三十一日の日
「ジリリ、ジリリ」
午前六時、目覚まし時計が今日も耳障りなほど五月蠅く鳴り響いている。元々人を目覚めさせるための時計なのだから仕方がないのだけれど…。
近所の百貨店でとりわけ音量の大きい目覚まし時計を自分で買ったのだ。文句も何も、って感じ。
気付いたら俺は普通の社会人をやっていた。一流の国立大学に進学して、東京の大手の出版社に勤務している。
いわゆる『勝ち組』に属していると世間からはそういう位置づけをされている。
しかし俺はそう考えていなかった。一度も考えたことがなかった。
理由は一つだけだった。
学生時代に目指していた作家という夢をあきらめる羽目になってしまった事。
今まで何度も新人賞に応募しては何次審査かで落選。大学四年の最後の応募であきらめる結果となった。
これが本当に勝ち組というのだろうか。
それからというもの、俺は無気力になった。とりわけ音量の大きい目覚まし時計を買ったのも、毎朝会社へ行くのが嫌にならないよう自分に気合を入れるため。それが今となっては耳障りでしかないのだが…。
起こしてくれる人がいないのだから仕方がない。俺は東京の仮住まいで一人暮らしをしている二十八歳。特に急いでいるわけでもないから、まだ結婚は先でいいかな、なんて思っている。
実家は静岡県の川根本町という所に一階建ての一軒家がある。東京からは車で約五時間位かかってしまう田舎の町だ。
過疎化もずいぶんと進行中で、俺が子供時代に通っていた小学校は去年廃校になったそうだ。実家のすぐ近くにある小学校で、俺が在学していた頃は、確か全校生徒数が二十五人で、もちろんクラスは一学年一つで、クラスの人数は大体五人程度だった。
そんな事からも考えて仕方のないことだと思う。中学校は未だに残っているらしいが、それもまた危ない所だろう。
俺は連日の寝不足で痛む頭と重たい体を起こして朝食を作ろうとした。一人暮らしで困ることは早起きくらいで、俺は身の回りの事はしっかりとできるタイプだった。
料理も十年間の一人暮らしでだいぶ板についてきている。朝食もいくら一人暮らしだからって毎朝欠かさずに食べるようにしている。食べないと昼まで空腹が持たないからだ。
今朝は意外と豪勢な朝食が出来上がった。
食パンに昨日の残りのクリームシチューを少しと、目玉焼き、それに俺が大好きなヨーグルトだった。
俺は小さいころからヨーグルトやカルピスなど、基本乳酸系のものが好きだった。ヨーグルトは乳製品だから気をつけておかないと、運動不足の俺はすぐに肉がついてしまうから、減らそうといつも思っているけれどなかなかやめられない。ヘビースモーカーに煙草を止めさせるくらい難しいことだと思う。自己啓発。
成人男性には痛手の少しカロリー高めの朝食を食べて、やっと食後のヨーグルトに手を出そうとしていた。
俺は小さいカップのヨーグルトではなく、大きいプレーンヨーグルトを買って、器によそってから自分の好きなジャムや、砂糖の分量で食べるのが好きだった。
今日は最近お気に入りのゆず茶を透明な器に入ったヨーグルトの上にかけていた。
ほんのり甘酸っぱい香りが鼻腔を刺した。ジャムを入れたスプーンをそのままヨーグルトに突っ込んでヨーグルトを掬って口に運ぼうとした。
すると朝食を食べていた座敷の上の丸い机の上にあった携帯電話が急に鳴り出した。
メール受信ではなく、電話の着信音。
誰だろう?この時間だと職場の大川さんかな。
大川さんとは俺の勤務する出版社の文庫の編集部の上司。
俺はすかさず携帯電話を手に取る。スマートフォンの画面を見ると、その着信は意外な人からだった。
「もしもし、母さん?」
言っておくけれど、俺は『おふくろ』なんて呼ばない。
俺は左に携帯電話、右手に先程のヨーグルトを掬っていたスプーンを持ったまま電話をしている。
『一矢、元気にしてるか?』陽気な声だった。
「うん、まあね。母さんは?」
『うん元気だよ。昨日なんか、町内のテニス大会で優勝したんだよ』
わざわざ心配かける必要もなかったか。
「で、朝早く何の用?」
俺は未だヨーグルトのスプーンを手にしたまま電話をしている。はっきり言ってしまうと、俺はそのヨーグルトが早く食べたくて仕方がないのだ。
『ああ、そうだった、そうだった』
母さんは思い出したようにそう言う。母さんは別に認知症でも何でもない。話し始めると他の事を全く忘れて夢中になる癖があるのだ。
『一矢、来週はあの人の命日だから。だからこっちに帰って来なさい』やわらげた声だった。
俺は壁に画鋲で貼ってあるカレンダーを見た。四月六日にはしっかりとペンで赤い丸が付けられていた。
「わかってるよ」俺がそう返事をすると、ゆっくりと電話が切られた。
今日は三月三十一日月曜日。今年の四月六日は日曜日だ。
今年はきっと二人を償いに行けるだろう。
俺は甘酸っぱい柚子の香りをいっぱいに満喫した後、職場へと出勤する支度を始めた。