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なにもない六日の日  作者: 水無月旬
四日の日
23/31

四日の日 1



 目覚めの悪い朝だった。会社を三日連続で休んでいる金曜日とは思えないほどの値付けの悪さで、最近ずっとこんな調子だった。

 やはり仕事をしていた方が、生活リズムが取れているようで、たぶん自分は五月病にはならない人種かな、なんて思っていた。

 それでも今日は朝早くから出掛けなければならない用事があった。

 火曜日に出向いた場所へ行かなければならなかった。あんなところ二度と行くものかと思っていたけれど、いかなければならなくなった。

 母さんにもそう言っておいて、朝食を食べたのちに、いつものように身支度をして、一応社会人っぽく黒色のズボンに半そでのワイシャツを着ていた。

 黒いバッグにコピー用紙がいくつか入っているプラスチックのファイルをいれて出かけた。いつもと同じように白いワゴン車に乗る。

 白いワゴン車の車内の時計は未だ直っておらず、そしてまた直すつもりも甚だなかった。

 エンジンを掛け、丘になっている集落のアスファルトでできた坂道を一気に下って、広い道に出た後、山を登り始める。山を一つ越えた先にある集落に行かなければならなかった。

 その時に俺は今日見た夢を思い出していた。

 十年前の事だった。

 まるで俺がこの出来事に関わらなくするために思い出させた夢のような気がしてきて、どこからか空恐ろしく感じた。

 樹海に入って、太陽が樹の葉で見えなくなるような木陰の道を走っていた。途中ですれ違う車が数台あり、俺はそれを難なく避ける。

 自分はなんでこんなことをしているのかがまたわからなくなった。

 気がついたら自分は東京の出版社に休みをいれ、こんな片田舎の故郷に帰って来ている。忘れたかった過去を思い出し、それを自ら傷を抉るように掘り起こしている。

 木陰の道を通り過ぎいくつかのくねくね道を通り過ぎると、山を一つ越え、集落が見えてきた。

 近づくと昔から変わらないバス停があり、丸型の鉄板が錆びているようだった。

 そのバス停からその集落の中へ入って行って、昔、二十分もかけて歩いていたアスファルトの道路を白いワゴン車で抜けるように走る。

 すぐ目的地に辿り着いて、俺はここら辺では珍しい二階建ての一戸建ての家を見た。十二年前も、十年前も、三日前も変わりがないその家には、早く来て間に合ったのか、ガレージに赤い乗用車が止めてあった。

 家の前のインターホンを押す。

 ピーンポーン。耳に覚えがある機械音が流れた。

すると昔みたいに何時間も待つようなことがなくて、外からでも聞こえるような階段を降りる音が家の中から聞こえた。

「はーい」

 その声の主は女性で、これも聞き覚えのある声だった。

 怪しまずドアを開けるその女性は、最初は営業スマイルのような明るい笑顔で出迎えたけれど、そのお客が俺だと気が付くと、何か不満そうな顔をしていた。ちなみに女性の服装は開けたジャマ姿だった。田舎ではそういう事は気にしないのだろうか。

「どうも」

 俺は小さく会釈する。

「なんだ、またあなた?」

 やはり不満だったようだ。

「ちょっと上がってもよろしいですか?」遠慮せず言った。

「いくらなんでも早すぎません?今八時ですよ?」

 俺は腕時計を見る。もちろん早いことは分かっていたが。

「いや、あなたが仕事へ行ってしまうのではないかと思いまして」

 そういうと、彼女は少し小さな溜息をしてこう言った。

「今日は休みをとっているんです。それに私が仕事に行っていたとしても、学校に来ればいいでしょう。昨日みたいに」

「あなたとゆっくりと話がしたいんです。学校ではできないでしょう」

「それなら余計、朝来たって無理な話でしょう」

「いいえ、あなたと話をするアポが取れればいいです。その必要はないようですが」

 彼女は俺を家に上げたのちに台所に立つ。もう彼女の開けた様子を見ても邪な考えは一切浮かんだりしなかった。

 またほのかにコーヒーの匂いが立ち込め、そののちに彼女は俺にカップに入ったブラックコーヒーを持ってきた。

 俺は一口啜る。また程よい酸味が広がるコナコーヒーだった。

 彼女はソファーに座って俺の顔をまじまじと見てくる。まだパジャマ姿だった。

「俺の顔に何かついています?」

 そう聞くと彼女は呆れた顔で、

「そちらが用事があると言うから家に入れたんでしょう?で、何の用事があるの?」

 俺は少しはっとして、黒いバッグの中からプラスチックのファイルを取り出す。そしてその中から出したのは三日前に彼女、東條美星から受け取った、東條美月のあとがき文だった。

「このことなんですが…」

 彼女は、俺がそのコピー用紙に印刷されているあとがき文をソファーの近くにあるテーブルの前に置くと、幾分か納得した様子で、

「あー、読んだ?」

「読みました。けれど、昨日あなたが言っていたことの意味がよく解らなかったので、不本意でしたが聞きに来ました」

「ずいぶんとはっきり言うわね」

そう言っても彼女は別に悪い気はしていない様であった。

「これを読んで少し変だと思う所はありました」

「ふーん、どういう所が?」

 俺はバッグの中からシャープペンを取り出して、芯を出さずに、テーブルの上に置いてあるコピー紙を刺して説明した。

「まず、この文は基本読みにくいです。変な所にひらがなが使われているし、それに行替えが少ない」

「私は美月が書いていたままに書いたのよ」

「そうでしょうね。そうでなければ、漢字の変換も、行変換もするはずですから。だから俺はこの点が何かヒントになっているのではないかと思ったんですが」

「大体あってるわ」

 彼女はさらりと言った。

「えっ?」

 俺は彼女の方をあとがき文から写して見上げた。

「もったいぶるのもあまり好きじゃないからね。はっきりと言ってしまうけれど」

 彼女は俺の掌からシャープペンを奪い取って、芯を出す。そしてあとがき文に印をつけていく。


 わたしは書きたい本がそのまま書ければ本望だと思っている作家です。

 たしかに私は最近、思い悩むことがあるのです。

 しゅかんてきに書いた物語は必ずしも万人うけのするものではありません。

 はたから見ると私達作家を職業にしたい者は万人うけのする作品を書くのが一番だと、いま本を書いている私は思います。けれども私は主観的に本を書きたいとおもう志が、ちょうせんしたいという気持ちが拭えません。私は片田舎出身の都会生まれじゃないですので、昔から自由に生きてきました。だからこそ自分が感じる普段のちょっとした、かんせいを表現したいと常々思うのです。今でも自分が書いている本がうれるか気になってしかたがありません。私が、作家を目指して一番よかったと思うひは、自分の書いていたかず少ない作品が完成する日だけです。私は今作も自分のかろうを押しのけて、自分自身がやりたいと思った作品が書けて良かったと思いこの本を出版させていただきます。この本を手に取って頂いた皆様、この本の出版のごきょうりょくをしてくださった皆様、本当にありがとうございます。私の本を少しでもごらんなった事のある方、一度も読んだ事のない方、様々な方々に私のほぼ趣味からかんこうした私のこの本が、読まれて頂けると想像したら、それもまた幸せです。表現で言葉は華やかになり、それを感じる人は豊かになって文学を楽しみます。

 いつの日かまた私の書いた本を読んでいただけたら幸いです。

 たいせつに今の気持ちを閉まっておこうと思います。   


 その印はガサツな丸印で、あとがき文の各行の一番上の文字をまるで囲んでいた。

 俺はそれを見ていた。そしてその印がついた所を右から順番に読んでいく。


「わたしはいちのせかずやをあいしていた」


 俺は声に出して読んだ。その瞬間、頭が真っ白になって、何を考えていいのかわからなくなった。

 すると今日までに思い出した記憶が俺の眼の前を駆け巡り交差させ、引き込んでくる。

 漢字にするとこうだった。

「『私は市野瀬一矢を愛していた』これが、美月があなたに残したメッセージよ」

 暗い記憶を彷徨っている俺の元に声が届いてきた。東條美星がそう言って、俺は一瞬眼を覚ました。それでも俺の眼は今手にしているあとがき文の方にいかなくて、うようよと彷徨っていた。

 感情が市野瀬一矢という存在に留めておけなくて、体も震えとなって呼応している。

 気がついたら涙が出ていた。それでも手に力が入らなくて俺は拭えずにたらたらと流していた。

 そして徐に口を開いた。

「どういう、こと…です?」口元が震えて上手く喋ることが出来なかった。

「この通りでしょう。美月はあなたを愛していたのですよ」

 彼女は微笑んでいった。今までの俺を試すような、少し馬鹿にするような意味深な笑いではなく、安らかな顔をしていた。これが本当の東條美星の素顔かもしれない。

「で、でも」俺は反論せずには居られなかった。

「どうしました?」

「美月は、俺と別れて…そして死んだんだ」

 俺は頭を下にかがめていたために、涙は頬を伝わらず、目の前にあるあとがき文に垂れていき、コピー紙のインクが滲んで文字をぼやけさせた。

 それでもあのひらがなははっきりと見えた。

 俺がそういうと東條美星は急にソファーから立ち上がって、台所側に置いてある電話が置いてある台の引き出しから一枚の紙を取り出した。

「どうかしら?」そう言って美星は俺にその紙を渡す。

それはコピー紙でもなく原稿用紙でもなく、ただのB5ノートの切り取った一枚だった。

「これは…」

 俺はそう呟いて眼をその紙に移した。その紙にはシャープペンで綺麗に文字が書いてあった。書いてある内容は美星から渡された東條美月のあとがき文と同じ内容だった。小さい丸文字で行と文字数がしっかりと整理されて書かれていた。

 一目見て、これは彼女、東條美月が書いたものだと分かった。

「最後を見て」

 俺はその一枚の左側に書いてあるものを読んだ。すると美星からもらったコピー紙には書いていないものがあった。それは文じゃなかった。

 最後にはこう書いてあった。

『40文字×40行  四月六日、月曜日』

 俺は大きく眼を見開いて、そのノートの一枚の文をまた読んだ。そしてそれにもしっかりと中身が同じひらがな、漢字、文字数になっていた。

 そして彼女、美星をまた見る。

「そういう事よ」

「どういうことだ?四月六日に美月は確かに死んだんだ」

 俺は心の中で嫌な風が吹いていた。何かよくつかめなくて、手に取ろうとするとすり抜ける重くて生暖かい風が吹いていた。

 もやもやすると言ってしまえばそれで終わりなのだが、俺はなんで彼女がこんなメッセージを残したのだろうか。

 美星はこういっていた。

『あなたの中では死んでいないのよ』

 本当にそうなのだろうか。美月は俺の中で忘れようとしていたし、美月も買って二審で逝った。俺と別れて、気がおかしくなって、終いにはダムなんかで自殺した。

 俺が考えに考えた末に何もたどり着けない道に辿り着いたとき、

 美星はこう言った。


「あの子にも心残りがあったのでしょう」



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