なにもない六日の日
四日の日
なんで俺はこんなことしかできないのだろう。不満を隠しきれない二人の娘を見てそう思った。
姉は何でもできるしっかりとした女性で、気が強くて成績も運動もできる文武両道だった。それと対置に下の娘は、物静かで友人もあまり持たないおしとやかな女性だった。成 績も普通で運動はどっちかというと苦手で読書が趣味だった。
そんな下の娘に友達が出来ていると知ったのは最近の事だった。もっと言うとその友達と交友をし始めたのはもっと昔のようだった。
妻が死んだ時に知り合った少年だった。
妻が死んでから娘たちは元気がなくなった。姉は負けん気を持っていたから人前ではそんなそぶりを見せなかったが下の娘はそうではなかった。
だから俺はその少年が彼女の支えになってくれると信じていた。
こんな駄目な父親を持った彼女等を後悔させるばかりでなく、それ以上の幸せをつかんでほしいと思うしか俺には出来なかった。
この過去が俺の過ちの始まりだった。
過去とは過ちが去ると書く。
もしかしたら始まりはもっと早かったのかもしれない。
けれどもただ言えることは、未来は誰にも変えられなくて、過去はもっと変えることが出来ない。という事だけだった。
高校三年生の四月の出来事だった。今思い返せば春というのは事の始まりが多いという事だった。良きものもあれば悪きこともある。春と言えば、出会いの季節だ。
三月を迎えれば別れの季節もたくさんあり、去年三年生だった上級生は全員卒業して先輩となった。我が学校は在校生の上学年を上級生と言って、卒業したOB、OGの事を先輩という事が習わしになっていた。
先月初めて高校の卒業式に参加した自分としては、来年自分があの卒業証書授与の舞台に立つことを想像していた。
多分その時は、新生活の期待と、不安が入り混じった複雑な気持ちになるだろう。やはりその時にならないと分からないものだ。
そして改めて三年生になった自分としては今年がどんなに大変な年になることかと覚悟していた。やはり大学受験は大変なもので、高校生とはやっぱり大変なのである。
明日から始業式。四月一日から高三になった俺は明日の始業式から正式に三年生になるのだ。
学校始まってすぐに三年生は文化祭の企画やインターハイで忙しくなる。それは全国平均的な結果ではなく、この鄙びた片田舎の公立高校でも例外ではなかった。
春休み最後の日、俺はある一本の電話を承った。
それは電話がかかってくることが予想できなかった人物だった。
「もしもし?」
返事がなかった。
「も・し・も・し」俺は少しおでこに皺を寄せて、一文字一文字はっきりと嫌味ったらしく言った。
『もしもし、あの東條ですけど…』
小さく消えてしまいそうな声だった。電話だと幽霊のように聞こえて何か恐ろしかったけれど、声の主がわかったのでひとまず安心する。
「美月?」
その声は聞こえ辛かったけれど東條美月の声で間違いはなかった。
『一矢君?』
少し驚いたような声が聞こえた。語尾のトーンが少しだけ上がった。
「そうだけど、なに?」
俺は握っているダイヤル式の電話を耳にあて、少しニヤニヤした心が高揚した様子でカレンダーを見ながらそう質問した。その昂揚感が彼女に誰無いように抑えるのが大変だった。
『今日会えないかな?』
「えっ?今日?」
俺は少し驚いた。まだ目線をカレンダーから放さなかった。
今日は四月五日。明日は始業式で四月六日だった。
カレンダーの四月六日には赤い丸で印がつけてあって、俺はそこを見つめていた。
『だめ…かな?』
「ううん、ううん。全然大丈夫。今からどこにでも行ける」
俺は興奮していた。たとえ彼女との記念日と一日ずれていても全く関係がなかった。
『じゃあ、私の家の近くの公園ってわかるかな?』
「あの駄菓子屋が目の前にある」
『うん、そこ』
「いいよ、じゃあ今から向かうよ」
今は日曜日の昼下がり、時間的にも余裕だし、何より彼女からのお誘いを断るわけにはいかなかった。
電話を切る。
電話からはツーツーという音が聞こえ、ダイヤル式の電話を元の位置に掛けた。
俺はだらしなく過ごしていたジャージ姿を止めて、髪も一応セットして、出掛ける準備をした。
家を出ると、空は春の麗らかな空気と裏腹に、どんよりとした、ずっしりとしている重たい雲を持って、家の集落の四方に佇む山を覆い被せていた。
天気を見て、何か気分が悪いが、俺は近くのバス停へ行き、いつもと時間は違うけど、同じ系列のバスへ乗る。するといつも乗らないから気づかないが、運転手がいつもと変わらず、相変わらずのおっさんの古臭さしか感じられない運転手だった。
それでも俺の気分はうきうきだった。
山を一つ越えた先にある見慣れたバス停と、見慣れた集落が見えた。ここも四方向山で囲まれていて、あれから時間が経って、雨が一つ降りそうな天気だった。山の天気は変わりやすい。
俺はバス停で降りて、初めて美月と会った日の事を思い出した。美月と重ねた思い出はいつも消えることはなかった。
美月の家へ向かう一本道の途中の交差点で左に曲がり、少し木々生い茂る公園が見えた。片田舎の中では大きめの公園であり、その目の前には古びた駄菓子屋が一軒ある。
公園の中に入ると、公園に数本あるソメイヨシノの木が見えた。俺の嫌いな桜の木だった。
その見上げたソメイヨシノの真下にあるベンチに彼女、東條美月は座っていた。
近づくとその青いベンチに座る彼女の隣には小さい猫が一匹座っていて、彼女はその猫に目をくれず並んで一点、地面を見つめていた。
俺は立ち止る。一目見てわかることがあった。
なんだか様子がおかしかった。
その一点を見つめる彼女の顔はどこか深刻で、彼氏である俺が待ち合わせの場所に来ても気にもしない風だった。
来るのが遅かったのかな…。
それでも有り得なかった。俺は電話をもらった後すぐに出かけたし、彼女は俺がバスで来ることもバスの所要時間も知っているはずだった。
彼女に近づいても一点を見つめる目線は変えなかった。
俺は試しに声をかけてみることにした。
「その猫、どうしたの?」
前からこの猫の存在は知っていた。ここへ来るのは一年の夏以来二回目ではなかった。何回も来ていたのでこの猫の事は知っている。頭が良くて、普通の猫みたいに、いなくなったりもしないし、迷う事がなかった。俺はその猫をひそかにアルジャーノンと呼んでいた。
彼女は俺に気がついては居るものの、俺がいないような感じで返事をした。
「この猫、こいつは新月の僕」
どうも様子がおかしかった。前みたいに声にかわいらしさがなかったし、言っている言葉が変だった。
彼女の様子が、つきあってから二年目になる日の前日だとは思えない感じだった。
実を言うと、こういう事があったのは今回だけじゃなかった。
今思い返すと、あれは美月のお母さんが死んで、初めてお墓参りに行った日が最初だったと思う。
俺は今までそのことに触れずに彼女と接してきた。その方が絶対いいと思っていた。
「そうなんだ…」
俺は適当に相槌を打った。
すると急に美月は立ち上がり、俺の方を向いた。
その時急に強い風が吹いた。春先の暖かさと残寒の冷たい風が入り混じったような不安定な風だった。
彼女の髪が靡いて、俺はその瞬間、昔に見た彼女の顔とは打って変わって別の物に見えた。二年前の中学生の雰囲気を捨てきれていない彼女の童顔は、青春が過ぎ去った女性の顔をしていた。
そして靡いた風が収まった時に彼女は言う。もうこの場にはあの猫、アルジャーノンの姿は居なかった。
「市野瀬君」
俺は背筋がぞっとするようなものを感じた。彼女の声が、夜の闇のように暗く、恐ろしく感じた。
そして何より背筋をすーっと通り過ぎたのは、俺の名前が『一矢』ではなく『市野瀬』と呼ばれた、ということだった。
俺はその場で金縛りにあったように体が動かなくて、彼女の少し伸びた髪が覆い隠している彼女の顔を見た。目を反らしたくても反らせずに俺は小刻みに体を震わしていた。
「市野瀬君、私は美しい月では生きられない」
「えっ?」
俺はそのあとの言葉を聞いたとき、耳が聴こえなくなったみたいだった。
目の前が真っ暗になった様だった。
体の平衡感覚が崩れ、地面に叩き付けられそうな重みを体中で感じる。
「もう別れて欲しいの」
彼女は少し薄笑いを浮かべて俺の方を見る。
俺の眼と彼女の眼があって、彼女の眼はもう既に俺を見ていなく、どこか遠い所を見ていた。
黒い瞳は濁っているようで、眠いかと思われそうな半開きにした眼はもうこの世の中を見ている眼ではなかった。
薄笑いしている口元が悪魔のような曲り具合で俺はまたもやぞっとする。
もう俺は何も発することはできなかった。
「もう、あなたと私は関係がないの。だから私がこれから何をしてもゆるして…」
彼女はその場から立ち去り、公園を出て行った。その時、彼女は二度と振り返らずに、どこかへ導かれるようにして、不安定な雲が流れる中、温度を感じないアスファルトの上を歩いていった。
俺はそのあと、茫然と立ち尽くした。怖さが未だに拭えなかった。手が抑えきれない程震えて、目が泳いでどこを見たらいいのかわからなかった。
不思議と涙が出てこないで、不安定な雲からついに雨が降り始めた。
もう自分では涙か、雨かわからず、雨が降った寒さなのか、怖さで震えているのかわからなかった。
俺は力が入らなくて、ベンチに倒れ込んでしまった。それでも雨が降った公園に誰も来ることはなくて、このままでは死んでしまうような気がした。
俺はベンチから立ち上がり、彼女が去って行った方向へ歩いて、曲がった交差点に辿り着くと、彼女の家とは反対側のバス停の方へ歩いた。
俺は雨に濡らされて、バスを待たずに、家に帰った。
集落の家々から抜けて、コンクリートの山道を登る。
坂の上から、雨の水が大量に流れ込んできて、俺の足元はぐじょぐじょだった。足先が濡れていて、冷たくて、痛かった。
それでも俺はただひたすらに傘をささず、歩き続けた。
その時にこんな詩を思い出した。最近古典の授業でやった詩だった。
あひ思はで離れぬる人をとどめかね わが身は今ぞ消え果ぬめる
俺は死んでしまうのだろうか、そう思うほど俺の心は憔悴していた。
俺はずぶぬれになって家に帰った。親に随分と心配された。
普段は無口な父親も頻りに俺を心配してくれて、母さんはいつもの通りに優しくしてくれた。
あれ程疲れ切って、雨に打たれて、凍えるように震えていたのに、風邪を引くことはなかった。
その夜は死んだように寝て、やがて朝日が昇った。
なにもない六日の日がやってきた。
俺は毎日と同じように、朝食を食べて、歯を磨いて、真黒な墨で染めたような学ランを着る。三年生にもなると背丈が大きくなって、立派に見えてきた。
俺は出かける前に鏡を見た。自分の眼を見た。
黒い瞳は濁っているようで、眠いかと思われそうな半開きにした眼はもうこの世の中を見ている眼ではなかった。
それでも俺は普段と同じように家を出た。その時、まだ家で朝食を食べて、新聞を広げていた父親が、
「いってらっしゃい」と声をかけた。
その瞬間俺は不思議と命を吹き込まれた様に感じたが、それもまた俺の心の中にしまい込まれてしまった。
いつもと同じようにバスに乗る。ただ彼女を待つという事をしなくなって、見慣れた山を一つ越えた先にある集落についてもバスの中で、眼を半開きにしたままだった。
学校へ着くと、入学式の跡があって、盛りに咲くピンク色の桜の並木道をくぐった。俺にはそれが、花を咲かす前の無色の灰にしか見えなくて、ふらふらと通り過ぎた。
並木道を抜けると、目の前にはホワイトボードの前に集る新三年生がいて、これもまた去年と変わらず、期待と不安と、クラス分けの結果に振り回される様々な生徒の顔が見えた。
クラス分けを見ると、今年も三組であることがわかって、それを確認して校舎に入る。
新しい最上階の教室の席について文庫本を広げた。内容が面白くもなくて、つまらなくもなくて、この本がどうして百万部もいったのかわからなかった。けれどもベストセラーであることには変わりがなくて、本を読んでいた。
俺はその時、自分が作家になりたかったんだという事を思い出して、また文庫本に目を向ける。
そんな夢を持っていても、その本からはやっぱり何も感じられなくて、文字をただ読むだけの事を俺はしていた。
この頃は自分に情緒を介することが出来なくなったなんてことは分からなかった。
クラスの教師が変わって、その教師が教壇に立つ。
壮年のベテランの女教師だった。教科の担当は古典で、二年の時から、その教師の授業を受けていた。
最初に出席番号一番である俺がその教師の命令で、号令をかけた。
三組のもう顔が大体知れている生徒全員が着席すると、その教師はすぐに出席を取り始めた。
一つだけ、開いている席があった。
その席は美月の席だった。そして俺は東條美月は学校に来ていないことがそのことでわかり、それを確認すると、その教師は自己紹介を始めた。
名前やら、趣味だとか、色々の必須事項の話をした。
そのあとの事だった。
『人生のターニングポイント』壮年の女性担任教師がいきなりこんな話を持ち出した。
その教師は、大学受験というものは人生の大きなターニングポイントだと言う。
俺はそんな話を憂鬱に聞いていた。
『転機』そんなものがこの世にあってはいけないとまでは俺は言わない。
俺にとってそんなものは価値が無いものに過ぎないだけである。
またその説教臭い教師はその転機は人によって、良くも悪くもあると言う。
『好機』そんなくだらないものによって人は人生を成功に運んでいくのである。
『好機逸すべからず』担任は俺たちにこう言った。好機を逃してはいけない。みんな努力して、夢をつかむのだ、と。
誰もが皆、人生の成功を夢に、好機というものを逃すまいと、努力しているのである。
俺はもう頭が冷えた。こんな熱い夢見がちな教師のお言葉など耳も貸さなくなった。
俺はもう考えるのを止めた。そんな事に人生を賭けるものではないと、
俺はもう人生を投げやりにした。これから先は、俺は、俺として多分生きていかないだろう。
ターニングポイント
俺は、そんなものがあったって何も変わりはしない。
そうだ、何も変わらない。何があったって、俺はこの腐りかけた人生を送るしかないのだ。
そうだ、今日、この六日の日は俺のこのつまらない人生のつまらない欠片に過ぎない。
あの人だって、今そう思ってこの俺をどこかで見ているのだろう
今日、この六日の日をそう思って
あの人は、死んでいった。




