四日の日 3
俺は『ハイツ山口』の中に入り、そして名前の書いた郵便入れを見る。そして確信して俺は二階への階段に足を踏み入れる。あとから美星もついてきて、一人ではない足音を響かせた。
後を追ってゆっくりゆっくり階段を上がり、ある部屋の前に立った。
俺は恐る恐る目の前にあるインターホンを押した。緊張が体中を走った。文字通り体中の筋肉が緊張で張っているような気がして、無駄な身動きが取れなかった。
俺は心を落ち着かせる。大丈夫。確信もあるし、何より彼女、美星がいる。心の中には美月がいて、そして彼女のお母さんもいる。
今度は返事があった。俺はすぐさま彼女に『ちょっと隠れていて』と伝え、彼女は一旦階段を降りた。
そして俺は目の前のぼろい、鉄が錆びているドアノブの向こうから出てくる短髪の五十路の男性を待った。
「どうぞ、ってあれ?市野瀬君?」
その男性はとぼけたようにそういう。何せ彼は何も知らない当事者なのだから。
俺は少し震える手を強く握り、震える唇を強く引き結んで、ドアを開けたままのその男性に言う。それと同時に手に持っている大きいバッグから例の物を取り出して、彼に見せる。
「この小説を読みました」
「どうだったかね?」相手の様子をうかがう様に尋ねる。
「誰が書いたんです?」
「へっ?」
俺は声をさらに強めた。
「誰が書いたのです?美夜空さん、いいえ、本名、東條尋さん」
眼を点にした五十路のおっさんを見た。濁った黒い瞳をしていて、そしてだんだんと慌てて焦点が合わなくなっている。
「ど、ど、ど、どういう事だ」
「あなただったんですね、郵便受けに『東條』と書いてありながら、気付かなかったとは」
「何の事だ!」急に怒鳴って、俺を家の中へ入れようとした。強く手を握られ、部屋の中へ入れられた。
その時階段の下からのぞく美星の顔を見た。ひどく形相の現れている顔つきでこっちを見た。
俺も一瞬ビビった。もしかしたら殺されるかもしれないくらいまで思った。けれども彼、東條は俺を床の畳に座らせたのち、汚らしく敷いてある、しわくちゃの布団の上に右足を曲げて、左足を前に伸ばして俺を睨むように見た。
「どういう事か説明したまえ」その言いぐさは今までの美夜空を覆すものがあった。
俺は一瞬身じろいたが落ち着きを無理矢理保って応えた。
「東條美月、美星」
「がどうかしたのか?」
「まさか覚えていないってことはないでしょう? 一緒だったんですよ」
東條は顔を少し上げて、手を伸ばしたまま俺を睨んだ。
「何が?」
「東條美月が残したあとがき文と、あなたの書いた小説のあとがき文が」
「あとがきだと?」睨む眼を止めなかった。それでも俺は何も怯まなかった。
「そうです。これを見てください」俺は彼に見せていた紙を手渡す。
少し静かになった。彼は目で文をひたすら読んで青い顔をした。
「あなたは父親なんですね?美月の」
俺が気づいたしたのはまさにあの公園で美夜空を読み終えた後だった。何か嫌な胸騒ぎがして、身に染みる文を読んでいると思ったらあのあとがきが目の前に現れた。
こんな文だった。
私は書きたい本がそのまま書ければ本望だと思っている作家です。
確かに私は最近、思い悩むことがあるのです。
瞬間的に書いた物語は必ずしも万人うけのするものではありません。
傍から見ると私達作家を職業にしたい者は万人うけのする作品を書くのが一番だと、 今本を書いている私は思います。けれども私は、主観的に本を書きたいと思う志が、
挑戦したいという気持ちが拭えません。私は片田舎出身の都会生まれじゃないですの
で、昔から自由に生きてきました。だからこそ自分が感じる普段のちょっとした、感
性を表現したいと常々思うのです。今でも自分が書いている本が売れるか気になって
仕方がありません。私が、作家を目指して一番よかったと思う日は、自分の書いてい
た数少ない作品が完成する日だけです。私は今作も自分の過労を押しのけて、自分自
身がやりたいと思った作品が書けて良かったと思いこの本を出版させていただきます。 この本を手に取って頂いた皆様、この本の出版のご協力をしてくださった皆様、本当
にありがとうございます。私の本を少しでもご覧なった事のある方、一度も読んだ事
のない方、様々な方々に私のほぼ趣味から刊行した私のこの本が、読まれて頂けると
想像したら、それもまた幸せです。表現で言葉は華やかになり、それを感じる人は豊
かになって文学を楽しみます。
いつの日かまた私の書いた本を読んでいただけたら幸いです。
大切に今の気持ちを閉まっておこうと思います。
内容がほとんど同じだった。あのメッセージは残っておらず、不自然だったひらがながすべて漢字になっていて、それに文字が38×40のこの小説ではひらがなでもあのメッセージは浮き上がらない。
それでも内容は一緒だった。そのことだけは変わることがなかった。
「それだけの用なのか?それじゃあもう一回書き直すから、待っててくれないか?」
五十路を越えたおっさんはそうとしか言わず、決して自分が何をしたのかを理解していない。
俺は怒りが抑えきれなかった。とてもとても憤ろしかった。
「あなたがそう言うなら認めたってことですよね。でも俺の話はまだ終わっていません。俺が何故ここまで来て、この(・・)猫を連れて来たのかを説明しなければいけません」
俺は一旦落ち着いて、深く息を吸い込んで、そして東條尋に語る。
「俺がここへ来たのは、まずあなたが美月の父親であることを確かめるためです。それはもうあなたが黙認したのでいいです。ただ、そこのすぐ近くに居る頭の良い猫がまさか川根にいたアルジャーノンとまったく同じ猫だったとは。つまるところあなたが連れてきたのですよね。昔に言っていました、美月さんが、あの猫はあなたの僕だと。だから確かめたんですよ、あなたの川根の家にある、まだ残っている布類の一つを持ってきて、まるで警察犬のように匂いをかがせてみたら、このアルジャーノン、つまりあなたの猫がここへ連れて来てくれました。本当に頭が良いですよね。川根の公園にいないから死んでしまったと思っていたのに、まさかこんな所にいたとは…」
俺は東條尋を睨みつけたまま視線を放さない。
「そして次はあなたが何故家を出て、ペンネームをこんな名前にして一度挫折した小説をまた書いているのかという事です。『美夜空』っていうのは、ただの暗号みたいなものです。二人の娘が『美星』『美月』だから美しい夜空、で美夜空でしょう?あなたが親だと気が付いたときにすぐにわかりました。それでも解らなかったのは、何故あなたが小説を書いているのかです。そして今回の作は東條美月、美月が書いたものだって認めましたよね?それでは今まではどうなんです?今までの物も美月が書いたものですか?」
俺は持ってきたバッグの中から美夜空、いいや、東條美月の小説を取り出した。
「なぜそんな不思議そうな顔をするのですか?ああ、俺が誰かわかっていないような顔をしていますね。覚えていませんか?高校生の時以前美月さんとお付き合いさせていただいた者ですけれど、一回あなたにあったことがありますよ?美月さんのお母さんが亡くなった時に一回ね。だから私は美月の事も、あなたの事も、美月の姉の美星さんの事も知っている。それでも解らないんですよ。結局は最後ここに辿り着く」
俺はだんだんと東條尋に近づいて、彼の眼を見つめる。
「なぜあなたは小説を書いているんですか?それを今日確かめるためにある人に来てもらいました。今から呼んできます。ドアの外に居ると思うので」
と俺が外に向かおうとする。すると背後、つまり東條尋の方から声が聞こえた。
「わかっているよ、来ているのだろ?美星が」と言った。
何故、東條尋が美星の存在に気付いたのかわからなかったけれど、俺は察せられたとおりに彼女、東條美星を彼の部屋の中へと入れる。彼女はドアの外で下を向いて立っていて、その姿が昔見た美月の雰囲気に似ていて、少し心が苦しくなった。
靴をぬいで畳の部屋を歩く。歩くと言っても歩くほどのスペースがなくて、二人でも一人でも狭いと思っていた部屋は三人でもう既にいっぱいとなっていた。
黒いカーテンが入り口の右手の出窓と、入り口の目の前にある布団が敷かれている側の窓にかかっていて、中はとても暗かった。電気をつけていても、電球は小さくて点滅していて、今にも消えそうだった。
誰が話し始めるのか、お互い譲っている感じだった。東條尋はずっと黙ったまま呆れたように呆けていて、美星は俯いたままだった。ここは俺しかないとだんだんと察してきた。
「先程言ったように、美星さん、この人があなたの父親ですか?」
改めて確認すると、彼女は小さくゆっくりうなずいた。その様子を東條尋が覗いている所を俺は見逃さなかった。
「それでは本題に入りましょう。何故、東條尋さんは小説を書き続け、今回だけ、美月の作品を盗作したのかという事」
それを言った瞬間、一点を見つめていた東條尋は顔をあげて俺を見つめた。驚いている様子だった。
「他の作品は盗作だと疑わないのか?」
そう彼は言った。その瞬間俺は少し口が滑ってしまったと思った。
それでも俺は誠実に彼に説明をしようとした。美星はその様子をずっと俯いたまま聞いている。
「あなたの作品であるか、美月の作品であるのか位わかります。これでも大手の出版社に勤めている身ですし、それに一回、美月の新人賞の作品を読んでいますから」
大川が担当していた新人賞の作品だった。
「そこまで違うのか?」
低い声で訊ねた。俺は彼の睨みつけるような眼をまた見た。そして俺はその時にこの人はこの眼しかできないという事を知った。今思い出してみれば、今までも彼はこのような目つきをしていたのかもしれない。濁った黒い瞳、これは何処か…。
「全然違います。あなたは何を見てこの本を書いたのですか!」
俺はだんだんと気持ちが高ぶってしまって、この男が、何故美月の小説の事を一番にわかることができないのか、どういう思いで美月がこの小説を書いたのか、という事を考えると、それだけで気持ちのコントロールができなくなっていた。
俺はもう一度何百枚ものコピー紙に印刷された小説を彼に突きつける。
「何する」彼は怒った。
「どうもこうもありません。あなたは美月の事をどう思っていたのですか?彼女はあなたが何もできなかったから死んだんですよ!それなのになんで、なんで、あなたは!」
俺はもうどうしようも出来なくて、目の前いにいる無責任な、無情な、無自覚な男を見て殴りたい思いを止めることはできなかった。
低い丸いちゃぶ台を隔てていた二人の間隔を詰め寄るように、俺は正座していた足をあげて、ちゃぶ台の上から彼を殴ろうとした。
一瞬何が起きているかわからなかった。
自分の眼がその光景を確認すると、何故か手が思う様に動かなくて、思いっ切り握り締めていた掌は、徐々にほどけていき、やがて力を失った。
俺が向けた拳の先には、美星がいた。
実の父を盾になるように。
何故だ、どうしてだ。俺にはその疑問しか浮かばなかった。
俺は眼を点にして、その力なき拳と、前に立ちはだかった真剣な目つきをしている彼女を見ていた。
そしてその立ちはだかる彼女の後ろには、俺と同じく、大きく眼を見開いて、そして、
涙を流している男性がいた。
その男は、ぼろぼろにしわくちゃの洋服を着て、変なにおいがして、そして何よりひげがぼさぼさで不清潔だった。
それなのに、目から流れる涙は、ダイアモンドを溶かしたような液体が流れていて、汚い肌を流れて行って、浄化しているようだった。
そして、自然と彼は口を開いた。
「ど、どうして…」
俺も同じ感情だった。何故かわからない。ここへ来るまであそこまで実の父親の事を否定していた彼女が、罵倒していた彼女もまた涙を流していた。肩を震わして、そして綺麗な瞳で俺の眼を見つめてくる。
「私にもわからないよ!」この部屋に響く大きな声だった。もしかしたら隣の部屋や下の階も部屋に筒向けだったかもしれないが、彼女はそんな事を気にせず、涙にも気にせずこう語った。
「どうしてか、わからない。けれど、私は解るの。なんで、お父さんが挫折した小説を書きていたのか、そしてなんで今頃になって、美月の、あの子の小説を書いたのか」
「どういう事?」俺はおどおどした声でそう尋ねた。
それでもほとんど泣きじゃくった美星の事を放っておけなかった。俯いて叫んだ彼女の背中をさする。
彼女はそんな俺を構わないようにし、そして東條尋の方を向く。
「もう、うまく言えない。お願い、言ってよ。お父さんの口ではっきり言ってよ」
彼女はまた涙をいっぱいに溜めた瞳を顔をあげて向けて初めて美夜空の方を見ていった。
彼はまだ涙を流していた。拭かずに顎からしたたり落ちて、しわくちゃの洋服に染みて、染みた色が現れた。
東條尋はまた鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。それでも必死に何かを押えようとしているのが感じられた。何か言いそうになって、言うのを止めて、また下を向き始めた。
そして彼は俯いたまま語りだす。口元が見えなくて、声が聞こえた。
「俺は…」
東條尋はまずそう言った。そしてそのあとに聞こえてきた言葉はこうだった。
俺はもうじき死ぬんだ
まずそう言った。
前回勝手に休んですみません!!




