儂だけじゃ」

「先生、ありがとう。金の方はなんとかする」

「うむ。時間は、レリアの体質にかけるしかないじゃろう」


 魔力が少なくても生きていけるレリアの体質。何処まで持つかわからないが、先生が戻ってくるまで、レリアには頑張ってもらうしかない。もう手立てがない? 俺がレリアを信じないで、どうするってんだ! 俺はあの子の父親なんだぞ! 俺は金をなんとかする。そうすれば、教皇の治癒魔法できっと……。


「一ヶ月以内には戻る。それまでは、レリアのことを頼んだぞい」


 そう言って先生は出ていった――





 あれから、既に一ヶ月が過ぎた。レリアの肌は少し赤みが残ってはいるものの、普通の色に近づいていっている。あの日のことが嘘のように、肌の腫れはすっかり引いた。だが、この子が目を覚ますことはなかった。


 水を口に含ませれば、飲み込んでくれる。ドロドロの離乳食なら食べてくれる。なんとか、これまで生き残ってくれている。目を開けることも、声を発することも、手足を動かすこともないが。

寝たきりのレリアの手足は衰え、細い。ほとんど骨と皮だけの状態だ。未だ、魔力欠乏の症状は現れていないが、徐々に弱ってきているのは確かだ。

 先生からの連絡も、金の目処も、立っていない。俺はどうすればいいんだ。いったいどうすれば、レリアを救うことができるんだ。



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