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なにもない六日の日  作者: 水無月旬
三十一日の日
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三十一日の日 2


「おはようございます」

 通勤している会社に着いて、エレベーターに乗り、自分の属する編集部へと向かった。

 俺の働く職場は特に変わった様子もない普通のデスクワーク専用の職場だった。広さはビルの大きさ相当で、書類が山のように積まれた机と椅子、パソコンなどのコンピュータ機器類やそのコードが惜しみなく広がっていた。そこではもう既に同じ職場で働く仲間たちが思い思いに仕事をしていた。

 俺は自分の机の上に荷物を置くと、自分の席の隣の上司、大川さんがパソコンに向かって難しい顔で仕事をしているのが目に入ったので、一応挨拶をする。

「おう、市野瀬早いな」

 大川さんはパソコン画面に顔を向けたまま挨拶をしたので、先輩の方が早いじゃないですか。という返事を出しかけたところで飲み込んで、自分の机の下に荷物を置いて早速パソコンをつける。

 Windowsが開いてパスワードを入力してホーム画面を開く。

よく同じ職場の職員はこのパソコンのホーム画面の壁紙を家族の写真や、好きな本のキャラクターの絵などの画像を使っている人が多いけれど、俺はパソコンの初期状態から一切、手を加えていない。何となく面倒くさいし、このままで慣れてしまっていたので、これが一番しっくりくる。

それは霞みのなく、作られたような真っ青の群青色の空の写真。

隣に座っている大川という名の上司は少し変わっている先輩だ。

歳は四十九歳にして未婚。俺が面倒くさくて変えていないホーム画面の画像は、この会社の社員食堂のメニュー表の写真だった。彼に訊いたところによると、「カウンターで迷わなくて済むからな」と言っていた。

彼の最近の趣味は専らマラソンらしい。週二でスポーツクラブに通っているそうで、先月は念願の東京マラソンに出場することができたと言って大喜びしていた。彼によると、最近はマラソンブームが起こっているらしく、東京マラソンの出場倍率は十倍だったそうだ。それはもちろんすごいことだと思うのだが、この上司、マラソンをしている自分に酔っているようで、マラソンの話になるとすぐに熱くなる。彼の話し相手になるのが億劫になる程なのだ。

俺は今日の仕事をすべく、パソコンをいじっていると、携帯ではなくパソコンの方で一件メールを受信していた。これは仕事関係のメールだとすぐに予想がついた。俺はすぐに受信箱を見てみる。

メール送信者は『(いつくし)夜空(よぞら)』となっていた。

ああ、美さんか、と思ってメールを開く。

『次作が完成しました。』ただそれだけだった。

 俺は出版社の編集部と言っても、文庫の編集部をやっている。今の美夜空という人は俺が編集担当をしている作家のペンネームだった。

 俺は出勤して早々会社を出ることにした。

 美さんにメールを返信したけれど、返信メールが返ってくる保証はなかった。

 携帯電話から電話をしようと思ったけれど、仕事にあまり携帯電話を使いたくはなかった。美さんからのメールがパソコンに届いたのも、実は美さんには自分の携帯アドレスを教えていなく、パソコンのアドレスしか教えていないからだった。

 携帯電話を仕事関係で使いたくないのは、家では仕事に追われたくないという単なる俺の我儘だった。

 しょうがないから美さんの所へ自分が行くしかない。

 席を立って再びエレベーターに乗る。エレベーターの『閉』ボタンを押して一階のボタンを押すと、なぜか急にエレベーターが再度開いた。

「あっ、一矢さんお疲れ様です。これからどこへ行くのですか?」

 外からエレベーターの中に一人若い女性が入ってきた。

「ああ、今からちょっと用事が」

「そうですか…」

「………」

「…………」

 話がもたなかった。気まずい事この上ない。

 この女性は俺と同じ職場の後輩だった。誰からも彼女の歳をはっきりと聞いたことがないのだけれど、大学を出て二、三年くらいのように見える。今更女性の歳を詮索するなんて失礼だろう。

 俺と彼女との会話が続かないのにはしっかりとした訳があった。

 彼女は井上(いのうえ)佳織(かおり)という名前だ。この広い会社の中でも噂されるほどの美人であり、社内のあらゆる部署から男共が彼女を見るがために、うちの部署へ来る始末だった。仕事もよくできるし、非の打ち所のない女性だ。

 そんな女性に俺は告白された。

 先日、同じ職場の仲間と数人で飲みに行った時の事だ。その時にはもちろん井上香織もいた。

 確か俺と同年代の高橋(たかはし)が「彼女を呼ばなきゃ話にならねぇ」だとかなんとか言って彼女を誘ったのだ。

 そして、その飲み会が御開きになった後、帰り際、偶々井上香織と帰路が重なった。

 アルコールがはいっていて、自分自身の記憶も少し曖昧だったけれど、確か俺は彼女に対してこんな事を言ったんだ。

「井上はすごいな。若いのに何でもこなせて」

これは酔っていたとしても、本心から出た言葉なのだろうと自分でも思う。

あの時、彼女も結構酔っていたのだろうか。

「一矢先輩が好きだから頑張っているんですよ。振り向いてもらいたくて…。あっ、言っちゃった。どうしよ…一矢先輩!この通りです、お付き合いしていただけますか!?」

 確かに俺はそう言われた。妄想じゃない。

 そのあとはあまり思い出したくない過去だ。というより、もう忘れた.そういう事にしておきたい。

 でも明らかな事は、俺がそんな彼女を振って、いつの間にかそれが社内全体に広まってしまった、という事だ。そして最悪の事態、社内のあらゆる男性からの俺に対する目つきが悪くなって…ある意味俺は恨まれていた。

 彼女との仲があまり芳しくなくなったのもこの頃からである。

 さっき、咄嗟の事だったからかもしれないが、彼女がエレベーターに入って来て、俺が乗っていたことを知った瞬間、彼女の顔に少し陰りがさしたのを俺は見逃していなかった。

 沈黙が苦行に感じられる。けれども、それに耐え抜いた所で悟りが開けるわけでもないのが解っているので、それが余計に辛かった。いつも何となく乗っているエレベーターがとてつもなく長く感じられて、エレベーターの少しの揺れで酔ってしまいそうだった。

 それでもエレベーターはしっかり通常運転をしていたようで、やっとのことで一階に着くことができた。

「じゃあまた」

 井上佳織も一階に用があるようだった。俺は彼女にそう告げて、逃げるように早足でエレベーターを出て行く。

その時に彼女は何かを言ったのかもしれない。けれど俺は耳に止めたくはなかったし、彼女の顔を見ることもできなかった。


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