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なにもない六日の日  作者: 水無月旬
三十一日の日
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三十一日の日 3

美さんの家はそこまで遠くはなかった。会社のすぐ近くのアパートに一人暮らしをしている。『ハイツ山中』と書かれたそのアパートは、築何年なのか訊きたくなるほどぼろく、もうそのマンション名ですら霞んでいるようで、最初は『ハイツ山口』と読んでいた。別に名前なんてどうでもいいけれど。

植物のつるが伸びていく次第で、誰が手入れをしているのか知らないが、誰も整備なんてしていないんじゃないかと思っても仕方のない様子だった。

作家なのだからもう少し良い所に住んでもいいじゃないか、と思うけれど、美さん曰く、「小説が書ければなんだっていい」だそうだ。俺より年収良いくせに、俺よりぼろい部屋に住んでいるなんて。物の価値感はそりゃ人それぞれだけれど…。

まあそこまで担当作家が真面目に小説を書いてくれるのはありがたいが、どうもその言葉を俺は疑ってしまうのだった。

美夜空という作家は文章の表現はとても巧みなのに、はっきり言ってしまえば、肝心な物語自身があまり面白くない。

それを良くしていくのは編集者の仕事なのかもしれないけれど、俺は主義的に担当作家の書く作品は作家の自由にさせたかった。

それが仇になるのか求めようともしないが、俺の担当する作家はあまり良いものを書いてはくれない。

美さんの小説の題材も特に変わった様子もなく、たいていは『家族愛』をテーマにした短編小説が多い。美さん自身、特に家庭があるというわけでもないのに。

俺は今回の新作だって、なんて勝手に思っていた。だったらなんでわざわざ部屋にまで出向いたのかというと、はっきり言ってしまうと、会社でのデスクワークが面倒くさかったから、というのが本音だったりする。結局は帰ってからやらなきゃいけない仕事なんだけど…。

アパート最上階の二階へ行き、美さんの部屋のインターホンを押し、部屋をノックする。

返事がなかった…。

なんだよメールしておいて。

 原稿の締め切りが近かったから寝る暇も惜しんで書いていたのかもしれない。美さん、また寝ているんだろうな。先程アパートの美さんの苗字が書いてあるポストには何日分もの新聞がたくさん敷き詰められていた。外にも出てなかったのか。

 しょうがないから俺は一回ドアノブを捻ってみた。するとドアはチェーンなしに易々と開くことができた。

 俺は少し、いやかなり普通ではない感じがした。海外、国内問わずのミステリ好きの自分としては何か事件の匂いがしたわけだ。

 だけど、そんな事はまずないだろう。

 前にもこんなことがあった。美さんの新作が仕上がったと言って、打ち合わせのために玄関のドアの鍵をそのまま開けて寝てしまっていた、という事が。

 それに知り合いの家で事件の匂いがするなんて不謹慎にもほどがある。俺は自分の妄想をしばし自粛して、高鳴る胸を押えた。

 実際その作家は机の上で床就いていた。目の前にあるパソコンの電源が点きっぱなしだった。

「おーい、起きてますかぁ?」

俺は机の上で寝ているオジサンを揺すった。うぇ、なんか臭い。

「んー、あ、市野瀬君か、どうも」

完全に寝ぼけている。そのあと首を縦に振って御辞儀をしたが、そのまま再度寝てしまった。

 これが美夜空の実態だった。名前は綺麗なのに、中身はただのおっさん。自分も最初はびっくりしたけれど、慣れれば平気。初対面の時も、名前だけで邪にも綺麗な女性を想像していた自分を詰ってやりたい気分に襲われたのも昔の話。有名な作家ではなく、作品名はおろか、年齢すらも知らなかった時分だったから。今では笑い話にでもすれば面白い。

 彼は実際五十二歳なのだそうだ。丁度俺と二週分離れている。

「新作書けたんですか?」

「ああ、今コピーするよ」

 そのオジサンは寝ぼけたままパソコンを操作する。そうしてその隣で、このぼろくて汚い部屋の床面積の十分の一を占めてしまう程の最新型のド派手なコピー機が動き出す。

 本当なら、パソコンのデータをそのまま俺にメールで送ってもらうのが一番の良法だと思うのだけど、彼は何故かコンピュータの扱いではWordとコピー機の使用方法しか知らないらしい。メールのやり方もつい最近俺が彼に教えたばかりで、前までは電話で連絡を取っていたのだ。年寄りだから仕方がないと思うのだけど、作家のくせにコピー機すら元々この家にはなかったのだ。かといって俺が買うように促したら、家電量販店の店員に良いように勧められて、要りもしない最新型のを買わされたそうだ。六畳の狭い部屋にそんなコピー機はかえって不要だろう。俺が店までついていってやればよかったかな。って、なんで編集者が担当作家の世話までしなきゃならない!

 印刷するまでの間、彼は座っていた床から立ち上がり、部屋の入り口を入って左手にある台所とも呼べない台所へ向かって、何かをやり始めた。

 どうやらコーヒーを入れ始めたらしい。

 今までこんな事をしたことはなかったはずなのに、彼は手際よく引き出しからコーヒーミルを取り出して、豆を出して挽き始めた。美さんにこんな趣味があったのだろうか…。

「昔は娘がよく挽いてくれたんだが…」

彼は作業をしながら、別に聞いてもいないのに急にそんな事を呟いた。

 けれども俺はその言葉にまたしても驚いた。

「娘さんがいらっしゃったのですか?」

別に興味なんて甚だなかったが、何か言いたそうだったので訊いてみる。

「ああ…ふたりね」

「そうですか…」

 そこから先は何も訊ねなかった。そして彼が差し出したコーヒーをブラックのまま啜った。うっ、苦い…。普通砂糖とかミルクいるかって聞くよね?

 コピー機から出てきたものを手に取る。最新型なので印刷スピードも見合うほどに速い。A4サイズが200枚あってもすぐ刷り終わった。

 タイトルを見る。

『私だけの秘密』という題名だった。

 あとで読んでみるつもりだったのだが、折角なので序文だけでも流し読みをした。

 どうやら長編小説のようだ。



  私は幻を見ているような気分だった。

  私の目の前で、あれ程会いたがっていた人が微笑んで私を見ていた。

  夢なのだろうか、それともやっぱり幻を見ているだけなのか。どちらにしても、私  が虚構の世界を見ている事には変わりがなかった。

  あなたは昔、私にこう言った。それは昔々、昔話のようだけれど、本当に昔の話な  のだから仕方がないと思う。


 『強くなりなさい』

  あの時、あなたは言った。

  けれど今日のあなたは違った。やはり虚構の世界なのだろうか。

 『私の所へ来てもいいよ』と、こう言った。

  私は少なからず喜んだ。ずっと会いたかった人の元へ行けるんだ、これほどの幸せ  はなかった。

  それでも私は頭を横へ振らずにはいられなかった。

 『私は強くなるの』私はこう言った。

  昔の事を思い出すようにして、言葉を搾り取った。

  何処か心の奥深くよりも深く。私が私を見ていることに気が付く私がいるみたいに、  そうやってつながれた鏡の奥の私が言ったのだ。


  そうして朝、いつものようにその夢が覚めて、一日を迎える私がいた。



 どうだろう、何とも言えなかった。


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