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2019/03/06 差し替え
目を覚ますとそこにはいつもの天井があった。白い壁紙の張られた何処か小奇麗な天井。首を捻れば窓からは灰色の世界が広がっていた。無駄に大きなベッドから降りて、俺はリビングへと向かった。
何も変わらない毎日。学校と家とを往復するだけ。学校ではただボーっとして過ごし、家でも、ただボーっとして過ごす。国語、英語、数学、歴史――。学校では聞き流すだけの授業。テレビ、ゲーム、パソコン、読書――。家でも内容が変化するだけで基本は同じ、ただの暇つぶしだ。何をするにも身が入らない。唯々時が過ぎるのを待っている、それだけの日常。
今日もいつものように朝食を取り、学校へと向かった。
何の変哲もない街。大都会というわけでもなく、ど田舎というわけでもない。よく言えば程よく田舎、言い換えれば寂れた街だ。この日本ではきっとありふれた風景なのだろう。
そういえば、今日を境に少しだけ日常に変化が生じるのだった。学生ならば誰しもが待ち望んでいると、そう思われている行事、夏休みだ。しかし、俺にとっては別段たいした変化ではない。いつもの日常から『学校と家とを往復する』という行動が抜けるだけだ。そして、そんな変化も、『ただの暇つぶし』という行動に塗りつぶされてしまう。
学校に着き、下駄箱を開けた。もちろん中には何も入っていない。……いつものことだ。
靴を脱ぎ、手に持ち、下駄箱に入れ、閉める。そして、足の裏に硬く冷たい感触を味わいながら、自分の教室へと向かった。
教室の入り口、入ってすぐ右にあるグレーの箱の中を見ると紙屑、埃、お菓子の袋、そういった雑多なものに紛れて俺の上履きが顔を出していた。いつもいつも同じところに入れるのだから、芸のない奴らだと思う。まぁ、こちらとしてもその方が楽でいいので文句を言うつもりはないが。
俺はいつものように箱に手を突っ込み、上履きを取り出した。クスクスという笑い声もいつものこと。何も変わらない日常。俺は席に付き、ゴミを取ってから上履きを履いた。
今日は終業式だ。授業はない。担任の指示に従い体育館に行った後、校長の長い話を聞き流し、夏休みについての注意事項を説明され、帰宅となる。いつもとは少しだけ違う日常だが、本質は変わらない。学校と家とを往復し、学校では先生の話を聞き流し、家では暇つぶしだ。結局は日常と大差がないことにため息がでた。
帰り際、下駄箱で呼び止められた。
「おい、ちょっと付き合えよ」
いつもの顔がそこにはあった。変わらないメンツ。俺に群がるのはこいつらだけ。それ以外はみんな離れていく。俺は屈んだ姿勢のまま頷き、奴らに同意した。
俺の日常の中で、定期的に起こるイベント。こんなイベントはクソくらえだが、結局俺はこの日常からは抜け出せない。避けては通れないのだ。
俺に群がる奴らは大抵、俺を連れてゲームセンターへ行く。そして俺の財布から金を抜き取り、遊ぶ。俺は見ているだけ。しかし、今日は違った。俺の財布から金を抜き取らないだとか、俺も一緒にゲームをして遊ぶだとか、そういった喜ばしい変化ではなく、どうやら奴らはゲームセンターには行かないらしい。
奴らは俺の知らない道をズンズンと突き進んだ。見慣れた灰色の建物はやがて茶色へと変わり、ついには緑の草原へと変わった。黒いアスファルトは既に砂利道へと変わっている。俺はそれについて行く事しかできない。俺に拒否権は認められていないのだから。
いつもと少し違う今日ならばもしかしたら、とそんな変な気を起こしてはいけない。それはあまりにもリスクが大きいし、得られるものもない。日常を変えるには犠牲がつきもので、俺はその代償を払うことができない。だから俺はいつものように奴らについて行った。
脇道に逸れ、人一人がようやく通れるような道を抜け、車の音すら聞こえないような人気のない茂みを越え、辿り着いた先は工場跡だった。それは俺の知らない場所だった。
コンクリートの床は所々小さなへこみがあり、ボコボコで、焦げ茶色に錆びた鉄でできた何かがポツポツと床に落ちていた。壁にはそこら中にスプレーで書かれたよくわからない絵や文字があり、ガラの悪い奴のたまり場というイメージをそのまま体現したような場所だと俺は思った。
変わり映えのしない毎日に未知なものが現れた。この世界はあまりにも広く、俺の世界はあまりにも小さい。だから、知らない場所などそこら中にあるのだ。知らない道を行けば知らない場所に出る。知らない場所に行けば知らない人に出会う。知らない人に出会えばその先に何かがあるかもしれない。
だが、俺の世界は広がらない。知らない人と出会ってもそれで終わりだ。広い世界で俺は一人。それならば世界を狭くしても問題ないだろう? 世界を広げて何になる? ただ孤独を噛みしめるだけじゃないか? だだっ広い荒野に、ただ一人、ポツンと蹲る自分の姿を想像して、嫌な気分になった。
変わらない日常は結局、俺自身が変わろうとしていないから変わらないのかもしれない。変化はいつだって訪れる。それを俺が認めていないだけなのかもしれない。今日だって、こうやって変化が訪れた。朝から、変わらない、変わらないと、そう思っていたのに……。でも、それでも、世界は狭いままでいい。
工場跡には知らない男が立っていた。学ランやブレザーではなく、ちょっとお洒落な私服姿で、腕を組んでいる。髪は染めておらず真っ黒で、長くもなく短くもないといった様子だ。一見すると真面目そうなその男は、しかし、奴らと同じ空気を纏っていた。
「先輩、連れてきました」
「おう」
先輩と呼ばれたその男はそう一声あげると、こちらに近づいてきた。それに合わせてコツ、コツ、コツ、と嫌な音が工場跡に響き渡る。
「お前、金持ちのボンボンなんだってな」
これは質問ではない。ただの独り言だ。答えは要求してない。小さな世界での常識だ。散々叩き込まれたのだ。そう、文字通り叩き込まれたのだ。こういう奴らの言葉の意図は理解できてしまう。だから俺は何も答えず、一点を見つめた。相手の腹辺りを虚ろに見続けた。
「金貸してくれよ」
小さな変化も、結局は日常と一緒だった。その変化は、俺の世界に影響を与えてくれなかった。変化を俺が認めない? だって一緒じゃないか。日常が変化しても世界は変わらないんだ。何にも変化しないんだ。だったら、変化を認めなくたっていいだろう?
俺に近づいてくる奴らは、皆、金が目的だ。金、金、金。どいつもこいつもそればかり。こんな金いくらでもくれてやる。どうせ俺には金以外に何もない。いや、そもそもこの金だって俺の物じゃない。それなら、俺には何もないってことじゃないか。金も、友達も、家族も、何もかも俺は持っていない。ははは、それなら、失うものさえもないな。
俺は無造作に鞄に手を突っ込んだ。慣れた動作だ。けれど、目的のものが見つからない。いくらカバンの中を弄っても、財布が俺の手に触れることはなかった。……そう言えば、昨日の出前の支払いの後、財布を机の上に置きっぱなしだった気がする。
「……す、すいません。わ、わ、わしゅ――」
「あぁ? んだよっ!」
胸倉を掴まれ、言葉が途中で途切れてしまう。この後はどうなるかわかっている。俺は弛んだ腹筋に力を込めた。
先輩と呼ばれた男は掴んだ胸倉を引き寄せ、俺の身体をくの字に曲げた。そして、少し屈んだ姿勢になった俺の腹に膝蹴りを放った。
「うげえええええ」
痛い。痛い。痛い。痛い。幾ら身構えたところで、痛いものは痛いのだ。鳩尾を抉られ、蹲るほかない。胃の中の物は既に消化済みで、出てくるのは唾液だけ。それでも胃が何かを吐き出そうと懸命にうねり、さらに痛みは増していく。そんな俺を見ても奴らは薄ら笑いを浮かべるだけで、同情も、感動も、歓喜でさえもあげはしない。まったくもって蹴られ損だ。
金がないと分かるといつもこうだ。俺には何もないって言うのに。叩いても何も出てこないぞ? 朝食だって、とっくに消化されてるっていうのに!
金がないなら体で払えとでもいうのだろうか。金の次は暴力だ。金を俺からむしり取り、暴力を俺に押し付けてくる。金と暴力のやり取りなんて、等価交換でも何でもない。与え、受け取っているはずなのに、損をするのは俺だけだ。何もない俺に、暴力を恵んでくれるとでもいうのだろうか。俺という存在を暴力で埋め尽くしてくれるとでもいうのだろうか。そんなのクソ喰らえだ!
そんな俺の悪態を知ってか知らずか、次々と追撃が飛んでくる。腕に、脚に、背中に、腹に、頭に。表に出ている面を虱潰しにするかのように蹴りが塗りたくられていった。
「こいつ反応薄いな」
ひたすらに耐えていると、先輩と呼ばれた男が突然、そんなことを言い出した。慣れちゃったんだよ。反応薄くて悪かったな。演技でもしろと? 俺に演技力なんてない。演技をしたところで火に油を注ぐだけだろう?
「お! こんなんどうっすか?」
声のした方を向くと、いつもの内の一人の手には鉄パイプがあった。工場跡ならきっとそれくらいはあるだろう。予想はしてなかったけど。
反応が薄いから、より過激なものでと言う事だろう。確かにそれには慣れていない。だからきっと反応も良くなる。暴力の中にも変化が生まれた。だが、それも暴力という枠組みの中での変化に過ぎない。結局何も変わっていない。
ああ、痛そうだ。抵抗したところで余計にひどくなるだけだと俺は判断し、それを受け入れることにした。
「おら!」
ブンッという音と共に脇腹に衝撃が走った。脇腹を鈍痛が襲う。ジンジンと熱を帯びた様に、それでいて突き刺すかのような焼けた痛み。たぶん、骨が折れてしまったのだろう。骨を折るのも何度目になるのか……。
この後病院か。正直面倒くさい……。だって、この痛みに耐えながら病院まで行くのはシンドイから。
こいつらが救急車を呼んでくれればいいのにな。そんな淡い期待を抱くも、そんな日は一度も来ることがないのを俺は知っている。そんなのは非日常で、変わらない日々を送る俺にとっては無縁の話だ。
自分で救急車を呼ぶか? あぁ、そう言えば、ここって何処だったっけ? 電話しても説明できないや。はぁ……この痛みに耐えながら来た道を引き返すしかないのか……。
俺は欝になる思考を無理やり止めた。そんなこと、終わってからいくらでも考えられる。今はこの場を乗り切ることそれと帰り道を思い出すこと、それが重要だ。
「うぐっ」
そんなことを思っていると第二波が俺を襲った。まだ二回目だというのに気が遠くなる。
早く終わってほしい。こんな痛み、耐えられるわけがない。いっそそのまま気を何処かに置いてくれば楽になるのだろうか。
日常は変わらない? はっはっは、喜べ、俺! こんな痛み初めてだろう? 意識を手放したくなるような猛烈な痛み、初めてだろう? やったな! 退屈な日常とはおさらばだぜ! クソが!
確かに俺は変わり映えのしない毎日に嫌気がさしていた。だが、こんな負の方向への変化なんて求めていない。こういうのが嫌だから俺は変化を恐れていたんだ! こんな変化なんていらない。今まで通りで良かったのに、どうして変わってしまったんだ。今まで通りの日常でいい。今まで通りの日常に早く戻してくれ……。
もう既に、何処が痛いのかもわからなくなっていた。何回殴られたのかもわからない。ただわかることは、既にこれは『変わらない日常』ではないということだけだった。
「じゃあ、これでラストなー」
朦朧とする意識の中でそう聞こえた気がした。次で終わる。次を乗り切ればいつもの日々に戻れる。俺は痛みの中で狂喜した。ようやく『いつも』に戻れる。後一発、一発だけ耐えれば日常に帰れるのだ。
終わったら何をしよう。帰ってゲームか? ……コントローラ、握れるかな? あ、でもその前に病院だったっけ? 知ってる道まで戻れるだろうか? ああ、いっそ、このまま眠ってしまおうか。物凄く疲れたし、それがいいかもなぁ……。
鈍い打撃音と共に右腕に鈍い痛み。……これで終わりだ。
終わりだと思うと、身体の緊張が解けてくる。気が抜けたせいか、痛みはさらに増したが何とか生きている。息をするのも苦しい。浅い息を繰り返すのがやっとだ。でも、生きている。生きている!
これで終わりだ。このままゆっくり寝よう。そうして起きたらどうするか考えよう。今はもう、何もしたくない……。
ガンッ
突然、頭部に激痛が走った。薄れゆく意識の中で、俺は自分に何が起こったのか理解できなかった。